幽暗の魂
風見鳥
幽暗の魂
俺が東秩父村のあたりに住んでいた頃の話だ。子供の時分だからもう四〇年は前のことだな。人に話すのはこれで二度めだ。
なにから話そうか……俺には姉貴がいたんだ。歳は二歳離れている。一昨年に逝っちまったが、子供のころ俺と誰よりも遊んでくれたのは姉貴だったんだ。だから四〇年前のその日もいつも通りだった。親父は飯能まで仕事に出かけて、お袋は家にいた。俺と姉貴は親のチャリで国道を走り回っていた。
きっつい登り坂をエッサホイサと登り詰めてだな、そこから下り坂をサァーっと自転車で滑り下りるんだ。あの頃の俺が住んでいたあたりで、いちばん粋な遊びはそういうやつだったんだよ。東秩父の山でアスファルトに覆われているところはぜんぶが俺たちの遊び場だった。
話のきっかけは相変わらずそうやって姉貴と走り回っているときのことだ。
二股に分かれてまた合流する道って言えばいいのかな。まずでかい窪地を迂回するための道があるんだが、窪地の反対側にも同じような裏道があってだな、結局その窪地をぐるっと一周できる、そういう道路になっているんだ。一周一五〇〇メートルぐらいにはなっていたかな。それで丁度、包み紙にくるまれた飴みたいな形の地形ができていて、俺たちにとってはちょっとしたサーキットみたいなものだったんだ。
そこでいつもやるレースがあるんだ。サーキットのある地点で、二人が背中合わせに同時に走り出して、窪地の反対側で合流したときにどっちが多く走れていたか、つまりそうして速さを競って、勝ち負けを決めようっていう単純なレースだ。俺たちのサーキットは右回りと左回りでちょっと路面が違ってな、絶対に優勢な姉貴の脚力に俺が適う可能性があったから、俺はそのサーキットレースが大好きだった。
二人で息を合わせてよーいドン、と叫んだらば、猛スピードで足を動かしたわけよ。姉貴も手加減なしで走り出して、二人のチャリが見る見るうちに離れてゆく。
数十メートル走ったくらいだったかな。人生で一回ぐらいは遭うものだろうが、晴れているのに雷が鳴ったんだ。ごくごく稀にあるだろう、空に雲がちらほらと浮かんでいるだけの気持ちいい天気のとき、遠くの方でドドォンと景気よく鳴るやつがさ。
有馬山のほうから鈍く雷鳴が聞こえて、びっくりして俺は一度立ち止まった。それで、聞けば聞くほど威勢よく鳴っているんだ。ドドォン、ゴロゴロゴロ……ドドドォン、っていう具合にな。それでもって青空と太陽が俺を見下ろしているんだから薄気味悪くて、しばらく聞き入っていたんだよ。
するうちに、俺は姉貴とレースしている途中だってことを思い出した。雷が気になって負けたんじゃ家に帰ってもバカにされ続けるだろうから、俺はもう急いだのなんのって、ガチャガチャとペダルに足をかけて漕ぎだしたんだよ。
なんとも印象的な風景だったね。窪地の檜やら楡やらを見下ろす道路を、俺は一生懸命つッ走ったよ。山よりずーっと高くてすーっと抜けるような青空がいい風を吹かせてくれるんだが、その空を太鼓の膜よろしくぶっ叩いて響いてくるような雷が、たちの悪い冗談みたく俺を脅かしてきやがる。
道がダート気味になって、タイヤが滑ったのはそのときだ。ダートって、わかるか、砂利道のことだよ。ズザッとチャリが横滑りになって、俺の手はハンドルを握り損ねた。そのまま窪地の方へまっ逆さまだ。一緒に落ちていたらと思うとゾッとするね。
言っただろ、握り損ねたって。落ちていったのは自転車だけだ。ところが、そうかなら無事でよかった、とはならないんだ。なにせ親父のチャリだから。
親父が俺に怒るときの剣幕といったら、畑に埋められるんじゃないかっていうくらいで、俺はおっかなくて仕方なかった。ためらいもせずに俺は窪地の急斜面に腹這いになって、服を汚しながら少しずつ少しずつずり落ちていった。親父に怒鳴られるくらいだったら、土汚れと擦り傷まみれになったほうがいくらかマシだったんだよ。
さっきまで上から見下ろしていた木々の下に入って、俺の視界はさぁっと薄暗くなった。お天道さんの光が、青空の代わりに俺の頭上を覆った茂みをすり抜けて差してきて、俺のずり落ちてゆく先を指示しているみたいだった。
あのおかしな雷はそのとき、少しだけ収まってはいたけれど鳴り続けていた。近くに落ちなければいいなと思いつつ、茂みの隙間から差してくる日光を頼りながら、俺はズルズル、ズルズルと窪地の底へ降りていった。たっぷり一〇分ぐらいかけて慎重に下っていった。
底に道はなかった。でっかいミミズみたいな木の根とかシダとか、そういうものがめいっぱいに地面を好き勝手にしていて、これから捜し物をするのにちょっといい気はしないところだ。俺はぐずぐずしないで親父のチャリを探そうとあたりを見回してみたが、金属っぽいものは見つからなかった。
今どきじゃあちょっとないような景色だったよ。森って呼ぶほど密集してはいない木々がさ、バァッて枝と葉を広げて、お互いに協力しあってその窪地の地面を隠しているみたいだ。大部分が日陰で、たくましい種類のやつ以外には花は見あたらなかった。
俺はそこで草陰に隠れた石を見つけた。その石ははっきりとした意図を感じさせる形をしていて、妙に綺麗に埋没したその感じは、一瞬で俺にあることを悟らせるのに充分だったんだ。
草むらを押し広げると、同じような石がいくつもいくつも、一列になって並んでいるのが目に入った。
石畳だよ。
俺は驚いて、大いに混乱した。それはほとんど戦慄したと言ってもいい。誰もいるわけがないところにこういうものが平然と並んでいるってのは、想像するよりもはるかに恐怖心を煽られるものだ。
敷石の表面は――こんな場所にあるにしては不気味に――背筋がゾワッとするほど滑らかで、木々の足元をずうっと奥まで悠然とまっすぐ続いていた。シダや地衣はそいつを避けるふうもなく、またそうかといってお構いなしに呑み込みもしないで、様子を窺っているみたいだった。そういう中にあって、ちょっときれいに思えるくらいにつややかな石が、秩父の山奥の隔離された谷底にいきなり感じよく現れて、俺のことを導くみたいにずらあっと並んでいやがるんだ。
さて、男としては辿ってみないわけにはいかないじゃあないか。
俺が見つけたとき、石畳は俺の前を横切るようにして続いていたから、俺は右手に向かって行くことにした。右に行った理由はないが、とにかく何かを見つけたい気分になったんだ。怖いもの見たさと好奇心で、正直ドキドキしながら歩いていった。
遠くで聞こえていた雷は、このときになってやっと収まった。まるで何かに満足したみたいに。
窪地に降りてから三〇分は経っていたが、俺は帰り道を探す気にならなかった。姉貴との勝負や親父のチャリのことは頭から抜け落ちて、俺はなにがなんでもこの敷石がなくなるところまで歩いて行ってやろうと意固地になっていた。
そしてだな、そう、……小学校があったんだ。煉瓦の壁と鉄柵があって、随分な校門があった。敷地の中からは俺とそう変わらないような歳の子供たちが遊ぶ声がしていて、門の前へ来てみると広い校庭と木製の古い校舎が見えた。
平らで砂のまかれた綺麗なトラックを子供が駆け回っているんだ。山奥の、ろくな道もない、林のただ中でだぞ。校庭には何本かの木が生えたままになっていて、例に漏れずめいっぱい枝を空へ向けて広げていた。ほかのやつよりもその程度が大きかった気がするくらいに。足元を見ると、思ったとおり、石畳は校門の手前で終わっていた。
俺は、疲れた、と、それだけ思った。おかしいよな、俺だってそれしか頭に浮かばなかったのはおかしいと思う。でも俺はとにかく疲れていて、そんな薄気味悪い学校でも、ひと気のある場所を見つけられたことが嬉しかった。しばらくは、門の前につッ立って、鉄柵の間から遊びまわっている子供を見ていた。男の子も女の子もいたよ。低学年も高学年も、みんなが仲良く混ざって鬼ごっこをしていた。ドロケイだったかもな。
突然、すぐそばから声がした。
「よう!」
ってな。俺は心臓が止まるかってぐらい驚いて腰を抜かしてしまった。見ると、柵のあっち側から男の子が俺のことを見ているんだ。俺よりかは年上に見えた。そいつははっきりと俺に向けて、話しかけてきた。
「いま、かくれんぼしているんだ、僕がここにいること、誰にもばらさないでね」
俺は、誰に、と訊いた。ちょっと普通の返事ではないけれどな。そいつはおかしそうに笑って、また言った。
「みんなにだよ。そうだ、約束を守れるなら、こっそり中へ入れてあげるよ」
そして、俺は門の乗り越え方を教わりながら実際にそうしたわけだよ。こっそり入れてあげると言われて入らない人間はいないだろう。男の子は俺を連れて茂みや遊具の物陰を素早く動いて、校庭の周りをぐるっとまわって移動した。
突然、そいつは堂々と校庭を歩いていって、どうやら鬼らしき別の男の子に話しかけた。俺は一応、鬼に見つからないように気を付けていたんだよ。その俺の気も知らないで、急にそいつは鬼に話しかけ、俺のことを紹介して
「一回、みんなを集めて、この子をまじえて遊ぼう」
なんて言い出したんだ。あれよあれよという間に子供が十四人くらい集まってな、その中にはさっきの女の子たちもいた。俺はわけが分からなかった。
一度でもいいから縁もゆかりもない小学校の校庭で、見ず知らずの子供たちの輪に加わってみろよ。まるっきりおかしな気分になる。しかもさっきまでのその子たちの遊びっぷりといったら、もう人生でこれ以上ないっていう感じでさ、どうしても悪い気分にならなかったのが、今思えば気持ち悪いことだな。
俺がそのときに経験したのは、人生の中でも三本指に入るくらい、素晴らしい時間だった。浦島太郎でさえも竜宮城であれほどの思いはしなかっただろうってぐらいにな。かごめかごめ、だるまさんが転んだ、缶蹴り、増え鬼……いろいろな遊びをした。体は全然疲れなかった。疲れている暇があったら走り出そう、そういう気分だった。友だちのみんながそんな気分だった。――俺はいま、友だちと言ったのか。名前も知らない子供たちのことを――。
だが、まあ、その時間は学校の休み時間だったんだろう、そう長くは遊んでいられなかった。大縄跳びをやっているときに、みんなが時計を見ながらそわそわしだして、校庭から校舎へ入ってゆく子供がちらほら見え始めた。最初にゴム跳びをしていた女の子の一人が、
「私たちは算数があるから、もうすぐ教室へ行くんだけれど、君はどうするの」
と俺に訊ねた。どうするっていったって、俺も授業を受けるわけにはいかないし、と考えたところで、俺ははたと気がついた。自転車。
この周りで自転車を見かけなかったか、と俺は女の子に訊き返した。女の子は、わからない、と困ったように答えた。そのとき、最初に話しかけてきた男の子が
「先生に訊いてみたらどうかな」
と提案してきて、俺もそうしようと思った。自転車を探して迷いこんだと聞いて、怒ってつまみ出すような教師はいないだろう、と考えたからだ。
するうちに、チャイムが鳴った。なにやら硬いものが擦れるような音が混ざった、けれどよく響くチャイムだった。それを合図に、子供たちは校舎へ……走り出した。いきなり、全速力で駆け戻ってゆくんだ。競走のつもりなのかと思ったが、そんな表情の子供は一人もいなかった。さっきまであんなに和気あいあいとしていたのに、みんな無表情で、血走った目で校舎を目指していた。ちょっと様子がおかしいぞ、と思ったのは、このときになってようやくってところだ。俺も女の子に手首を引かれて、走り出した。
何十人という子供が一斉に詰めかける昇降口、下駄箱、廊下をやっとの思いで通り抜け、気づいたときには俺はある教室の前に一人で立っていた。すりガラスの窓がたくさん並んで、昼下がりの日光が眩しいくらいに木の床と壁を照らしているんだ。ほかの子供たちはみんな教室に入ったのか、姿が見えない。俺を仲間に入れてくれた男の子や女の子の姿もない。
俺は早いところ、用事を済ませようと思って扉の取っ手に指をかけた。
そこで俺は音に気付いた。実はそれはもっと前から聞こえていたんだが、それと意識して気づかない限り、どうしてもわからないようなやつだった。床に就いて眠る寸前に、目をつむると聞こえてくるような、そういう音に似ている。
ずっと鳴っていた音は、俺が扉へ近づいただけで興奮したように揺れた。そいつは明らかに意思のある音の波で、教室の中から響いてきていた。それ以外には物音ひとつしやしない。子供の声もしない。
俺はしばらく凍えたように止まっていた。なんだか分からないが恐ろしい気分になったんだ。ほんの数分前まで人生最高の遊び時間の中にいたのに、そのときはもう全身の鳥肌が立って、心臓がバックンバックン脈打って、息まで荒くなってくる。音のせいだよ。でっかい空間がごく微かに震えるような、ゴロゴロいう音。
俺は顔を上げて、扉に付いているすりガラスを見た。つまりは……そう、教室の中を、見たんだ。教室の中――にあるもの――を、すりガラス越しにだが、はっきりとこの目で見た。人の立ち入らない山林の奥深くで、俺を待っていたその姿を。
そして、俺は逃げ出したんだ。みんなが先生と呼んでいるものの、輪郭だけでも見てしまったからだ。どうしてそんなことになったのか、不思議か。なぜ俺はそこまで行っておきながら先生に会わずに逃げ出したのか、理解が追いつかないか。
そう思う気持ちは分かるが、お願いだからその部分を詳しく話させることはしないでほしい。……あれは人間の真似をしたものだった……先生について説明できるのはそれだけだ。
俺が昇降口へ向けて走り出すと、にわかに教室の中が騒がしくなりだした。子供の悲鳴、机の動く音、樹木じみたミシミシいう物音が聞こえてきたが、俺は構わず外へ飛び出した。校庭は様子が変わっていた。木の本数が増えていて、根があたりを這いまわってとても走り回れるような場所ではなくなっていた。俺は混乱しながらも校門まで走っていった。後ろから聞こえるあの音には気づかないふりをして、泣き叫びながらひたすら走った。
校門も、柵もなくなっていた。たしかに俺は乗り越えたはずなんだが、あるのはどこまでも鬱蒼として視界を埋める茂みと木々だけだ。けれど石畳はあったよ。俺は少なくともこの窪地へ降りてきた場所の近くへは行けると踏んで、敷石を辿って走った。
後ろのほうから、あのゴロゴロいうような音が聞こえてくる。さっきまでと違って、大きく、怒り狂うような調子で勢いを増していた。俺は振り返らなかったが、先生はすぐ近くまで追ってきているかもしれない、そう思った。
ついに石畳が途切れる場所まで来て、そこからは獣道が俺を導いた。
無我夢中で走っているうちに、地面が傾いて緩く曲がっていて、山を下る道になっていることに気がついた――窪地へ降りたのに、下り道を走っているということに気づいたのは、ずっと後になってからだ――足元に気をつけながら、それでも速度を落とさないで俺は走り続けた。
するうち、まったく突然に、涙が出るくらい懐かしいアスファルトの車道が視線の先に見えた。ぬかるむ土の地面から車道へ出ると、そこはうら寂しい開けた風景が見えるところだった。
今走り抜けてきた道とその車道は小文字のyみたいに交わっていて、俺の目の前には東秩父の雑然とした森を見下ろす仄暗い夕空が広がっていた。錆びたガードレールの手前にはひび割れて使い古された一車線の貧相な道路が横たわって、あたりには人や車の気配なんかはない。そういう場所だった。街灯も標識もないところで、下ってきた山の向こうがわへ降りてゆく太陽の光がどうあっても届かないその道は、雨とか風の影響をひときわ強く受け続けて、残酷にも打ち捨てられて枯れ果てた道路だったんだ。
俺は一秒でも早くその場から離れたくて、というよりかは、そこにいる時間を一瞬でも短くしたくて「出口」を探した。どうしてそう思ったのか、なぜ「出口」なんて言葉が浮かんだのかは今でも分からないが、ともあれ俺の目はそのとき、左のほうに重々しい半円の闇を漏らすトンネルがあるのをとらえた。山の中腹を抜ける、緩くカーブがかかった先の見えないトンネルで、見たことのないトンネルだ。俺は忌々しい軌跡となったあの抜け道を一旦振り返って見てから、トンネルの入り口まで行ってみた。
真っ暗闇というか、逆にほわっと光るみたいな闇が中から溢れているようで、中に何があるのか、先はどこまで行っているのか、俺にはぜんぜんつかめなかった。
だが結局、覚悟が決まらないうちに俺は死に物狂いで駆け出し、半べそをかきながらトンネルの奥へ潜りこんでいった。あるものが襲ってきて、そうするしかなかったんだ。俺にできることは、全力でなるべく速く遠くへ逃げることしかなかった。たとえ飛びこんだトンネルが、生きて帰ることができるとは保証されていない未知の隘路であって、通り抜けるのがとんでもなく難しい、そういう良くない道であったとしても。
トンネルの中はひどかった。まるで干潮のときだけ入れる類の、海岸の洞穴みたいな印象を受けた。水の臭みっていうのかな、植物から出る水分の青臭くていやな匂いが濃くそこを満たしていて、深呼吸なんてしたら悪い成分でも一緒に吸いこんでしまうんじゃないか、そう思うくらいだった。靴底の感覚からして、地面には落ち葉や小枝が散らばっているのが知られた。風は吹きこまない。外の音も入ってこない。出口も見えない。
それでも静かに、段々と、気持ちが落ち着いていったのを覚えている。安心感と懐かしさが膨らんで、いやな感じを呑みこんだんだ。ドッコドッコと跳ねていた心臓がおとなしくなった。頭の中に「もうそろそろ大丈夫だ」っていう考えが浮かんできて、俺が走る速度を緩め始めたとき、緩いカーブの向こうから夕焼け色のアーチが出てきたんだ。それはまさしく出口だったわけで、そこから外の夕空の下へ出たとき、涙に滲む視界で俺はすぐにあるものを見つけた。
トンネルを出てすぐ右のガードレールの向こうに雑木林の根付いた鬱蒼とした傾斜が下っていて、木々のずっと向こうに、すごく見覚えのある道路があった。俺と姉貴があのレースをスタートさせた、まさしくその分岐路だった。そのときの俺の有り様といったら、もう半狂乱と言って間違いなかったね。一人で大騒ぎしながらガードレールを跨いで、前にもやったようなやり方でそこを下っていった――どうして俺は、一度も登ることをせずに、元の場所まで戻ったんだろうな。
とにかくそのあとは、まぁめでたしめでたしってやつだな。俺を探していた姉貴が俺を見つけて、質問攻めにしたけれど、そのときの俺が整然と説明することなんか不可能で、俺はただもう泣きじゃくるだけだ。もちろん、親にも色々と訊かれたが、俺はたいしたことは言わなかったと思う。親父の自転車は結局見つからなかった。俺はそのことを怒られるのがやっぱり怖くて恐々としていたんだが、二時間も行方不明になっていたあげくに擦り傷だらけで帰ってきた俺を責める気にはならなかったんだろうな。
この事件がうやむやになって半年ぐらいしてから、俺は姉貴にぜんぶを話した。だが姉貴は信じてはくれなかった。俺もその頃は夢だったのかもしれないと思い始めていたくらいだ、当然の反応だといえる。窪地には学校なんてないし、話のあたりにトンネルがあるなんて聞いたこともない。
それで、俺はもう一度あの場所へ行ってみようって気になったんだよ。最後に下ってきた国道の脇から、傾斜を登って行ったんだ。もう一度あの窪地へ降りるのは、先生のことを考えるととてもじゃないが試す気にはならなかった。
結論から言えば、そこにはなにもなかった。このあたりかな、と思う高さへ登っても、登りすぎただろう、と思う高さまで来ても、トンネルどころか道もない。そこから見える景色は僅かに、あのトンネルの手前、廃れた標識のない道路で見たのと似ている気がしたが、それっきりだ。俺は愕然とした。
親父の自転車はどこへ消えたのか、窪地にあった石畳、学校、子供たち……俺は窪地から山道を下って元の道へ戻った。そして探し出せない道。……敷石も、標識のない道路も、俺の前を横切っていた。なにかの境界みたいに。
いやあ、奇怪なことをこれでもかというほど経験すると、脳みそがちょっと痺れてしまうんだな。俺が見たものは自然のなかにある、ただそうだという理由だけで存在するものなんだ。そんなふうに納得したんだ。太陽が昇って沈む、風が吹いて涼しく感じる、そういうものは、まあ細かい説明を省くとそういうものだろう。先生もそういうものなんだよ。
ただ、もうこんなことはないだろうな。その理由を俺は二つだけ知っている。
誰にもばらさないで、という男の子との約束を俺は破った。姉貴に教えてしまったからな。多分、そういうものなんだよ。
そしてもう音も聞こえない。聞こえないようにしていれば、普通の人もその音を聞くことはないんだ。ただ俺は気づいてしまったから、不運だが一生気をつけていなければならない。一瞬でも聞こえる気がしてしまったら、恐らく二度と無意識に追い出すことはできないだろう。
最後に聞いたのはあの運命のトンネルが口を開ける道路。手招く闇が俺を急き立てる、あの夕陽に燃やされるところでだ。
最後に、あの音は一際大きく鳴り響いて俺に襲いかかった。紛れもなく、それは先生の音だったんだな。あれはずっと鳴っていた音なんだよ。俺もそれまで聞いていたし、誰もが今も無意識に聞いている。そしてときおり、呼び声みたく高ぶることがあるんだ。晴れ渡る空の遠くから、空そのものを叩くかのようにビリビリ伝わってくる、目に見えない稲妻。あの遠雷は……晴天の遠雷は……先生が呼ぶ音だったんだ。
〈了〉
幽暗の魂 風見鳥 @kazami_dori_171349
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