第三研究棟での遭遇
夕方、陽が西に傾きかけたころ。陽菜乃と泰河は第三研究棟の前に立っていた。
築四十年以上を経た古いコンクリート建築は、夕暮れの薄明かりの中でひときわ不気味な佇まいを見せていた。建物全体が時代を感じさせる重厚な造りで、窓ガラスの一部には蜘蛛の巣が張っている。
「うわあ、めっちゃ古いじゃん……」
泰河が青ざめた顔で建物を見上げた。既に彼の霊感は、建物から漂う異様な空気を感じ取っているようだった。
「確かに古いけど、まだ現役で使われてる建物よ」
陽菜乃が冷静に答えながら、胸元の小さな袋に手を当てた。中の銀の鈴は、まだ静かなままだった。
「でも、なんか嫌な感じしない?」
「嫌な感じって?」
「うーん、上手く説明できないけど……」
泰河が言いかけたとき、建物の自動ドアが開いた。中から出てきたのは、経済学部らしき学生だった。
「あ、すみません」
陽菜乃が声をかけると、学生は振り返った。
「はい?」
「この建物のエレベーターって、普通に使えますか?」
「ああ、使えますよ。でも古いから、たまに変な音がしますけど」
学生はそう言って去っていった。
「変な音か……」
陽菜乃が呟くと、泰河がぶるぶると震えた。
「やっぱりなにかあるんじゃん!」
「落ち着きなさいよ、泰河。まだなにも起こってないでしょ」
陽菜乃に促されて、二人は建物の中に入った。
廊下は薄暗く、蛍光灯がところどころ点滅している。床は古いリノリウムで、二人の足音だけが静寂の中に響いていた。
「陽菜乃……」
「なに?」
「俺、もう帰りたい」
「まだなにもしてないじゃない」
陽菜乃が呆れたような声を出すと、泰河は情けない表情を浮かべた。
「だって、この雰囲気がもう無理だよ……」
確かに、建物の中は独特の空気が漂っていた。古い建物特有の湿っぽい匂いと、重苦しいものが混じり合っている。
「あった」
陽菜乃が指差した先に、古いエレベーターがあった。昭和レトロな外観で、ボタンは丸くて大きく、どこか懐かしさを感じさせる。
「うわー、これまた古いな……」
泰河が恐る恐る近づくと、エレベーターの扉には「地下一階~五階」と書かれたプレートが取り付けられていた。
「一応、動いてるみたいね」
陽菜乃がボタンを押すと、『ピンポーン』という音とともに扉が開いた。
中は薄暗く、壁は木目調のパネルで覆われている。床にはじゅうたんが敷かれているが、所々シミができていた。天井の蛍光灯は一つだけ点いており、心もとない明かりを放っている。
「ね、陽菜乃……」
「なによ」
「これ、本当に乗るの?」
泰河の声が震えていた。
「調査よ、調査。真澄先輩に頼まれたでしょ」
「でも、もし本当に『声』が聞こえたらどうするんだよ」
「その時はその時よ。答えなければいいじゃない」
陽菜乃があっさりと言うと、泰河は目を見開いた。
「そんな簡単に言うけど!」
「大丈夫よ。あたしがいるから」
陽菜乃の言葉に、泰河は少し安心したような表情を見せたけれど、完全に納得しているわけではない。
「わかった。でも、本当にヤバくなったら逃げるからな」
「はいはい」
二人はエレベーターに乗り込んだ。陽菜乃が三階のボタンを押すと、扉がゆっくりと閉まった。
「うわあ、なんか狭いな……」
泰河が壁に背中をつけながら呟いた。確かに、現代のエレベーターと比べると、かなり小さい。大人が四人も乗れば満員になりそうだった。
――ガクン――
エレベーターが動き始めると、大きな振動が足元から伝わってきた。
「うひゃあ!」
泰河が陽菜乃にしがみついた。
「ちょっと、泰河!」
「だって、今すごい揺れなかった?」
「古いエレベーターだから、そのくらい普通よ」
陽菜乃が泰河を引き離そうとしたとき、突然エレベーターが止まった。
「あれ?」
階数表示を見ると、二階と三階の間で停止している。
「故障?」
陽菜乃がボタンを押し直そうとした瞬間、エレベーター内の電気が消えた。
「うわああああああ!」
泰河の絶叫が密室に響いた。
「泰河、落ち着いて!」
陽菜乃が慌てて非常ボタンを押したが、反応がない。スマホを取り出して画面の明かりで周りを照らすと、圏外の表示が出ていた。
「嘘でしょ……」
「陽菜乃、これヤバくない?」
泰河の声が震えていた。暗闇の中で、二人の息遣いだけが聞こえている。
「大丈夫、きっと一時的な停電よ」
陽菜乃がそう言ったとき、エレベーター内の温度が急に下がったような気がした。
「寒い……」
泰河が呟くと、陽菜乃も同じことを感じた。十一月の夜とはいえ、建物の中でこれほど寒くなるのは不自然だった。
そして、そのときだった。
静寂を破って、低くて静かな男性の声が響いた。
『あなたの、いちばんの罪はなんですか?』
「ひいいいいいい!」
泰河が陽菜乃にしがみついて震えた。
「誰? 誰なの?」
陽菜乃が暗闇に向かって声をかけたが、返事はない。すると、声は再び響いた。
『あなたの、いちばんの罪はなんですか?』
同じ問いかけが、まるで録音されたもののように繰り返される。
「陽菜乃、これが例の声?」
「そうみたい……」
陽菜乃が胸元の袋に手を当てると、中の銀の鈴が微かに震えているのを感じた。
「答えちゃダメよ、泰河」
「わかってるって! でも、なんで俺たちに聞くんだよ!」
泰河の抗議に答えるように、声はさらに続いた。
『あなたの、いちばんの罪はなんですか?』
今度は、より明瞭に、より強く響いた。
「うう、気持ち悪い……」
泰河が青ざめた顔で呟いたとき、陽菜乃は霊力を集中させて、この声の正体を探ろうとした。
すると、薄っすらとだが、ある光景が頭に浮かんだ。
白いシャツを着た青年が、この建物のどこかで一人佇んでいる。彼の表情は暗く、深い絶望に支配されているようだった。
「三十年前……」
陽菜乃が呟くと、泰河が振り返った。
「なに?」
「この声の主、三十年前にこの建物で亡くなった人みたい」
「え、亡くなったって、まさか……」
泰河の顔がさらに青くなった。
「自分から……」
陽菜乃の言葉に、泰河はぶるぶると震えた。
「やっぱり霊じゃん!」
『あなたの、いちばんの罪はなんですか?』
声は執拗に問いかけを続けている。そして、エレベーター内の温度はさらに下がっていった。
「陽菜乃、俺たち、もしかして……」
「大丈夫よ。必ず脱出する方法があるはず」
陽菜乃がそう言うと、声に微妙な変化が現れた。
『北原……聖人……』
かすかに聞こえた名前に、陽菜乃は身を震わせた。
「
「霊の名前なんて聞きたくないよ!」
泰河が泣きそうな声で言うと、陽菜乃は彼の肩に手を置いた。
「泰河、あたしたちは必ずここから出られる。信じて」
しかし、聖人の霊は、まだ問いかけを止めようとしなかった。
『あなたの、いちばんの罪はなんですか?』
「んん……しつこい!」
泰河の嘆きを無視して、声はより強く、より切実に響いた。まるで、答えを聞くまでは絶対に諦めないと言っているかのように。
暗闇の中で、陽菜乃と泰河は身を寄せ合った。外の世界から完全に遮断されたエレベーターの中で、三十年前の悲劇が再び動き出そうとしていた。
陽菜乃の胸元で、銀の鈴がかすかに鳴り始めた。それは、これから起こる出来事の前触れなのかもしれなかった。
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