ヨウカイ喫茶の常連さん
籠の中のうさぎ
「路地裏の店」(1)
平日の夜。空調が効いたオフィスから、満員電車に揺られて一時間と少し。田舎でもないけど都会とは到底呼べない町に、佐藤美咲は帰ってきた。
もう三十路。数年恋人はおらず、仕事と家を往復するだけの毎日だ。
ちょっとした息抜きといえば、コンビニスイーツを食べながらSNSでキラキラとした投稿を見ることくらいなものだ。
その日、美咲が最寄り駅を降りたのはいつもより少し遅い時間だった。
夜風が髪をそっと撫で、駅前の照明がぼんやりと滲んで見える。
仕事帰りのスーツ姿の人たちはとうに姿を消し、バス停にも人影はない。遠くで低くウシガエルが鳴き始めていた。
駅の階段を下りながら、小さくあくびをかみ殺す。あとはもう帰るだけなのに、足が重たい。
都会ではない、でもド田舎でもないこの街で暮らして、もう何年が経つだろう。都心へ通う電車に毎朝もまれて、夜になれば戻ってくる。
そういう暮らしに、特に不満があるわけじゃない。でも、満足してるかと聞かれたら、たぶん、黙ってしまう。
自宅までは駅から歩いて十五分。ゆっくり歩けばに十分といったところだろうか。
閑静な住宅街なのはいいのだが、もう少し駅に近い物件を探せばよかったかもしれない。
駅の南口を出ると、たまに数店舗だけの小規模な手作り市が開催できるような小さな広場のあるペデストリアンデッキに繋がっている。
もう少し早い時間帯だと、駅前モールに直結しているのでそこで買った有名コーヒーチェーン店のカップを片手に部活帰りの学生たちがたむろしているのだが、今は酔っぱらった大人が数人屯しているだけだ。
時刻はすでに二十二時を回っている。街灯に照らされた階段を降り、家路を歩く。
普段は大通りを通って橋を越え、自宅のあるエリアへと向かうのだけれど、今日はちょっと寄り道がしたい気分だ。
幸い明日は休日だ。いつもとは違う道を通って帰ろう。
一体いつからやっているのかわからない。日に焼けて変色した暖簾を掲げたラーメン店の前を通って家の方角に向かう。
途中、人か自転車くらいしか通れない橋を越えると、街灯の数がグッと少なくなりほんの少し心もとなく感じてしまう。
昔はさぞ栄えたのだろうシャッターばかりの商店街を横断すると、小さな本殿と手水屋しかない神社を見つけた。
五年近く住んでいたけど、こんなところに神社があるなんて知らなかった。その裏手側にある公園は毎朝通勤の時に見ていたけれど。
普段は入らない砂地の公園に入ると、小さな滑り台と砂場。それからベンチくらいしか見当たらない。遊具ですら危険だと騒がれる前にはもう少し何かあったのだろうか。
『住宅地の為ボール遊び禁止』の立て看板を横目に、ほとんど何もない公園をしばらくぼうっと眺めていた。
もう、あと五分も歩けば家に着く。
そのもう少しが遠く感じる。
どうにもこうにもやる気が起きず、美咲は日に焼け、ところどころボロボロになった木のベンチに腰を下ろした。
まだ春先と言えど、山に囲まれ盆地になっているこの地域の夜は寒い。
ふと、視線を昔ながらの住宅地の方へと向けると、こんな時間なのにやけに煌々としている家がある。昭和から平成初期によく建てられた古臭い一軒家。
よくよく見てみると、玄関前に何やら看板のようなものがおいてあった。
こんな時間までやっているなんて。小料理屋か何かだろうか。
大人になって、毎日毎日同じことの繰り返し。
それでも新入社員のころは友達と休みを合わせて遊びに行ったりもしたものの、この年になると二連休でもなければ遊びに出かけることすら億劫になってきた。
友達と会っても、カフェでお茶して近況を話すだけで、気づけば時間が過ぎている。
けれど、その店らしきものを見た瞬間。忘れかけていた子供のころの記憶がふつふつと沸き上がった。
親には内緒の秘密基地。普段遊ばない友達に誘われ、踏み込んだ細い路地。個人営業の、駄菓子と文具しか置いていないような小さな商店。ブランコを思い切りこいで靴を飛ばしたあの公園。
ここが公園だからだろうか。そんな子供じみた好奇心にくすぐられ、疲れていたことなど忘れていそいそとその家へと近づいた。
「喫茶、……ヨウカイ?」
こんな時間に営業している喫茶店?と思わないでもない。街灯の明かりは届かず、路地は細く、薄暗い。
しかし、看板に付けられたクリップランプの明かりが灯っている。
ほんの少し開いた窓から香ばしい焙煎の香りが鼻先をくすぐる。確かに、コーヒーの匂いがする。
古びた木の引き戸をそっと手をかけると、鍵はかかっておらずするりと開く。チリン、と小さな鈴が鳴り、奥から「おや、珍しい」と男の人の声がした。
ならばと思い切って戸を開ききる。
「いらっしゃいませ!」
店員だろう人の元気な声に視線をそちらに向け、私の思考は一瞬で凍り付く。
「……え?」
目の前に飛び込んできた光景に、言葉が出ない。
白く、カラカラと硬質なものが擦れる音が鳴る、骸骨だった。
真っ白な骨の顔に、黒の蝶ネクタイ。丁寧にアイロンがかけられたシャツの上からエプロンを着ている。
ぽかりと空いた眼窩は黒々としていて、とてもじゃないが目が埋まっているようには見えない。
理科室にあった骨の模型が服を着てそこに立っているのだ。
置物かと思ったが、不思議そうに小首をかしげる様子にすぐさま否定される。
では特殊メイクかと思ったが、どこをどう見ても皮膚や筋肉の動きが感じられない。
とどめに、ポンっと肩に手を置かれたその温度のない硬い感触に、ついに立っていられず膝から崩れ落ちた。
硬い床の感触。冷たい汗が背中を流れる。
目の前がチカチカと明滅し、恐怖にうまく息が吸えずに胸が苦しい。
「すみません。人間のお客さんには、ちょっと刺激が強かったかな」
骸骨の肩に人間の、ちゃんと肉と皮膚のついた手がかかる。
おちついた大人の男性の声に安堵しかけたその瞬間。男性と目が合い、また息が止まる。
いや、正確には目は合っていない。だって、その男には顔がないのだ。
目も鼻も口も、すべて、ない。のっぺらぼう。
これは、夢だ。そうでなければおかしい。
視界がふっと暗くなり、そこで私の意識はプツリと途切れた。
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