『あたたかい無音』

rinna

『水面(みなも)に浮かぶ名前』

春の終わりだった。

陽だまりは柔らかく、制服のスカートが風に揺れるたびに、私はその布一枚の存在に強く身体を意識させられた。


廊下を歩くと、誰かの笑い声と恋バナが耳に入る。

「誰が好き?」「告った?」

そういう言葉は、もう私には遠い。

かつては私も、誰それが好きだと言って笑っていた。けれど、それはいつか剥がれ落ちた仮面だったと今はわかる。

あの頃は、ただ周囲と歩調を合わせていただけだ。

本当の私は、そこにはいなかった。


高校一年の春、私は初めて心を捨てた。

「ねえ、キスしていい?」

「夢でヤッたよ」

「生理って、どんな感じ?」

無遠慮に、親しみのような顔をして、その人たちは私を「女」として踏み台にした。

肌の表面ではなく、魂の一番やわらかいところに、汚れた泥水をぶちまけられたようだった。


あれ以来、人の恋愛話を聞くだけで、吐き気がした。

体の話、妊娠の話、性行為の話——。

それらすべてが、私という人間の輪郭を溶かして、ただの「女」という記号に押し込めようとする。


だけど私は、「女」ではなかった。

見た目がどうであれ、ロングヘアでも、スカートでも、ハイヒールでも、

私の中身はずっと「自分」という名の何者かだった。


——あなたは何者なの?


ずっと問いかけてきたその声は、誰のものでもない。

私の中の「わたし」だった。

「性の対象」として見られるたびに、私は自分の性別を呪った。

けれど、同性に手を引かれた時、心臓がやさしく跳ねた。

触れられたいと思った。

この人となら、夜を分け合ってもいいと思った。


それは「女としての自分」を肯定することではなかった。

「わたし」という存在が、誰かに触れてもいいと思えた最初の瞬間だった。


今も、私は「アセクシャルかもしれない」「レズビアンかもしれない」と揺れている。

でも、名前なんて、もうどうでもいいと思う。

私はただ、「わたし」でいたいだけだ。


ある日、電車の窓に映った自分にそっと問いかけた。


「あなたの名前は?」


水面に浮かぶように、答えが返ってきた。


——私は、私だよ。


誰のためでもない、わたしだけの名前だった。


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