第13話「妹への罪」


1


洸は夢の最深層へと降りていく感覚を味わっていた。


まるで深海に沈んでいくかのように、意識が重く、暗い場所へと向かっていく。Dream Dwellerとの新たな契約により得た力で、通常では到達できない領域に足を踏み入れていた。


周囲の景色が徐々に変化していく。最初は抽象的な光と影の世界だったが、やがて具体的な形を持ち始めた。


気がつくと、洸は見覚えのある公園にいた。


「ここは...」


それは大阪の住宅街にある小さな公園だった。ミナが幼少期を過ごした場所。洸は以前、ミナから話を聞いたことがあった。


公園には古い滑り台とブランコがあり、桜の木が一本立っている。平和で温かい雰囲気の場所だった。


しかし、この夢の世界の公園は、どこか歪んでいた。色彩が少し薄く、音も遠くから聞こえるような不安定さがある。


「お姉ちゃん、ブランコ押して!」


突然、子供の声が聞こえた。


洸が振り返ると、7歳くらいの女の子がブランコに座っていた。茶色の髪を二つ結びにした、人懐っこい笑顔の少女。


「ユリ...」


洸は息を呑んだ。これがミナの妹、ユリだった。


そして、ユリの後ろから12歳くらいのミナが現れた。幼い顔立ちだが、確実にミナだと分かる。


「はーい、押してあげる」幼いミナが優しく答える。


洸は隠れるように桜の木の陰に身を潜めた。これはミナの記憶の世界。下手に介入すると、記憶が崩れてしまう可能性がある。


二人の姉妹が仲良く遊んでいる光景は、見ているだけで心が温まった。ミナは妹をとても大切にしており、ユリもお姉ちゃんが大好きだということが伝わってくる。


「お姉ちゃん、今度は滑り台!」


「ユリちゃんは元気だねー」


姉妹は笑いながら滑り台に向かった。


しかし、その瞬間、空が急激に暗くなった。




2


温かな公園の風景が一変した。


空は重い雲に覆われ、冷たい風が吹き始める。桜の花びらが激しく舞い散り、まるで血のような赤い色に変わっていく。


「お姉ちゃん...」ユリの声に恐怖が混じった。


洸が見ると、公園の一角に川が現れていた。最初はなかった川が、記憶の変化とともに出現したのだ。


川は激流となって流れており、その音が不気味に響いている。


「ユリ、危ないから川に近づかないで」幼いミナが警告する。


しかし、ユリは何かに引き寄せられるように川に向かって歩いていく。


「ユリ!」


ミナが慌てて妹を追いかけるが、距離がどんどん広がっていく。夢の世界特有の空間の歪みだった。


洸は状況を理解した。これはあの日の記憶。ユリが川で事故に遭った日の再現だった。


ユリが川に足を滑らせた瞬間、洸は動こうとした。しかし、身体が動かない。この記憶に干渉することはできないのか。


「お姉ちゃーん!」


ユリの叫び声が響く。少女は激流に飲み込まれ、流されていく。


「ユリ!」ミナが必死に川に向かって手を伸ばす。


しかし、届かない。幼い手は空を切るだけだった。


ユリの姿が川の向こうに消えていく。


そして、記憶は暗転した。




3


次に洸が気がついたとき、周囲は真っ暗な空間になっていた。


まるで深い穴の底にいるような、光の届かない場所。


「お姉ちゃんは悪い子だから、ずっとここにいるの」


暗闇の中から、小さな声が聞こえた。


洸が声の方向に向かうと、隅の方で一人の少女が膝を抱えて座っていた。


12歳のミナだった。しかし、その表情は絶望に満ちており、瞳には光がない。


「ミナ」洸が近づく。


幼いミナが顔を上げる。その顔には涙の跡があった。


「だれ?」


「俺は洸。君を迎えに来た」


「迎えに?」ミナが首をかしげる。「お姉ちゃんは悪い子だから、誰も迎えに来ないよ」


「どうして悪い子だと思うんだ?」


「ユリちゃんを助けなかったから」ミナの声が震える。「お姉ちゃんは怖くて、逃げちゃったの」


洸は心が痛んだ。ミナは7年間、この罪悪感を抱え続けていたのだ。


「君は逃げてない」洸が言う。「君は最後まで妹を助けようとした」


「嘘よ」ミナが首を振る。「お姉ちゃんは怖くて、川に入れなかった」


「それは当然だ。君はまだ12歳だったんだから」


しかし、ミナは洸の言葉を受け入れようとしない。長年にわたって自分を責め続けた結果、真実を見ることができなくなっていた。


「お姉ちゃんがもっと早く気づいていれば」ミナが呟く。「ユリちゃんが川に近づかないように注意していれば」


「それは誰にも分からないことだ」洸が膝をついてミナの目線に合わせる。「君は十分に妹を愛していた」


その時、暗闇の中から新たな声が響いた。


「お姉ちゃんを許さない」


洸が振り返ると、川で死んだはずのユリが立っていた。しかし、その姿は生前とは全く違っていた。


全身が水に濡れており、髪は川藻のように垂れ下がっている。そして、瞳は深い恨みに満ちていた。





4


「ユリちゃん!」ミナが立ち上がろうとする。


しかし、ユリは冷たい視線をミナに向けた。


「お姉ちゃんは私を見捨てた」ユリの声に怒りが込められている。「私が苦しんでいるのに、助けてくれなかった」


「そんなことない!」ミナが叫ぶ。「お姉ちゃんは...」


「嘘つき」ユリがミナを指差す。「お姉ちゃんは怖くて逃げたのよ」


洸は状況を理解した。これは本当のユリではない。ミナの罪悪感が作り出した幻影だった。


「君は本当のユリじゃない」洸がユリに向かって言う。


「黙って」ユリが洸を睨む。「お姉ちゃんの罪は消えない」


ユリが手を上げると、周囲に激流が現れた。まるであの日の川のように、激しい水流が洸とミナを襲う。


洸は必死に立ち上がり、ミナを庇った。


「真実を見ろ!」洸がミナに叫ぶ。「君は妹を愛していた!諦めなかった!」


激流の中で、洸は記憶の断片を見た。


12歳のミナが川に向かって手を伸ばし続けている姿。周囲の大人が止めるまで、川から離れようとしなかった姿。


「君は最後まで諦めなかった」洸がミナに伝える。「それが真実だ」


しかし、幻影のユリは攻撃を続ける。


「お姉ちゃんは私を殺した」


「違う!」洸が叫ぶ。「それは事故だった!誰のせいでもない!」


洸は激流の中を進み、幻影のユリに迫った。


「君は本当のユリの心を知らない」洸がユリに言う。「本当のユリは、お姉ちゃんを責めたりしない」


「嘘よ」


「嘘じゃない。妹を愛するお姉ちゃんを、本当のユリが恨むはずがない」


洸の言葉に、幻影のユリが動揺した。





5


その瞬間、暗闇の中に新たな光が現れた。


今度は本当のユリの記憶だった。生前の、笑顔のユリ。


「お姉ちゃん、大好き」本当のユリがミナに向かって言う。


「ユリちゃん...」ミナが涙を流す。


「お姉ちゃんはいつも私を守ってくれた」ユリが続ける。「お姉ちゃんのせいじゃないよ」


幻影のユリが苦悶の表情を浮かべる。真実の記憶に押し流されていく。


「お姉ちゃん、もう自分を責めちゃダメ」本当のユリが言う。「私はお姉ちゃんが幸せになってほしいの」


「でも、私は...」ミナが言いかける。


「お姉ちゃんは悪くない」ユリが微笑む。「私もお姉ちゃんも、あの日は精一杯だった」


洸は感動した。これが本当のユリの心だったのだ。


幻影のユリが完全に消え去り、激流も止まった。


暗闇が徐々に明るくなり、再び温かな公園の風景が戻ってくる。


「ユリちゃん...ごめんね」ミナが泣きながら言う。


「謝らなくていいよ」ユリが言う。「お姉ちゃんはずっと私を愛してくれてた。それで十分」


ユリの姿が徐々に薄くなっていく。


「お姉ちゃん、前に進んで」ユリの最後の言葉だった。「私の分まで、幸せになって」


ユリが完全に消えると、ミナは大人の姿に戻った。


「洸くん...」ミナが洸を見つめる。


「もう大丈夫だ」洸がミナを抱きしめる。「君は何も悪くなかった」


ミナは洸の胸で泣いた。7年間抱え続けた罪悪感が、ようやく解放されたのだった。





6


しかし、安堵の瞬間は長く続かなかった。


「私を置いて行かないで」


新たな声が響いた。


洸とミナが振り返ると、もう一人のミナが立っていた。


それは絶望に支配されたミナ。罪悪感と自己嫌悪にまみれた、もう一つの人格だった。


「私はずっとここにいた」もう一人のミナが言う。「この暗闇の中で、お姉ちゃんを責め続けていた」


「あなたはもう必要ない」本当のミナが言う。「私は前に進む」


「でも、私がいなくなったら、誰がユリちゃんを思い出すの?」もう一人のミナが訴える。「私が消えたら、ユリちゃんの記憶も消えてしまう」


ミナが迷った。確かに、罪悪感は苦しいものだったが、同時に妹への愛情の証でもあった。


「違う」洸が言う。「愛情と罪悪感は別のものだ」


洸がもう一人のミナに向かって歩く。


「君がいなくても、ミナは妹を愛し続ける」洸が説明する。「罪悪感は愛情を歪めるだけだ」


「でも...」


「本当の愛は、相手の幸せを願うものだ」洸が続ける。「ユリは、お姉ちゃんが自分を責めることを望んでいない」


もう一人のミナが涙を流した。


「私は...」


「君の役目は終わった」洸が優しく言う。「もう休んでいい」


もう一人のミナが頷いた。そして、光の粒子となって消えていった。


最後に、小さく「ありがとう」という声が聞こえた。





7


罪悪感の人格が消えると、周囲の世界が明るく変化した。


公園は本来の美しさを取り戻し、桜の花が優しく舞い散っている。


「これで帰れるね」ミナが洸に微笑みかける。


「ああ」洸が頷く。「現実に戻ろう」


二人は手を取り合い、夢の最深層から浮上し始めた。


しかし、洸の心には不安があった。Dream Dwellerとの契約の代償は、まだ支払われていない。現実に戻ったとき、何が待っているのだろうか。


「洸くん、ありがとう」ミナが言う。「あなたが来てくれなかったら、私はずっとあの暗闇にいたと思う」


「俺こそ、君に迷惑をかけた」洸が謝る。「俺がDream Dwellerと関わらなければ、君が危険な目に遭うことはなかった」


「それは違う」ミナが首を振る。「私は自分の意志であなたを助けようとした」


「ミナ...」


「これからは一緒に戦いましょう」ミナが決意を込めて言う。「Dream Dwellerに立ち向かいましょう」


洸は感動した。ミナは恐怖を乗り越え、強くなって戻ってきたのだ。


しかし同時に、新たな不安も感じていた。Dream Dwellerがこのまま黙っているはずがない。きっと、さらなる試練が待っているはずだ。


現実世界への帰還が近づく中、洸は最後の覚悟を決めた。


どんな代償が待っていても、もうミナを一人にはしない。


二人は光に包まれ、現実世界へと向かった。


しかし、彼らが知らないところで、Dream Dwellerは次の策略を練り始めていた。


真の戦いは、これから始まるのだった。


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