夢世界への引き込み

「ふわぁ……もうホントに耐えられない……」


 真澄へ連絡と晴音のデータチェックを済ませ、陽菜乃は大あくびをした。

 本来なら既に眠っている時間ではあるのだが、その眠気の訪れかたは尋常ではなかった。まるで頭の中に重い雲がかかったように、急激に意識が朦朧としてくる。


「おい、大丈夫か?」


「うん、ちょっと疲れただけだと思う。でも確かに、なんか変な眠気……」


 陽菜乃は首を振って眠気を振り払おうとしたが、かえって頭がくらくらしてしまった。足元がふらつき、思わず壁に手をついて体を支える。


「陽菜乃! やっぱり無理しちゃダメだよ。寝ずに明け方の調査なんて、体に負担が大きすぎるって……」


 晴音が慌てて駆け寄ってきた。カメラを首から下げたまま、心配そうに陽菜乃の腕を支える。


「いや、でもこの眠そうな感じは普通じゃないぞ」


「もしかして、さっきの写真の影響……?」


「とりあえず、ソファで少し休もう」


 陽菜乃は自分でもふらつく足取りを自覚しながら、部室の奥にある古いソファに向かった。このソファは歴代の部員たちが持ち込んだもので、夜遅くまで作業をする時の仮眠用として重宝されていた。


「本当に大丈夫? なんか顔色悪いよ」


「うん、ちょっと横になれば治ると思う……」


 陽菜乃はそう言いながらソファに体を横たえた。クッションに頭を乗せると、まるで磁石に引かれるように意識が遠のいていく。これほど強烈な眠気を感じたことは、これまでの人生で一度もなかった。


「ホントに変だぞこれ。普通の眠気じゃないだろ?」


 泰河の声が遠くから聞こえてくるようだった。陽菜乃は返事をしようとしたが、口を動かすことすらできなくなっていた。意識が深い闇の中に沈んでいく。



****



 陽菜乃が目を開けると、そこは三号館の非常階段だった。


「え……?」


 困惑しながら周囲を見回す。

 空気が妙に重い。まるで水の中にいるような、粘り気のある感覚がある。そしてなにより、音がない。完全な静寂が支配していた。普通なら聞こえるはずの風の音も、遠くの車の音も、一切聞こえてこない。


「夢……よね?」


 陽菜乃は自分に言い聞かせるように呟いた。そんなとき、階段の上の方から足音が聞こえてきた。


 カツン、カツン、カツン……。


 規則正しい、女性のハイヒールのような音だった。陽菜乃は反射的に音の方向を見上げる。


 そこにいたのは、自分だった。


 いや、正確には自分と全く同じ姿をした女性だった。同じ髪型、同じ服装、同じ体型。しかし、その女性は背中を向けたまま、ゆっくりと階段を下りてくる。


「え、ちょっと……」


 不気味さが背筋を駆け上がった。陽菜乃がその場から動けずにいると、もう一人の自分は陽菜乃の前を素通りしていく。そのとき、ほんの一瞬だけ横顔が見えた。


 それは確かに自分の顔だった。ただ、表情が全く違っている。まるで感情を失ったかのような、空虚で冷たい表情。生気のない瞳が、虚空を見つめていた。


「待って!」


 陽菜乃は慌ててもう一人の自分を追いかけようとした。なのに足が思うように動かない。まるで地面に根を張ったように、体が重くて動かないのだ。


 もう一人の陽菜乃は階段の下まで降りると、今度は再び上り始めた。同じように背中を向けたまま、同じリズムで足音を響かせながら。


「なんなの、これ……」


 陽菜乃は混乱していた。これが夢なら、なぜこんなにもリアルなのか。そして、なぜもう一人の自分がここにいるのか。


 困惑していると、非常階段の空間全体がゆらりと歪んだ。まるで水面に石を投げ込んだときのような波紋が、空間全体を覆った。陽菜乃は目を見開く。


 歪みが収まると、階段に立っているのは陽菜乃一人だけになっていた。もう一人の自分は消えてしまったのだ。


「夢、だよね……でも……」


 陽菜乃は自分の頬をつねってみた。痛い。確実に痛みを感じる。夢の中でこんなにもはっきりとした痛みを感じることがあるだろうか。



****



 一方、現実の部室では、泰河と晴音が眠り続ける陽菜乃を心配そうに見守っていた。


「もう一時間以上経ってるよ」


 晴音が時計を見ながら言った。午前六時を回ったところで、外では朝の光が差し始めている。横になってから陽菜乃は微動だにしない。呼吸は規則正しいものの、声をかけても全く反応がない。


「起きろよ、陽菜乃」


 泰河が肩を軽く揺すってみたが、反応はない。それどころか、陽菜乃の体が妙に冷たくなっているのに気づいた。


「おい、晴音! なんか陽菜乃の体が冷たいぞ」


「え?」


 晴音が慌てて陽菜乃の額に手を当てる。確かに、普通の体温よりもずっと低くなっていた。


「これ、普通の眠りじゃないよ。なにか異常が起きてる」


 晴音の声に不安が滲む。機械には詳しいけれど、こういう超常現象には対処することができない。


「うわっ!」


 泰河の顔が急に青ざめて後ずさりする。晴音が驚いて泰河を見た。


「どうしたの?」


「い、今……陽菜乃の隣に、陽菜乃と全く同じ格好をした女の人が座ってた。でも、顔は見えなくて……背中だけ見えて……」


「え……?」


 晴音は陽菜乃の周りを見回したが、そこには眠り続ける陽菜乃がいるだけだった。


「今は見えないけど、確かにいたんだ。陽菜乃と全く同じ髪型で、同じ服を着て……でもなにか違ってた。すごく冷たい感じがして……」


「陽菜乃の夢の中に、その人がいるのかな……」


 晴音がつぶやく。


「多分そうだ。陽菜乃は今、夢の世界でなにかと遭遇してる」


「でも、どうやって助ければいいの? このまま陽菜乃が目覚めなかったら……」


 晴音の不安は深まるばかりだった。



****



 夢の世界で、陽菜乃は再びもう一人の自分と遭遇していた。今度は階段の中段で、相手は手すりに寄りかかるように立っていた。やはり背中を向けたまま、陽菜乃のほうを見ようとしない。


「ねえ、聞こえてる?」


 陽菜乃は恐る恐る声をかけた。すると、もう一人の陽菜乃は、ゆっくりと振り返った。

 ヒュッと息を飲んで陽菜乃は言葉を失った。もう一人の自分は、その空洞のような瞳で陽菜乃をじっと見つめていた。表情は無機質で、まるで人形のようだった。

 そして、もう一人の陽菜乃がゆっくりと口を開いた。


『なぜ……ここにいるの……?』


 声も陽菜乃と同じだったが、感情が全く込められていない機械的な声だった。


「それはこっちの台詞よ。あなたこそ、なぜここにいるの?」


 陽菜乃は恐怖を押し殺して答えた。しかし、もう一人の自分は答えない。ただじっと陽菜乃を見つめ続けている。

 陽菜乃の困惑は深まるばかりだった。これが単なる夢なら、なぜこんなにも恐ろしく、そしてリアルなのか。



****



 現実の部室では、陽菜乃の状態がさらに悪化していた。体温はさらに下がり、呼吸も浅くなっている。泰河と晴音の心配は頂点に達していた。


「もう一度、真澄先輩に連絡してみる」


 晴音はすぐにスマホを手にして電話をかけ始めた。


「ああ、そうだな。これは俺たちだけじゃ手に負えない」


 泰河は再び陽菜乃の周りを見回した。さっきの影はもう見えないが、部室全体に漂う異様な雰囲気は変わらない。

 なにかが陽菜乃を夢の世界に引き留めている。そして、それは決して友好的な存在ではないようだった。


「陽菜乃、頼むから戻ってきてくれ……」


 泰河は眠り続ける陽菜乃の手を握り、心の中で必死に祈った。

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