第4章:最後の出会い
青梅の街は、初夏の陽光に輝いていた。7月の空は青く澄み、大学のキャンパスでは学生たちが芝生の上で笑い合っている。ハルは研究室の窓からその光景を眺めながら、ノートパソコンに向かっていた。画面には、AIの自律性を制御するモデルの最新シミュレーションが表示されている。ユナの指摘以来、研究は順調に進み、教授からは「これで学会発表は確実だ」と太鼓判を押されていた。だが、ハルの心は、研究の成功よりも、ユナの謎に引きずられていた。
あの紙切れ──「2125.3.17 アラスカ極北研究施設 量子逆行」──は、今もハルの胸ポケットにあった。ユナの言葉、彼女の黒いコート、ボブカットの髪、幼さの残る顔。すべてが、まるでパズルの欠けたピースのように頭の中で渦巻いていた。彼女に会えなくなってから1か月近くが経つ。ハルは喫茶店「オーロラ」や駅前の広場を何度も訪れたが、ユナの姿はどこにもなかった。まるで、彼女がこの世界から消えたかのように。
ハルは研究室のデスクに広げた資料に目を落とした。古い写真──「Alaska Arctic Research Station」と書かれたモノクロの施設──と、教授から聞いた「プロジェクト・クロノス」の情報。どれも、ユナの「量子逆行」と繋がる手がかりにはならなかった。だが、ユナの言葉は、まるで未来からの警告のように、ハルの胸に刻まれていた。「あなたの選択が、すべてを決める」。その言葉が、研究の先に待つ何か大きなものを予感させた。
夕方、ハルは研究室を後にし、青梅の街を歩いていた。大学の裏手にある小さな神社に向かう道は、木漏れ日が地面にまだらの模様を描いている。ハルは時折、この神社に来て頭を整理していた。鳥居をくぐり、石段を登ると、境内には誰もいなかった。ハルは本殿の前に立ち、静かな空気の中で目を閉じた。ユナの声が、耳の奥で響く。「もうすぐ、私、いなくなる」。彼女はどこに行ったのか。なぜ、ハルに接触したのか。
ふと、背後で軽い足音がした。ハルが振り返ると、黒いコートを羽織った女性が立っていた。黒髪のボブカットが、風に揺れている。ユナだった。だが、彼女の表情はこれまでとどこか違っていた。幼さの残る顔に、困惑と緊張が混じっている。まるで、ハルを見るのが初めてのような、ぎこちない視線だった。
「ユナさん……!」
ハルが声をかけると、ユナは一瞬、身を引いた。だが、すぐに小さく頷き、近づいてきた。彼女の瞳には、どこか怯えるような光があった。
「ハル……あなた、知ってるの? 私のこと」
彼女の声は低く、震えていた。ハルは眉をひそめた。ユナの言葉は、まるで彼との出会いを覚えていないかのようだった。
「知ってるも何も、ユナさん、何度も会ってるじゃないですか。喫茶店で、広場で……覚えててくれると嬉しいんだけど」
ハルの言葉に、ユナは目を丸くした。彼女は一瞬、口元を押さえ、まるで記憶をたどるように首を振った。
「ごめん、混乱してる……。あなたにとって、これは最後なのね。でも、私には……これが始まりなの」
「最後? 始まり? ユナさん、何を言ってるんですか?」
ハルの声に、ユナは小さく息を吐いた。彼女は神社の石段に腰を下ろし、黒いコートの裾を握りしめた。ハルも彼女の隣に座り、彼女の言葉を待った。ユナの華奢な体は、まるで風に揺れる木の葉のように脆く見えた。
「ハル、あなたの研究……とても大切なの。あなたが選ぶことが、未来を決める。でも、私には、時間があまりない」
「またその話ですか? ユナさん、はっきり教えてください。あなた、誰なんですか? なんで僕の研究を知ってるんですか?」
ハルの問いに、ユナは目を伏せた。彼女の指が、コートのボタンをいじるように動いている。
「私は……ユナ。あなたに、会いに来た。でも、なぜここにいるのか、私自身、全部はわかってないの。頭の中が、霧みたいに曖昧で……」
彼女の言葉は、まるで断片的な記憶を拾い集めるようだった。ハルはユナの瞳を見つめた。そこには、喫茶店や広場での彼女とは異なる、純粋な不安が浮かんでいた。
「ユナさん、前に言ったよね。『もうすぐ、いなくなる』って。あれって、どういう意味? どこに行くんですか?」
ユナは一瞬、目を閉じた。やがて、ゆっくりと口を開いた。
「いなくなる……そう、たぶん、そうなる。ハル、これはあなたにとっての最後で、私にとっての始まり。私、逆から来てるの」
「逆?」
ハルが聞き返すと、ユナは小さく笑った。だが、その笑顔はすぐに消えた。
「時間って、一直線じゃないの。あなたが思うような、過去から未来への流れじゃない。私には……逆の流れがある」
ハルの胸がざわついた。ユナの言葉は、まるで彼が追い求めていたパズルのピースを嵌めるようだった。“量子逆行”あのメモに書かれた言葉が、頭の中で響いた。
「ユナさん、まさか……あなた、未来から来たってこと?」
ユナは答えなかった。彼女は立ち上がり、神社の境内を見回した。鳥のさえずりが、静かな空気に溶けている。彼女の黒いコートが、夕陽に照らされて柔らかな影を落とした。
「ハル、覚えてて。あなたの研究、間違えないで。あなたが選ぶことが、すべてを変えるから」
「選ぶことって、何? 具体的に教えてよ!」
ハルの声に、ユナは振り返った。彼女の瞳には、どこか遠いものを見るような光があった。
「ごめん、これ以上は言えない。だって、私、知らないんだから。でも……信じてて。あなたなら、きっと正しい道を選ぶ」
ユナの言葉は、まるで祈りのように響いた。ハルは立ち上がり、彼女に近づこうとした。だが、ユナは一歩後ずさり、胸を押さえた。彼女の顔に、痛みを帯びた表情が浮かんだ。
「ユナさん、大丈夫?」
「時間、切れちゃう。ハル、ありがとう。あなたに会えて、よかった」
ユナはそう言い、急いで石段を下り始めた。黒いコートが揺れ、彼女の小さな背中が木々の影に溶けていく。ハルは追いかけようとしたが、なぜか足が動かなかった。まるで、彼女の去る姿を見届けることしか許されていないかのように。
ユナの最後の言葉が、耳の奥で反響していた。「あなたに会えて、よかった」。その声には、どこか安堵と寂しさが混じっていた。ハルは石段に立ち尽くし、彼女の残像を追いかけた。黒髪のボブカット、幼さの残る顔。彼女は、まるで時間を逆行する幽霊のようだった。
ハルは境内を後にし、大学の研究室に戻った。ノートパソコンを開き、シミュレーションのコードを眺めた。ユナの言葉が、頭の中で繰り返されていた。「あなたが選ぶことが、すべてを変える」。ハルはふと、コードのある一行に目を止めた。AIの自律性を制限するパラメータの一つだ。教授は、この値をさらに最適化すれば、モデルの効率が上がると言っていた。だが、ハルは直感的に、その変更が何か大きな影響を及ぼす気がした。
ハルはキーボードに手を置き、値を変更するかどうか迷った。ユナの瞳が、脳裏に浮かぶ。彼女の言葉は、まるで未来からの導きのように感じられた。ハルは深呼吸し、値をそのままにしておくことを決めた。代わりに、別の補助パラメータを微調整し、シミュレーションを再実行した。画面に映るグラフが、安定した曲線を描いた。
ハルは知らなかった。この小さな選択──パラメータを変更しなかったこと──が、遠い未来で大きな波紋を生むことになることを。
その夜、ハルはアパートの窓辺に立ち、青梅の夜景を眺めた。ユナの言葉が、まるで星の光のように瞬いていた。
「これはあなたにとっての最後で、私にとっての始まり」
彼女は、時間を逆行しているのかもしれない。そして、その逆行の果てに、ハルとの出会いがあったのだ。
ハルは胸ポケットの紙切れを握りしめた。ユナの正体はまだわからない。だが、彼女が残したメッセージは、ハルの心に深く根を張っていた。彼は決意を新たにした。研究を進め、ユナの言った「未来」を、自分の手で確かめる。
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