旧図書館潜入
翌日の午後、陽菜乃たち四人は大学の敷地の片隅に建つ旧図書館の前に立っていた。昭和の匂いを残すコンクリート造りの建物は、新図書館の建設と共にその役目を終え、今では書庫としてのみ使用されている。
「うわー、なんか既に怖い雰囲気だな」
泰河が建物を見上げながら、早くもガクガクと震え始めた。確かに、午後の日差しを受けてなお薄暗い印象を与える建物には、どこか物悲しげな空気が漂っている。
建物の入り口で、管理人の老人が待っていてくれた。七十代後半と思われる小柄な男性で、紅葉の顔を見ると安堵の表情を浮かべる。
「三好さん、お疲れさまです。今日は民俗学の調査でしたね」
「はい、村本さん。お忙しい中、ありがとうございます」
紅葉が丁寧に頭を下げると、村本と呼ばれた管理人は陽菜乃たちを見回した。
「学生さんたちですか。最近、地下書庫のことで妙な話をよく聞くんですよ」
「妙な話、ですか?」
陽菜乃が身を乗り出すと、村本は困ったような表情を見せる。
「ええ。『本の内容が変わる』だとか、『夢に虫が出てくる』だとか。若い方々が時々相談に来られるんです」
「やっぱり本当だったんだ」
晴音が小声で呟く。泰河の顔色がさらに青くなった。
「それで、心配になって何度か見回りに行ったんですが、特に変わった様子はなくて。でも確かに、あの書庫には昔から妙な雰囲気がありましてね」
「昔から?」
「ええ。昭和の終わりごろでしたか、あそこで司書のかたが亡くなられたことがあるんです」
一同の表情が引き締まる。やはり霊的な要因があるのかもしれない。
「事故、だったんですか?」
「詳しいことはわかりません。建て替え作業の準備中に倒れられて。古い本を整理していて、過労だったのかもしれません」
村本が地下書庫の鍵を紅葉に手渡す。
「お気をつけて。なにかあれば、すぐに上がってきてくださいね」
「ありがとうございます」
一階のロビーを抜け、四人は地下へ続く階段の前に立った。薄暗い階段の向こうに、さらに深い闇が口を開けている。
「うう……なんか嫌な予感しかしない」
泰河が階段の手すりを握りしめながら震えている。
「泰河、霊感でなにか感じる?」
「今のところは大丈夫だけど……でも、なんとなく胸がざわざわするんだよな」
陽菜乃は自分の胸元に手をやった。お守り袋の銀の鈴が、微かに温かくなっているような気がする。
「では、行きましょう~」
紅葉を先頭に、四人は階段を降り始めた。コンクリートの階段に足音が響く。地下に近づくにつれ、空気がひんやりと冷たくなっていく。
地下書庫の扉の前で、紅葉が鍵を挿した。
「準備はいい?」
「いや、全然よくない」
泰河の正直な返答に、一同がくすりと笑う。緊張が少しだけ和らいだ。
扉が開くと、古書特有の匂いが鼻をついた。カビと紙の匂いが混じった、図書館の奥に漂うあの独特な香り。天井は低く、蛍光灯の明かりが薄暗い空間を照らしている。
「うわ、思ったより広いですね」
晴音がカメラを構えながら呟く。書庫は思いのほか奥行きがあり、両側の壁には天井まで届く書棚がびっしりと並んでいる。
「和綴じ本は奥の方にまとめて保管されているはずよ~」
紅葉が懐中電灯を点けながら先を歩く。四人の足音が静寂の中に響く。
「ねえ陽菜乃、なんか……空気が重くない?」
「うん」
陽菜乃も同じことを思っていた。ただの古い書庫というには、妙に重苦しい雰囲気が漂っている。
書庫の奥で、紅葉が立ち止まった。
「あった! これよ~」
手のひらほどの大きさの和綴じ本が、他の古書に挟まれるようにして置かれていた。表紙には墨で「記憶綴」と記されている。
「これが問題の本?」
晴音がカメラを向けながら近づく。陽菜乃も興味深そうに覗き込んだ。
「見た目は普通の古い本ね」
「なんか……嫌な感じがする」
泰河が本から距離を置きながら呟く。彼の霊感が、既になにかを察知しているのかもしれない。
紅葉が慎重に本を手に取り、五ページ目を開いた。
「まずは内容を確認してみましょう~。えーっと…『天保十二年、春。桜の咲く頃、江戸の町に奇怪な噂が流れ始めた』…江戸時代の日記のようね~」
「普通じゃない?」
陽菜乃が首をかしげると、紅葉が本を陽菜乃に差し出した。
「今度は陽菜乃ちゃんが読んでみて。五ページ目よ」
陽菜乃が同じページを開くと、目を見張った。
「あれ?『明治二十五年、女学校に通い始めて三ヶ月』……明治時代の女学生の手記になってる」
「え、マジで?」
泰河が恐る恐る覗き込む。確かに、先ほど紅葉が読んだ内容とはまったく違う文章が書かれている。
「今度は泰河くんが読んでみて~」
「え、俺? やだよ、怖いじゃん」
「大丈夫よ、みんなついてるから」
陽菜乃に背中を押されて、泰河は震える手で本を受け取った。恐る恐るページを覗き込む。
「『大学二年の秋、僕は図書館で奇妙な本を見つけた』……え? 現代の大学生みたいな文章になってる」
四人は顔を見合わせた。確かに、同じページなのに内容が変わっている。
「これは確実に異常現象ね」
晴音がカメラで本を撮影しながら記録を取る。
「でも、これだけなら単なる不思議現象で済むかも。思ったより――」
そのときだった。
泰河の顔が突然青ざめ、本を落としそうになった。
「うわっ! なにかいる!」
「え?」
陽菜乃が振り向くと、泰河が書庫の奥を指差しながら震えていた。
「すごく小さいやつが……たくさん……うじゃうじゃしてる!」
「泰河、なにが見えるの?」
「虫だよ! 銀色に光る小さな虫が、本の隙間から這い出してくる!」
その瞬間、書庫全体に微かにカサカサという音が響いた。紙をこするような、乾いた音。
「今の音、みんなも聞こえた?」
晴音が録音機器を向けながら確認する。三人が頷いた。
陽菜乃の胸元で、お守り袋の銀の鈴が小さく鳴り始めた。風もないのに、まるでなにかに反応するように揺れている。
カサカサという音が次第に大きくなり、書庫のあちこちから聞こえてくるようになった。
「うわああ! 増えてる! 虫がどんどん増えてる!」
泰河が陽菜乃の袖を掴んで震える。
「落ち着いて、泰河。どこから出てきてるの?」
「本の隙間から! 古い本の隙間から銀色の小さな虫がわらわら出てきて……あ、あれ?」
突然、泰河の表情が困惑に変わった。
「どうしたの?」
「なんか…頭がボーッとする。あれ? 俺たち、なにしに来たんだっけ?」
陽菜乃の背筋に冷たいものが走った。記憶に影響が出始めている。
「泰河、しっかりして! あたしたちは本の調査に来たのよ」
「本? ああ、そうだっけ……でもなんの本だっけ?」
泰河の目が焦点を失い始めている。紅葉が慌てて「記憶綴」を抱え込んだ。
「これはまずいわ。本格的な記憶干渉が始まっている」
カサカサという音はさらに大きくなり、まるで書庫全体が巨大な虫の巣になったかのような錯覚を覚える。
陽菜乃は銀の鈴を握りしめた。この異常事態を何とかしなければ、泰河の記憶が本当に失われてしまう。
「みんな、一旦書庫から出ましょう!」
晴音が機材をまとめながら提案するが、書庫の奥で女性の影がよぎったような気がした。陽菜乃だけでなく、全員がその存在を感じ取った。
「誰か……いる」
紅葉が震え声で呟く。
事態は、彼らの予想を超えて深刻な展開を見せ始めていた。
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