拝啓、愛しの旦那様へ

別槻やよい

拝啓、愛しの旦那様へ


 大きく開かれた窓から、春の華やかさを乗せた涼しい風が入り、庭に植えられた木々の木漏れ日が優しく部屋を照らしている。風になびかれたカーテンが椅子の背もたれを撫でる気配を感じながら、私は手元の資料へ目を落としていた。

 しかし、視線は文字の上を滑るばかりで一向に進まない。一旦資料を手放せばたちまちやる気が失われることは自分が一番よくわかっているため、私はもはや根性で仕事を進めようと足掻いていた。だが、今日ばかりは己の仕事を少し遠ざけても許される気がしていたのも事実だった。

 

 愛する妻を看取り、葬儀を終わらせた翌日だからだ。

 

 窓からひときわ強い風が吹き、カーテンが後頭部を強くはたいた。それはまるで不甲斐ない自分を妻が平手打ちしてきたときによく似ていて、私は思わず後ろを振り返る。

 当たり前だがそこに妻は居らず、今の気分とは真逆の穏やかな青空が、只々窓の向こう側に広がっているだけだった。

 


 

 

 

 妻、ヴィヴィアンはとても美しい女性だった。それは身内の贔屓目という訳ではなく、事実、一度は王太子妃候補に選ばれる程の見目麗しさである。

 彼女は私が騎士として仕えていたクラウビット伯爵家の三女であり、生きる世界も、教養だって何一つ釣り合わなかった。そんな生粋のお嬢様であるヴィヴィアンが、なぜ騎士という身分が格下すぎる私などの妻になったのかといえば、それは彼女が一度離婚をして出戻ってきていたからに他ならない。

 彼女は代々宰相を担うグレイフェザー公爵家へ政略結婚をしたのだが、お相手との相性が最悪だったらしい。かくして傷物となり政略の駒にならなくなった彼女を、伯爵は適当な騎士への褒美とした。

 そう、その"適当な騎士"が私だった。

 

「貴方がわたくしの再婚相手ね。せいぜいよく働きなさい。」

 

 私との初めての顔合わせでこう言い放ったヴィヴィアンは、そのまま扇子で顔を隠すとそれきり一言も話さなかった。

 一瞬だけ見えた、ツンと上を向いた目尻、不機嫌を隠しもしない眉。その様子が気位の高い猫のようで可愛らしく、私は言われた言葉に思わず「はい。」と頷いていた。

 一応私もシーウッド男爵家の出、つまり貴族ではある。だがしかし頭もあまり良くなかったし、彼女に話しかけるような話題も勇気も無かった。

 それでも私は、妻となったヴィヴィアンに好かれたいと思った。扇で隠された彼女の顔が、笑顔でいっぱいになって欲しかった。

 

 そのためにどうすればいいか考えた私は、とにかく仕事に精を出すことにした。ヴィヴィアンにも「よく働きなさい」と言われていることだし、よく稼ぎ、よく貢げば良いのではないかと思ったのだ。

 こうしてあくせく働くうちに、いつの間にか国王陛下の目に留まり近衛騎士まで出世して、"クラウソード男爵"の爵位と領地まで貰ってしまった。ここまで来られたのも、全て愛する妻のお陰である。

 しかし妻は、どれだけ出世しても、どんな贈り物を贈っても、決して笑顔を見せてはくれなかった。

 

「貴方、もう少しお金の使い方ってものを考えなさい。」

「ちょっと、何日も家を無断で空けるなんて当主としての自覚が無くてよ!」

「わたくしの年を考えて選びなさいよ。どう見てもデザインが若々しすぎるわ。」

「出征先から菓子を贈るなら日持ちを考えなさい!」

 

 自分のセンスが無いせいで、どうしても喜んでもらえない。

 しかし職場の侍女や国王夫妻に相談して選ぶと何故か全てバレてしまい、他人の手を煩わせるなと叱られた。

 無難に受け入れてもらえるのは花束だけで、それも屋敷の装飾として使えるからだった。そのため屋敷には、私が彼女に贈った花が至る所に活けられている。

 

 この様に散々な言われようでも贈り物を続けたのは、ヴィヴィアンが私を受け入れようと努力してくれているのがわかっていたからだ。

 妻はたまにだが、私の贈った装飾品を付けてくれることがあったのだ。豊かな金髪に縁どられた首元、そこに「宝石が大きすぎる」と叱られたネックレスが輝いているのを目にした時は嬉しすぎて、思わず彼女を抱きしめてしまったものだ。

 もちろん叱られたのだが、その時のヴィヴィアンは顔を扇子で隠せなかったので、珍しく見れた紅い頬がいい思い出である。

 


 

 

 

 懐かしい記憶が胸の内から湧き上がってしまった私は、深くため息をつきながら両の目を手で覆った。

 かつての思い出がシャボン玉のようにと浮かんでは消えていく。そんな状態で粘ったところで、仕事は永遠に処理できないままだ。そう思った私は、今まで無意味に持ち続けていた資料を手放し窓の外へ目を向けた。

 そこには子どもたちと植えた木が、青々とした葉を天に広げている。たしか、王都に屋敷を構えて、丁度一年後の事だったか。

 飾りのついた白い日傘を差し、泥だらけになった私たちを呆れたように見つめていたヴィヴィアン。その儚くも幸せだった過去を思い描いていた時だった。

 

 不意に扉から聞こえた控えめなノックの音で現実に引き戻された私は、慌てて扉の向こうにいるであろう娘、ヴァイオレットを出迎えた。

 

「お仕事中失礼します、お父様。」

「ああ、いや、丁度休憩しようと思っていたところだよ。紅茶でも飲むかい?」

「では、お言葉に甘えて……。」

 

 そういうとヴァイオレットは普段と変わりない様子で私の執務室に入り、自分でカップの準備を始めた。部屋に置いてある紅茶はすっかり冷えてしまっていたが、私は構わず自分と娘のカップに注いでいく。

 猫舌な私と娘はよくこうやって、妻に隠れて冷えたままの紅茶を飲んでいた。

 

「それにしても助かったよ。ヴァイオレットが手配してくれたお陰で、葬儀をつつがなく行うことが出来た。」

「過分なお言葉です。全部事前にお母様が準備をしてくださっていたから出来た事ですわ。」

「あ……はは、やっぱり彼女には敵わないなぁ。……うん、それでも、ありがとうね。」

「……はい。」

 

 上品な仕草で紅茶に口を付け一息ついたヴァイオレットは、手元の手紙を私の方へ差し出した。それは思いのほか分厚く、目測だが五枚、いや、十枚程の便箋が入っているのではないだろうか。

 不思議に思って封筒をくるりと回して見れば、差出人は書かれていないものの「コンラッドへ」という至極短い文字が目に入った。

 その整った文字は間違いなく妻のもので、コンラッドとは私の名前だった。

 

「お母様がお父様へ向けて残した遺書です。葬儀が終わったら渡すようにと言われていましたの。」

「ヴィヴィアンが……。」

 

 彼女が、私の妻が残した最後の手紙。

 そう思った途端、封筒がぐっと重くなったように感じた。手からじわりと汗が滲み、私は汚してしまう前にと机の上に遺書を置く。

 それを見たヴァイオレットは不思議そうな顔で首を傾げた。

 

「どうかしました?」

「ああ、いや、ええと……。私が読んでもいいものかと思ってね……。」

「お父様へ宛てて書かれた物ですのに、お父様が読まなくてどうするんですか。」

「そう、そうなんだけどね。ははは……。」

 

 言いよどむ私の前で、妻に似た端正な顔立ちを疑問符でいっぱいにしながらヴァイオレットが見つめてくる。まるで責められているような気持になって、私の口から乾いた笑いが微かに響いた。

 私が妻を失ったのと同様に、娘も母を失ったのだ。そろそろ結婚適齢期とはいえ、まだまだ子供として可愛がっていたい娘に、弱音を吐くのはダメだろう。

 

 私は断頭台に立つ気持ちで彼女からの遺書に手を伸ばすと、震える指でペーパーナイフを動かした。

 上部を切られた封筒からは、予想通りおかしな枚数の遺書が姿を現した。慎重に一枚目を取り出した時、怯えた私の目を飛び込んできた文字が貫いた。

 

『拝啓、愛しの旦那様へ』

 

 深呼吸をしてそっと戻した。

 いや、おかしい。何が起こった?

 今見たものが果たして現実だったのか確かめるため、戻してしまった手紙をもう一度見る勇気がこれっぽっちも湧かない。

 愛していた妻の死に動揺しすぎて、自分に都合のいい幻覚を見てしまっている。そうに違いなかった。

 

「ヴァ……イオレット?これは本当に彼女が?」

「え?ええ。お母様が手書きなさっていて、蝋で封をしているところを見ましたもの。間違いありませんわ。」

「えぇ……。ええっと……中を読んだり、したかな?」

「ええ、一部ですけれど。遺品整理の相談も兼ねて、一緒に居りましたから。」

「なるほど、なるほどね。うん。」

 

 なんの疑問も持っていない娘の顔を見て確信する。

 やはりあれは私に都合のいいように歪曲した幻だったのだ。心が弱っているとはいえ、愛する女性の最後の手紙を読み違えるなど、紳士としてあるまじき失態。これではまた彼女に叱られてしまう。

 

『拝啓、愛しの旦那様へ』

 

「くそ、まだ幻覚が見える……!」

「幻覚……?」

「すまないヴァイオレット、一度私の頬を叩いてくれないか。」

「お父様、本当にどうなさったのですか!?」

 

 意を決してもう一度とりだした手紙には、相変わらず信じられない文字が綴られていた。

 取り乱した私の肩を揺すり、ヴァイオレット心配そうな顔で遺書を覗き込んだ。

 

「『拝啓、愛しの旦那様へ』……おかしなことなど何も書かれていないではありませんか。いったいどうしたというのです?」

「いや、それは……。」

 

 おかしい、そう言おうとして私は言葉を失う。

 ヴァイオレットは私の幻覚を一字一句違わずに読み上げた。それはつまりこれは私の幻覚ではなく、つまるところ、ヴィヴィアンが確かにそう書いたということになる。

 だがそれは、この文字が意味するのは、つまり。

 しかしそんなことはありえない。あり得ないはずなのに、おかしな想像が私の口から零れてしまう。

 

「だってそんな……私が彼女に、愛されていたみたいじゃないか。」

 

「……はぁ?」

 

 呆然として思わず零した言葉に、ヴァイオレットは私の肩を揺らす手を止めて絶句した。

 私と同じ紫色がはめ込まれた瞳が落ちてしまいそうなほど見開かれ、釣り上げられたばかりの魚の様に口が開いては閉じてを繰り返す。

 うっかり口にしてしまった弱音を聞かなかったことにしてほしいとは言えず、私はなんとか取り繕おうと頭を掻いた。

 

「す、すまない。こんなことを子供の前で言うなんて親失格だ。うん、そう、仲は悪くなかった。と、思う、本当に。ただちょっと一方的だったかもしれない。そうだろう?」

「……お父様。」

「あれは少し控えるべきだったのかもしれないね。だって遺言でまで気を使わせてしまうだなんて、思っていなかったものだから、だから……。」

「落ち着いてください、お父様。……お願いだから、そんな悲しい事を仰らないで。」

 

 震える声で自分を呼ぶヴァイオレットに、失敗した、と思った。

 妻の教育により貴族としての振る舞いを叩き込まれたヴァイオレットは、滅多なことでは涙を見せない。そんな彼女が、はらはらと悲しみの雨を降らせていた。


「すまない……本当に、すまない。私の失言だった。」

「いいえ、いいえお父様。違うのです。お父様が悪いのではありません……。」

 

「お母様は、ちゃんと、お父様を愛しておりました。」

 

「ヴァイオレット……。」

「クラウソード男爵家の娘として生まれて16年、母の傍で学んできたわたくしの言葉です。どうか、信じてくださいませ。」


 瞼をハンカチで抑えながら告げる娘を前にして、私は情けないことに何も言えなくなってしまった。

 深呼吸をひとつして、封筒に再び手を伸ばす。そぅっと取り出した一枚目の手紙には、変わらずあの言葉が綴られていた。






『拝啓、愛しの旦那様へ


 コンラッド、貴方がこの手紙を読んでいる頃には、わたくしはもうお傍に居ないことでしょう。この度はわたくしの病により手間をかけてしまいましたね。

 葬儀の準備はつつがなく済ませましたし、遺品の整理もしておきました。この手紙をよく読んで、その通りにしてくだされば問題ないはずです。わたくし達の優秀な子供たちの手もちゃんと借りてくださいね。

 あ、食事を抜いてはいけませんよ。たしか休暇は葬儀の3日後まででしょう、近衛騎士の仕事に支障が出てはいけません。シェフに頼んで…(黒消し)…ヴァイオレットが頼んでくれるそうです。

 ジャムはわたくしの手作りなので、全部食べてくださいね。貴方が好きだと言ってくれたブルーベリージャム、もう少し作り置きしておけば良かったわ。


 領地経営や屋敷の管理、そして貴方の身の回りの管理はすべてヴァイオレットと執事に叩きこんでおきましたからご安心くださいね。まぁ、どれだけ伝えてもわたくしが安心できていないのですけれど―――。』






 そこまで読んで、私はそっと娘へと視線を向けた。


「ヴァイオレット、今日の昼食で出たサンドイッチって。」

「わたくしがシェフに頼みました。」

「つい沢山食べてしまったブルーベリージャムは。」

「……お母様の手作りです。」

「そっか……そうかぁ……。」


 もっと味わって食べればよかった……!

 

 後悔しても既にサンドイッチは腹の中だ。そしてもしかしなくとも、結婚してから食卓に並んだジャムの多くは彼女の手作りだったに違いない。

 厨房にはまだ残っているだろうか?だとしたらもっと厳重に保存を……いやしかし、手紙には全部食べて欲しいと書かれているので逃げ場がない。

 頭を抱えて項垂れる私の背を、ヴァイオレットはガラス細工を扱うように優しく撫でた。


「ごめんなさい、まさかお父様が知らないと思わなくって……。だっていつも、あのジャムが使われてるとすぐに気がついて、美味しい!と絶賛してらしたから。」

「いや、普通に他のジャムより美味しくて……ヴィヴィアンも伯爵家の伝手で買ってるとしか教えてくれなかったし……。」

「お母様……。」


 何とも言えない後悔の空気に二人して沈みこんでいると、扉の向こうからノックの音がした。ヴァイオレットの控えめなものよりも少し強めなその音は、息子のクリスティアンだ。

 無視するわけにも行かず、私はふらつく足で何とか扉までたどり着く。途中で本棚に当たり、肩に本が落ちてきたのには気が付かなかったフリをした。


「あ、お父様。お疲れ様で……え?」

「やあクリスティアン、ははは……。」

「ど、どうしたんですか。もしかしてお風邪でも引いたのですか?」

「うん、うん……ちょっと、ね。色々あって。」

「いや、ちょっとどころじゃない事があった顔色ですよ!あ、姉上!一体何が……姉上も!?」


 妻と同じペリドットの瞳をぱちくりと瞬かせ、クリスティアンは私の腕を掴んだ。そして部屋の中にいる自分の姉を見つけると、もはや絶叫に近い声を上げる。


「二人とも何があったんです?自分は母上の遺書を読んで泣いているであろう父上にタオルが必要かと思って来たのに……。」

「うっ……えっと……。」

「クリスティアン、クリス、落ち着いて聞いてちょうだい。」

「待つんだヴァイオレット、うん、少しでいいから。ちょっとお父様、心の整理がついてないからね。」


 ふらりとこちらへ近づいてくる娘に制止の声を上げる。

 まずい。とてもまずい。

 クリスティアンの様子だと、おそらくこの子もヴィヴィアンが、妻が私を愛していたと確信している。

 必死にヴァイオレットの次の言葉を止めようとするが、流石は愛しき妻の一番弟子。彼女は己の意志を貫き、その小さな口から残酷な真実を紡いだ。

 

「お父様は、お母様に愛されてることをご存知なかったの。」


「…………はぇぇ……?」

「く、クリスティアン!だから待てと言ったのに……!」

「すみません。でもこの事実で姉の私だけが衝撃を受けるのはなんだか癪で……。」


 あまりの衝撃で、クリスティアンは床に倒れた。

 言われたことを何度も反芻しているのか、虚ろな瞳が天井の継ぎ目を行ったり来たりしている。日頃の鍛錬のお陰か、無意識で咄嗟に受身をとったらしく、頭は打っていなかったのは幸いだった。






 気分を落ち着けるため冷めた紅茶を飲み干した私は、一周まわって開き直っている娘と、何とか立ち上がれるようになった息子とともに亡き妻の私室を訪れていた。何故ならばそう、子供たち二人の発案で、彼女が遺した品々の整理を急遽することになったからだ。

 ヴァイオレットは私の失言を相当重く受け止めたらしく、手っ取り早く誤解を解くにはこれしかないと肩を怒らせていた。一方のクリスティアンは、全くもってその通り!とでも言いたげな顔で私の後ろを歩いている。まさに戦場で退路を絶たれた時よりも諦めの気持ちが顔を出す布陣だった。

 

 ヴィヴィアンの私室は、私の私室と夫婦の寝室を挟んで隣にある。もっとも、彼女が生きている間に私がその部屋を訪ねた回数は、片手の指で数えられる程度だったが。

 誤解のないように言っておくが、決して行くのが嫌だったのではなく、行く必要が無かったのだ。何故なら彼女は、私が屋敷に帰ってきている時は素っ気なくも視界のどこかには居てくれたから。

 

 オーク材で作られたアンティーク調の扉は、ヴィヴィアンが病を患って寝室を一階に移してからはめっきり開けられなくなった。ただ、娘は身辺整理のために数度中を訪れていたらしい。

 躊躇う私の前で、ヴァイオレットが手慣れた様子でこげ茶色の扉に鍵を差し込む。

 

「それにしてもまさか、家の中でも外でも関係ないとばかりに仲睦まじかった父上たちが、そんなすれ違いをしていたとは。」

「ええ、もっと言ってやってクリス。お父様はお母様のさりげないアピールに全て気が付いたうえで"愛されていなかった"などと頭の痛くなる様なことを口にしているのよ。」

「そんな馬鹿な!」

 

 呆れた様子のヴァイオレットが扉を開けながらため息をつけば、それを聞いたクリスティアンは化け物を見るかのような顔で声を上げた。

 この姉弟は昔から仲が良く、会話をすると実は事前に打ち合わせていたのでは?と思うほど息がぴたりと合うのだが、こういう時は凶悪だ。私はこの子たちに舌戦で勝てる気がしない。

 

「香水を変えたことも、化粧直しした箇所も、前髪をほんの少し切ったことも全て気が付いてべた褒めしていたのに!?自分なんて全く気が付かなくて、何度母上や姉上に叱られたことか……!」

「本当に可愛かったし……言葉にしても嫌がられないから言ってもいい事なんだと思って……。」

「見返りもないのにあの溺愛ぶり……自分は今、過去最高に父上のことを恐ろしく思ってます。」

「そうね。私もそう思うわ。」

「いや……よく言うじゃないか、愛は求めるものじゃないって……。」

 

 もごもごと口ごもりながら、二人の後に続いて部屋に入る。

 数度入ったことのある妻の私室は彼女の高潔さが滲み出ているようで、調度品から書籍、小物など全てが綺麗に整理整頓されていた。これは身辺整理のために片づけたのではないと記憶が語り掛けてくる。

 壁に向かって置かれた書斎机は屋敷が建ったときに私が贈ったもので、「当主の書斎に置くべき机をなぜ妻に贈るのですか!」と叱られたものだ。その代わり、今私の書斎に置かれている書斎机は彼女が選んでくれることになったもので、仕事をするたびについ思い出してしまう。

 

 その書斎机の引き出しを躊躇なく引いたヴァイオレットは、中から豪華な宝石箱を二つ取り出した。

 一つは凝った装飾も無く、ただ機能美を追求したような大きめの陶器の箱。もう一つは随分と繊細な模様が描かれ、この宝石箱自体が一種のお宝ではないかと思うような小振りな箱だった。

 

「お父様、こちらの大きな箱が処分可能な装飾品を入れたものです。そしてこちらの如何にも高価そうな箱が、お母様がお父様以外に触らせるなと仰った装飾品が収められたものになります。」

「私は触ってもいいのかい?」

「ええ、もちろん。中を見れば理由はわかりますわ。わたくしにだって渡したくないほど、お母様が大切にしていたものですから。」

 

 ヴァイオレットはそう言うと、二つの宝箱を開けて見せた。

 

「……これは。」

 

 中を見た私は、ただただ言葉を失った。

 

 大きな宝石箱の中にあったのは、ヴィヴィアンが来客対応をしたり、茶会や夜会に招かれた時に使用していた装飾品たちだ。これらは家に呼んだ商人から妻自ら購入したもので、どれも彼女のセンスが輝いている。

 使用されている宝石は高くも低くもない価格のもので、もっと高い宝石を選んでも良かったのにと言ったら呆れられてしまった思い出があった。

 

 対して、小振りな宝石箱の中には色とりどりで統一性のない装飾品が少し窮屈そうに入れられていた。どれも保存状態が良く、錆びやすい銀のフレームも、全ての光を反射させてやるという気概に満ちた輝きを放っている。

 小さな傷があるものの、一つ一つ大切にされてきたことが分かるその装飾品たち全てに見覚えがあった。

 それはそうだろう。なぜなら全て、私が彼女に贈ったものなのだから。

 

 宝石が大きすぎると苦言を呈されたエメラルドのネックレス。

 詰め込み過ぎだと呆れられた全面ダイヤモンドの指輪。

 デザインが若すぎると叱られた金細工と真珠のピアス。

 

 触れることはどうしても躊躇われて、私はただそれらをじっと見つめることしか出来ない。きっと今見えている装飾品の下には、彼女との思い出が更に埋まっている事だろう。

 胸の奥から喉元に熱が込み上げてきて、息が詰まる。

 ぐっと息苦しさを堪えると、今度は瞼が熱を持った。

 

 たまらず視線を動かせば、部屋の中の小物に嫌でも目が行く。

 壁にかけられたドライフラワーは、いつも帰ってきたときに渡している花束のもの。椅子に掛けられているのはたしか、まだ伯爵家の騎士だった時に背伸びして、初めて贈ったショール。化粧台の上の筆入れなんて、昔出征先で見つけた焼き菓子が入っていた缶だ。

 亡き妻の部屋には、ほんの些細な思い出まで、全て置いてあるように見えた。

 

「全部、捨てずに持っていてくれたのか。」

 

 ぽつりと零した言葉と共に、一粒の涙が頬を伝った。

 一度決壊してしまった涙腺は止まることなく、書斎机の上に温かな雨を降らせていく。

 

「君は私を、愛していて、くれたのか。」

 

 本当に今更だけれど、心の底から嬉しかった。自分の愛は、彼女に受け取ってもらえていたのだと分かって、大切にしてもらえていたのだと知ることが出来て。

 

 嬉しくて、嬉しくて、でも。

 その喜びを伝えたい彼女は、もうこの世にはいない。

 ヴィヴィアンがこの世界のどこにもいないという喪失感が私を襲い、現実という鋭い針が何本も心臓を刺してくる。

 

 胸を押さえながらみっともなく涙を流す私を、二人の子どもは優しく抱きしめてくれた。

 

「お母様はいつも、笑いそうになると扇子で顔を隠してました。でも、横に居たわたくしたちにはバレバレでしたわ。」

「父上が屋敷にお帰りになる予定の日なんて、母上は王宮に行く時よりも気合を入れて着飾ってそわそわしてましたよ。」

「お母様のドレスルームも後で見てくださいね。お父様があまりにも褒めるものですから、捨てるに捨てられないとぼやいていました。」


 子供たちの思い出話が、私の胸に刺さった棘を一つずつ抜いていく。

 もしかしたら本当は、私もとっくに彼女の愛に気がついていたのかもしれない。妻の言葉の節々に私を心配する色が見えた時、花束で両手が塞がった時に見えた赤い頬。

 "ヴィヴィアンに愛されている"などと自惚れてはいけないと、勝手に愛を受け取らずにいたのは私だったのだ。

 

「ふふふ。呆れた顔を作っていたけれど、口が、にやけていたわよね……。」

「そうそう。まったく……母上は素直じゃ、ないんだから。」

 

 そう言って微笑むヴァイオレットとクリスティアンの声も、心なしか震えている気がした。

 いや、恐らく気のせいではないのだろう。抱きしめてくれている二人の顔が当たる肩口に、温もりがじわりと染みてきているのがわかる。

 

 私は頬を濡らしながら二人の頭を抱き寄せると、ありがとうと呟いた。

 何度も何度もそう言いながら、ヴィヴィアンと同じ金色の髪を撫でつける。私たちの宝物は、腕の中で声を上げて泣いていた。






『――ねえコンラッド、貴方は覚えていますか?わたくしと初めて顔を合わせた日のこと。

 あの日のわたくし、自分で思い返しても驚くほど気が立っていて手が付けられなかったでしょう。

 当時、父には「精々家の役に立ってこい」と言われ、結婚した相手には愛人がいて……。男なんて、結婚なんてと自棄になっていたのです。

 それなのに、跪いてわたくしを見つめる貴方の菫色の瞳が、まるで穢れを知らない子犬のように可愛らしく思えてしまって。わたくし、それが何だかとても恥ずかしく思えたのです。まったく、子供みたいでしょう?


 今になって思うの、きっとあれが初恋だったって。

 わたくし、貴方に一目惚れしたんだわ。


 貴方に出会って、愛が夢物語じゃないと知ったの。愛されるということが、家族というものがこんなに温かいものだと初めて知ったのよ。

 コンラッド、わたくしの愛しの旦那様。

 どうしても恥ずかしくて貴方への思いを言葉にできない、不愛想なわたくしを愛してくれてありがとう。貴方と、そしてわたくしたちの宝物が、これから先も幸福であるよう祈っています。

 最後になってもきっと言い出せないでしょうから、ここに遺していくことを許して頂戴ね。

 

 わたくしも、貴方を愛していたわ。』

 

 

 


 

 休暇が明けて、今日からまた王宮勤めが始まる。

 朝早くに出かける私を、二人の子どもと使用人たちが見送ってくれた。庭の枝には早起きな小鳥がさっそく歌を歌い、私を背に乗せる予定の愛馬は少々煩わしそうに石畳を掻いた。

 

「父上。自分はそろそろ寄宿学校へ戻りますので、次に会うのは夏ごろになるかと。」

「そうか……あまり無理はしないように気をつけるんだよ。剣を落としたら?」

「焦って拾いに走らない、ですよね。」

「ああ、偉いぞ。」

 

 朝日と同じ色をした髪を優しく撫でれば、クリスティアンは誇らしげに胸を張った。まだ体つきも幼いが、すでに指導官と互角の腕を持っているらしい。私の数少ない教えを守ってくれているお陰で、いままで大きな怪我も無くここまで育ってくれた。

 ーー将来は貴方と同じ近衛騎士になりたいそうですよ。そう言いながら扇で顔を隠していた妻も、この子と似た誇らしげな顔をしていたんだろうか。

 そう思うと、この仕事も悪くないなと思える気がした。

 

 撫でられているクリスティアンの横で、微笑まし気にこちらを見ていたヴァイオレットは母親と似た扇子で顔を隠した。

 ただ、顔全てを覆い隠していたヴィヴィアンとは違い、娘は口元だけだ。

 妻亡き後、屋敷と領地の管理を任された若き女主人は私ににこりと笑顔を向けた。

 

「淑女たるもの、人前で表情をくずことなかれ。というのがお母様の教えでしたけれど、先日のお父様を見て考えを改めましたわ。何事も隠しすぎは良くないですわね。」

「そうだなぁ……。確かに、その通りかもしれないね。」

「姉上は目元だけ出てると凄味が増すけどね……。」

「何か仰って?」

「いいえ、何も?」

 

 つい……と、姉の笑っているようで笑っていない視線を向けられた弟は、無罪を主張するように両手を上げてしらを切った。

 仲睦まじい娘と息子を見て、私は思わず吹き出してしまう。笑いながら二人の頭を撫でれば、彼らも私につられたようにくすくすと笑いだした。

 

 ひとしきり笑った後、私は後ろ髪をひかれながらも二人から離れて愛馬にまたがった。彼は待ってましたと言わんばかりに足踏みをし、手綱の合図を待っている。

 

「それじゃあ行ってくるよ。二人とも、早い時間なのに見送りありがとう。」

「はい父上。お気をつけて!」

「お帰りをお待ちしておりますわ。」

 

 手を振ってくれる彼らに背を向け、屋敷を後にする。その時ふと、正門の前に一人の女性が見えた気がした。

 いままでどれだけ早い時間であっても見送りを欠かさずにいてくれた、いじらしい金色の君。天が遣わした私の太陽。

 ただの田舎騎士だった私が近衛騎士となり、王女の護衛騎士まで出世することになったのは間違いなく、彼女が私の妻になってくれたからだ。彼女が残してくれた愛のお陰で、私はまだ生きていくことが出来るのだ。

 

 ああでも、もしも叶うならば、もう一度だけでいい。

 愛しい妻に、ヴィヴィアンに会いたい。

 どうしても伝えたいことが、伝えられなかったことが出来てしまったから。だから、次に彼女の元を訪れるときまでに、手紙を書こう。

 君がくれた初めてのラブレターの返事を。

 

 私の妻になってくれてありがとう。

 私の愛を受け取ってくれてありがとう。

 

 私を支えてくれて、愛してくれてありがとう。



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 お読みいただきありがとうございます。


 相手が死んだ後に、隠された愛に気付く死に別れでした。

 一途な溺愛系ワンコ騎士×ツンデレ猫系お嬢様のカップルは、少し離れた席から微笑ましく見守っていたい気持ちがあります。


 主人公のコンラッドは、ドが付くほどのお人好し。なので、ヴィヴィアンを妻に迎えることがなければ特に向上心もなく、ただの一代騎士としてその生を終えていたことでしょう。

 また、ヴィヴィアンは中世の女性としてはかなり気が強い方でした。なので、実は一度目の結婚相手の愛人を半殺しにしたうえで社会的に殺しています。相打ちです。


 いつかまた、二人が出会えたその時は、きっと同じ言葉を紡ぐことでしょう。

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