第2章:重なる違和感

 青梅の街は、春の終わりを告げるように、夕暮れの空に淡い茜色を広げていた。ハルは大学の研究室から駅に向かう道を歩いていた。肩に掛けたバックパックには、ノートパソコンと、昨夜から何度も読み返したあの紙切れが入っている。


「2125.3.17 アラスカ極北研究施設 量子逆行」


ユナと名乗った女性が残したメモは、ハルの頭から離れなかった。


 あの日以来、ユナの姿は見ていない。喫茶店「オーロラ」で交わした会話は、まるで夢のように曖昧で、しかし彼女の黒い瞳と切迫した声は、鮮明に記憶に刻まれていた。ハルはスマートフォンを取り出し、メモに書かれた言葉を検索してみたが、ヒットするのは無関係な科学論文や、アラスカの観光情報ばかりだった。「量子逆行」という言葉に至っては、どのデータベースにも存在しない。まるで、未来から持ち込まれた言葉のように。


 ハルはため息をつき、駅前の小さな広場に差し掛かった。広場のベンチでは、老夫婦が鳩にパンを投げている。噴水の水音が、街の喧騒を柔らかく包んでいた。ふと、ハルの視線が広場の反対側に止まった。黒いコートを羽織った、華奢な女性が立っていた。黒髪のボブカットが、夕風に軽く揺れている。ユナだった。


「ユナさん?」


 ハルが声をかけると、彼女はゆっくりと振り返った。幼さの残る顔に、かすかな驚きが浮かんだ。だが、その表情はすぐに硬いものに変わった。前回のような懐かしさや切実さはなく、どこかよそよそしい雰囲気が漂っていた。


「ハル……あなた、覚えててくれたの?」


 彼女の声は低く、しかしどこか距離を感じさせた。ハルは一瞬、彼女が本当にユナなのか疑った。同じ黒いコート、同じボブカットの髪。だが、彼女の態度は、まるで初対面の人間に対するような慎重さに満ちていた。


「もちろん覚えてますよ。あの喫茶店でのこと、忘れられるわけないじゃないですか。ユナさん、ちゃんと話したいんです。あなた、僕の研究のことや、あのメモのこと、どうやって知ったんですか?」


 ユナはハルの言葉を聞くと、目を伏せた。彼女の指が、コートの裾を握りしめているのが見えた。まるで、何かを抑え込むような仕草だった。


「メモ……そう、渡したのね。私、覚えておくわ。」


「え? 渡したって、ユナさんが置いていったんじゃないですか?」


 ハルの声に、ユナは一瞬、困惑したような表情を見せた。だが、すぐに平静を取り戻し、口元に薄い笑みを浮かべた。


「ごめんなさい、言い間違い。ハル、あなたの研究、進んでる? パラメータ、直した?」


「それは……はい、直しました。0.03のずれ、指摘してくれて助かりました。でも、なんでそんなこと知ってるんですか? ユナさん、誰なんですか?」


 ハルの問いに、ユナは答えなかった。彼女は広場の噴水に目をやり、水面に映る夕陽を見つめた。彼女の瞳には、まるで遠い記憶をたどるような光があった。


「ハル、あなたの研究は、未来を変える。いいえ、変えなきゃいけないの。」


「未来? またその話ですか? ユナさん、はっきり言ってください。あなた、僕に何を求めてるんですか?」


 ハルの声には、苛立ちが混じっていた。ユナの言葉は、いつも曖昧で、核心に触れない。彼女はハルの視線を受け止め、ゆっくりと首を振った。


「求めてるのは……あなたの選択。ハル、あなたが選ぶことが、すべてを決めるの。」


「選択? 何の話? 具体的に教えてくださいよ!」


 ハルが一歩踏み出すと、ユナは後ずさった。彼女の顔に、再びあの痛みを帯びた表情が浮かんだ。胸を押さえ、息を整えるようにして、彼女は呟いた。


「ごめん、時間がない。もうすぐ、私、いなくなるの。」


「いなくなる? どういう意味ですか? ユナさん、待って!」


 ハルが手を伸ばすと、ユナは素早く身を翻し、広場の出口に向かって歩き出した。黒いコートが夕暮れの光に揺れ、彼女の小さな背中が人混みに紛れていく。ハルは追いかけようとしたが、なぜか足が動かなかった。まるで、彼女が去ることを許されているかのように。


 ユナの最後の言葉が、耳の奥で反響していた。「もうすぐ、いなくなる」。それは、喫茶店での「時間切れ」と同じ響きを持っていた。ハルは広場のベンチに腰を下ろし、バックパックからあの紙切れを取り出した。走り書きの文字は、夕陽の下でなおさら不可解に見えた。


「2125.3.17 アラスカ極北研究施設 量子逆行」


 ユナの言動には、どこか矛盾があった。彼女はハルの研究を知っていると言いながら、メモについて「渡したのね」と言い間違えた。まるで、彼女自身がそのメモの存在を忘れていたかのように。そして、彼女のよそよそしさ。前回の出会いでは、ユナはハルに親しげに話しかけ、彼を探していたと告げた。だが、今日の彼女は、まるでハルとの関係を測りかねているようだった。


 ハルはスマートフォンを取り出し、ユナの言葉をメモした。


「あなたの選択」

「未来を変える」

「いなくなる」。


 どれも、彼女の正体を解く手がかりにはならなかった。だが、ユナが言った「パラメータを直した」という言葉は、確かに現実の変化をもたらしていた。ハルのシミュレーションは、修正後に安定し、教授から「これで次のフェーズに進める」と高い評価を受けた。ユナの介入が、研究の進展に直接影響したのだ。


 ハルはベンチから立ち上がり、駅に向かって歩き出した。頭の中では、ユナの言葉と表情がぐるぐると渦巻いていた。彼女はなぜ、そんな曖昧な言葉しか残さないのか。なぜ、毎回、急いで去っていくのか。そして、「いなくなる」とはどういう意味なのか。


 駅のホームに着くと、電車が滑り込んできた。ハルは車内に乗り込み、窓の外に流れる青梅の街並みを眺めた。ユナの黒いコートが、なぜか脳裏に焼き付いていた。彼女の華奢な背中、幼さの残る顔、黒髪が揺れる姿。まるで、時間が彼女を縛っているかのような、切迫した雰囲気。


 ハルは胸ポケットに手をやり、紙切れの感触を確認した。ユナが再び現れるなら、次こそ、彼女の正体を突き止めなければならない。そう決意したとき、電車の窓に映る自分の顔が、どこかユナの瞳に似ている気がした。一瞬の錯覚だったが、ハルの胸に、説明できない不安が広がった。

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