第24話「新しい朝」
1
桜が咲く季節がまた巡ってきた。
洸は大学3年生になり、就職活動に忙しい日々を送っていた。黒いリクルートスーツに身を包み、企業説明会から帰る途中、桜並木を歩いていた。
「普通だな」
洸は自分の現状を振り返りながら呟いた。夢を見る能力を完全に失ってから、もう一年が経つ。あの異常な体験は、まるで遠い昔の出来事のように感じられた。
スマートフォンを確認すると、明日の面接のリマインダーが表示されていた。食品メーカーの営業職。特別やりたい仕事ではないが、安定した収入が得られる。
洸の学生生活は、今では極めて平凡だった。授業に出席し、バイトをし、友人たちと他愛ない会話をする。夢の世界での冒険や、Dream Dwellerとの戦いなど、もはや現実味を感じられない。
時々、自分が本当にあんな体験をしたのか疑問に思うこともあった。記憶はあるが、まるで映画を見た後のような、どこか他人事のような感覚だった。
大学の学食に向かう途中、洸は一人の女性とすれ違った。
ミナだった。
2
「あ、洸くん」ミナが声をかけてきた。
彼女は以前と変わらず美しく、優しい笑顔を浮かべていた。しかし、その瞳には夢での記憶の痕跡はなかった。
「こんにちは、ミナさん」洸が丁寧に挨拶する。
二人の関係は微妙だった。ミナは洸のことを覚えているが、あの濃密な体験の記憶はすべて失われていた。洸との間に特別な感情があったことは覚えているが、その理由が思い出せないのだ。
「今日も就活?」ミナが聞く。
「はい。食品メーカーの面接がありました」
「へー、頑張ってるのね」ミナが微笑む。「なんだか洸くんと話していると懐かしい気がするの」
洸の心が少し痛んだ。彼女の中には、確かに二人の記憶の断片が残っている。しかし、それを完全に思い出すことはないだろう。
「そうですね。僕もです」洸が答える。
「一緒に学食行かない?」ミナが提案する。
洸は頷いた。こうして、二人は他愛ない会話をしながら学食に向かった。
学食で洸が感じたのは、不思議な満足感だった。特別なことは何も起きていない。ただの同級生との、普通の会話。しかし、それがとても心地よかった。
3
学食で、洸とミナは田口と出会った。
田口は洸を見ると、困惑したような表情を浮かべた。
「えーと、君は?」田口が洸に尋ねる。
「新田洸です」洸が自己紹介する。
田口は記憶の一部を失っていた。洸との深い友情の記憶は消えてしまったが、なぜか親しみやすさを感じていた。
「なんか、君と話すの初めてじゃないような気がするんだよな」田口が首をかしげる。
「そうですね。僕も同じような感覚です」洸が答える。
ミナが三人の会話を見守っていると、ひかりがテーブルにやってきた。
「みんな揃ってるのね」ひかりが複雑な表情で言う。
ひかりだけが、すべての記憶を保持していた。夢の世界での冒険、Dream Dwellerとの戦い、そして洸とミナの深い絆。すべてを覚えているのに、それを誰とも共有できない孤独感を抱えていた。
「ひかりちゃん、どうしたの?なんか疲れてる?」ミナが心配する。
「大丈夫よ」ひかりが微笑む。「ちょっと懐かしいことを思い出してただけ」
洸はひかりの視線を感じ取った。彼女の目には、失われた過去への哀愁があった。
4
その日の夕方、洸は一人で街を歩いていた。
就職活動の疲れもあり、無性に懐かしい場所を訪れたくなった。
洸が向かったのは、街の一角にある古い洋館だった。
それは唯一残った「夢の建物」だった。収束現象の後、ほとんどの夢の建物は消失したが、なぜかこの洋館だけは現実世界に残っていた。
洋館は誰も住んでおらず、市が管理していた。観光地としても注目されておらず、ただ静かに佇んでいる。
洸は洋館の前で立ち止まった。
見つめていると、不思議な感覚に襲われた。この建物に関する記憶があるような気がするが、詳細は思い出せない。
「あの時の俺は、何を感じていたんだろう」
洸は時々、失われた「特別な自分」への郷愁を感じることがあった。夢の世界で超人的な能力を持っていた頃の記憶は残っているが、その時の感情は薄れていた。
あの頃の自分は確かに強力だった。しかし、同時に人間らしさを失いかけてもいた。
「これでよかったんだ」洸が自分に言い聞かせる。
平凡な日常の中で、ミナと笑い合い、田口と他愛ない話をし、普通の学生として生活する。それは特別ではないが、確実に幸せだった。
5
大学に戻る途中、洸は橋本教授の研究室の前を通りかかった。
研究室は封鎖されたままだった。扉には「立入禁止」のテープが貼られ、中に入ることはできない。
以前は、研究室から不可解な音が聞こえることがあった。しかし、今は完全に静寂に包まれている。
洸は扉の前で立ち止まり、耳を澄ませた。
何も聞こえない。本当に、何も。
「終わったんだな」洸が呟く。
あの異常な戦いは、確実に終結していた。Dream Dwellerは消滅し、夢と現実の境界も正常に戻った。人々は平和な日常を取り戻している。
しかし、同時に寂しさも感じていた。
あの特別な体験は、間違いなく洸の人生の一部だった。危険で恐ろしい体験だったが、同時に自分が特別な存在であることを実感できる時間でもあった。
今の洸は、良くも悪くも普通の大学生だった。特別な能力もなく、特別な使命もない。ただ、平凡な日常を生きている。
「でも、それでいいんだ」洸が再び自分に言い聞かせる。
平凡な幸せこそが、本当の幸せなのかもしれない。
6
その夜、洸はアパートで一人過ごしていた。
明日の面接の準備をしながら、テレビのニュースを見ていた。
「今日も全国的に平穏な一日でした。異常気象や事件の報告はありません」
本当に平和な世界になった。あの頃の混乱が嘘のようだった。
洸がスマートフォンを確認すると、通知が一つ表示されていた。
「Dream Dweller アカウント作成のお知らせ」
洸は心臓が止まりそうになった。
通知をタップすると、見慣れたアプリのアイコンが表示されていた。夢日記アプリ「DreamLog」。あの悪夢の始まりとなったアプリだった。
「新しい Dream Dweller アカウントが作成されました。あなたの夢に無限の可能性を」
洸は一瞬迷った。
再び特別な力を得るチャンス。平凡な日常から抜け出し、超越的な体験をする機会。
しかし、洸は通知を削除した。
「もういい」洸が画面に向かって呟く。
洸は窓の外を見つめた。静かな夜の街。特別なことは何も起きていない、普通の風景。
「今、この現実が、誰かの夢でなければいいが...」洸が独り言を言う。
しかし、次の瞬間、洸は微笑んだ。
「でも、もしそうだとしても、俺はこの現実を選ぶ」
洸は心から確信していた。
たとえこの世界が誰かの夢だったとしても、ここには愛する人たちがいる。ミナとの穏やかな時間、田口との友情、ひかりの優しさ。
完璧ではないかもしれないが、確実に価値のある現実がここにある。
洸はスマートフォンの電源を切り、ベッドに横になった。
明日も平凡な一日が始まる。面接に行き、授業に出て、友人たちと会話する。
特別なことは何も起きないかもしれない。
でも、それでいい。
それこそが、洸が戦って守った世界だった。
エピローグ
桜の花びらが風に舞っている。
洸は学食でミナと向かい合って座り、就職活動の話をしていた。
「内定もらえそう?」ミナが心配そうに尋ねる。
「どうでしょうね。でも、頑張ります」洸が答える。
「頑張って。私、洸くんなら大丈夫だと思う」ミナが励ます。
なぜ彼女がそう思うのか、理由は分からない。でも、その言葉は洸の心を温かくした。
「ありがとう」洸が微笑む。
窓の外では、新学期を迎えた学生たちが楽しそうに歩いている。みんな、普通の学生として、普通の夢を追いかけている。
洸も、その中の一人になった。
特別な力は失ったが、特別な記憶は残っている。そして何より、愛する人たちとの絆は、今も確実に続いている。
洸は心の中で、かつての自分に語りかけた。
『俺たちは正しい選択をした。この平凡な幸せこそが、最も価値のあるものだった』
春の風が桜の花びらを運んでいく。
新しい季節、新しい一日。
洸の物語は、静かに続いていく。
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