プロローグ 空き部屋と優等生の秘密②

「ふざけんじゃないですよあのク〇教師! 女子にデレデレして下半身に脳みそを持ってかれているんじゃないですか!」


「目の前でいきなりリフティング始める男子! 運動できるアピールがなんだっていうんですか! バカじゃないですか!」


 水崎千夏は止まらない。


 むしろ、誰もいないことをいいことに、どんどんエスカレートしていく気配が見えた。


 あわわわわ。


 俺はもう帰りたくなっていた。


 優等生が抱える青春っぽい悩みでも聞いてしまおうと思っていたが、俺には受け止められそうにない内容だった。


 ガラガラと崩れる水崎のイメージ。普段の穏やかな物腰と違いすぎて、俺の頭はどうにかなりそうだった。


 もう逃げようと思った矢先、俺の中の悪魔がささやいた。


(これはスクープだ。あの優等生が他人を口汚く罵っているんだぜ? このことを知ったからこそ、何かを動かすチャンスになるかもよ?)


 悪魔なだけあって、ゲスな発想ではある。けれど確かに、一理はあると思わせられた。


 いやでも、それはさすがに。


 ためらう心があるので、とりあえず俺の中の天使にも意見を聞いてみることにした。


(……)


 天使を待ったが、返事はなかった。


 俺の中には、どうやら悪魔しかいないらしい。


 落ち込んでいた矢先、背筋に稲妻が走った。


 物理的なわけではなく、嫌な予感という漠然としたもの。そういえばヒートアップしていたはずの、罵倒の嵐も止んでいた。


 俺は恐る恐る、顔を上げる。


「……」


「……あ」


 水崎千夏と、目が合った。


 わずかにまぶたを閉じ、口角も緩やかに曲げている。柔らかな笑みを向けられた。何も知らない時の俺だったら、もうそれだけで恋に堕とされてしまいそうな魅力。


 だが、ピクピクと動く眉は、煮えたぎる内心をあらわにしているように感じた。


「見ましたか?」


「いや、見てない」


 堂々と嘘をついた。


 けれどこの状況で、本当のことなんて言えるわけがない。


 見たなんて言ったところで、許してもらえるとは限らない。


 それに、俺が見てないと言うことで、一連の出来事をなかったこととして進められるかもしれない。


 俺はもう、その可能性にかけるしかなかった。


「いや、見てましたよね?」


 あっこれダメなやつだ。


 俺のすがるような願いは、あっさりと裏切られた。


 水崎千夏はどうやら、この出来事をなかったことにする気はないらしい。


 絶望に口をつぐむ俺に対し、水崎はあくまで穏やかな口調で言った。


「ねえ真中明大まなかめいだいさん」


「ん? 水崎さん。なんで俺の名前を」


 水崎は、俺の名前を言い当てていた。


 今までに会話があったわけでも、何かしらの関りがあったわけでもないのに、なんで。


「そんなに難しいことでもないでしょう。私はただ、この学校の人間の顔と名前くらいは、覚えているというだけです」


 なんでもなさそうな口調で、水崎は言った。


「いや、難しいどころか異常だよ!」


 俺は思わずツッコんでいた。


「それで、真中明大さんで、あっていますよね」


「……まあ、あってるけど」


「『月がですね』、という言葉の意味を知っていますか?」


「はあ!?」


 確か夏目漱石が、『アイラブユー』を訳す時に、間接的な表現が日本的だと考えて言った言葉だと、覚えている。


 俺はますます混乱した。


 だってそれを言うってことは、俺のことが。


「え、まさかそれって」


 水崎は、壁を作るかのように微笑んだ。


「勘違いしないでくださいね。私はただ、婉曲的えんきょくてきな表現の方が美しいと考えるだけです」


 水崎が何を言っているのか、ますますわからなくなった。


 俺が混乱していることは意図したとおりなのか、水崎千夏は笑った。


 何かを見下し転がすような、歪んだ笑み。


「真中さんの心臓を取り出したらきっと――ですね」


「多分だけど俺のことをヤる気だな!」


 婉曲的とか言っておきながら、ずいぶんと直接的な表現だった。


 とどのつまり水崎千夏は。


 この出来事を、物理的に潰そうという魂胆だった。

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