第2話 告白
四月という季節が、春の嵐のように勢いよく過ぎ去っていった。
新しいクラスの、どこか浮足立ったような空気は、五月に入ってゴールデンウィークが終わる頃には、すっかり落ち着きを取り戻していた。それぞれのグループが定着し、教室の中には目に見えない、心地よい縄張りのようなものが出来上がっていく。私と美香、そして沙耶の三人組も、そのグループのひとつだった。窓際の日当たりの良い一角。そこが私たちの定位置になった。
春が深まるにつれて、私の心の中のざわめきは、むしろ存在感を増していた。新しい環境への順応は、常に私に「普通の女の子」でいるための、細かく絶え間ない演技を強いる。それは、じわじわと心を削っていく作業に他ならなかった。
「あー、もう無理! 古典の助動詞、何が何だかさっぱり分かんない!」
休み時間、前の席の美香が、くるりと振り返って机に突っ伏した。
「ちゃんとやっとかないと、中間考査大変だよ」
「分かってるけどさー。由紀はいいよね、頭良くて」
「そんなことないよ」
「あるって! いっつも冷静だし、大人っぽいし。尊敬するわー」
美香の屈託のない称賛がちくりと私の胸を刺す。本当の私を知ってしまったら、美香は尊敬なんて言葉、絶対に口にしないだろう。私はただ曖昧に微笑んでみせた。
「そうだ! ねぇ、由紀。掃除当番、今日から一週間、一緒だよね? 私、C班」
「うん。私も」
「よっしゃ! じゃ、放課後よろしくー」
その日の放課後。私は教室の隅で、黙々と机を運んでいた。掃除当番はあまり好きじゃない。自分の領域が、他人の領域と曖昧に混じり合ってしまうような気がして。
「倉本さん、それ、俺が運ぶよ」
不意に、後ろから声がした。振り返ると、そこにいたのは佐伯海斗くんだった。彼は、私と美香が話している時に、たまに輪に入ってくるクラスの人気者だ。
「ううん、大丈夫。一人でできるから」
「遠慮すんなって。女の子に重いもん持たせるるなんて男がすたるだろ」
そう言って、彼は悪戯っぽく笑うと、いとも簡単に私が持っていた机を二つ重ねて、ひょいと持ち上げた。彼の腕には、バスケットボールで鍛えられたのであろう、しなやかな筋肉が浮き上がっている。
「あ、ありがとう」
「どーいたしまして」
彼は、にっと歯を見せて笑った。太陽、という言葉が、ふと頭に浮かんだ。私とは住む世界が違う人。そう思っていたのに、その屈託のない笑顔は、不思議と私の心の壁をほんの少しだけ溶かしたような気がした。
それから私は、無意識のうちに佐伯くんの姿を目で追うようになっていた。
体育の授業。男女合同のバスケットボール。彼は、水を得た魚のようにコートを駆け巡っていた。友達と冗談を言い合っている時の穏やかな表情とは違う鋭い眼差し。額に光る汗。ボールを追いかけるしなやかな身体の動き。その一つ一つが、やけに鮮明に私の目に焼き付いた。
「きゃー! 佐伯くーん、ナイッシュー!」
美香が、コートの端で黄色い声を上げる。彼は照れたように軽く手を上げて、仲間とハイタッチを交わしていた。
「由紀も、ちゃんと応援しなきゃ!」
「……うん」
私は小さな声で応えながら、どきどきと鳴る心臓を悟られないように、ぎゅっと拳を握りしめる。
五月も下旬に差しかかったある日の昼休みだった。美香と沙耶と三人で、お弁当を広げていた時のこと。
「ねえねえ、このクラスでさ。彼氏にするなら誰がいい?」
美香が、唐突にそんなことを言い出した。
「もう、美香はすぐそういう話になるんだから」
私が呆れて言うと、沙耶が「うーん、誰かなあ」と真剣に悩み始める。
「私は、やっぱ佐伯くんでしょ! 優しいし、面白いし、スポーツできるし、完璧じゃん!」
「あー。佐伯くんは、確かにカッコイイよねえ」
沙耶も、納得したように頷く。
「でしょ? 由紀はどう思う?」
不意に話を振られて、私はどきりとした。お茶を飲んで、なんとか動揺を隠す。
「……別に、誰でも」
「またまたー。照れちゃって。由紀も、本当は佐伯くんがいいって思ってるくせに」
「思ってないよ」
私は、少しむきになって否定した。その反応が、かえって美香を喜ばせていることにも気付かずに。
その日の午後。教室で一人、文庫本を読んでいると、不意に頭上から影が差した。えっと思って顔を上げると、そこに佐伯くんが立っている。
「倉本さん、それ、俺も好きな作家なんだよね」
私は心臓が跳ね上がるのを感じた。彼が、私に話しかけている。
「え…」
「特にこの人のデビュー作が好きで。読んだことある?」
「うん。私も、それが一番好き」
思わぬ共通点に、私は驚きと嬉しさで、少しだけ声が上ずってしまった。
「マジで? あのラスト、やばくない?」
「うん。切なくて、でも、希望があって…」
「そうそう! 分かるなあ。意外だな。倉本さん、もっと静かな純文学とか読んでるイメージだったから」
「……どういう意味?」
少しだけ、棘のある声が出たかもしれない。決めつけられるのは好きじゃない。
「あ、ごめん! いや、いい意味でだよ。なんていうか、ミステリアスで、もっと知りたくなったっていうか…」
彼は慌ててそう付け加えた。そのストレートな言葉に、私はどう返していいか分からず、ただ下を向いて黙ってしまった。
「もしよかったら、今度俺のおすすめ貸そうか?」
「え、いいの?」
「もちろん。その代わり、倉本さんのおすすめも教えてよ」
そう言って笑う彼の顔を、私はまっすぐに見ることができなかったのだ。
彼と本の貸し借りをするようになって、私の日常は静かに、でも確実に変わり始めた。彼に惹かれれば惹かれるほど、彼に嫌われたくないという気持ちが強くなる。それは、中間考査のプレッシャーと相まって、私の内側の疼きを、より強いものへと育てていった。
それは必要な儀式だった。彼の目の前で、穏やかで知的な「倉本由紀」を演じるための歪んだ努力。
テスト勉強のストレスがピークに達した日の放課後。私は公園の隅で見つけた動きの鈍いカナブンを、ローファーの底で弄んだ。つま先で転がし、その絶望を楽しみ、最後に硬いヒール部分で、確実に仕留める。
ミシリ、と硬い殻が砕ける音。その快感が私の心を浄化していく。これでまた明日も、私は彼の前ではにかんだ微笑みを浮かべることができる。
そして中間考査も終わった六月一日。今日から、制服が白いセーラー服に変わっていた。「やっぱ、白セーラーはテンション上がるね!」と美香がはしゃいでいた。
「倉本さん、ちょっと、話があるんだ」
放課後、教室を出ようとした私を、佐伯くんが呼び止めた。彼の表情は、いつもより少しだけ硬い。美香が隣で「行っておいでよ」と、にこにこしながら私の背中を押した。
連れて行かれたのは、誰もいない西陽が差し込む音楽室だった。ピアノのカバーの上には、埃がうっすらと積もっている。
「ごめん、急に」
「ううん、大丈夫」
心臓が、嫌な音を立てていた。良い予感と悪い予感が、半々で渦巻いていた。
彼は少しの間、何か言葉を探すように床を見つめていた。そしてやがて意を決したように顔を上げて、まっすぐに私の目を見た。
「好きです」
その声は少しだけ震えていた、と思う。
「倉本さんのことが、好きです。俺と付き合ってください」
頭が、真っ白になった。
嬉しい。心臓が張り裂けそうなくらい嬉しい。
でも同時に足元から、奈落へ引きずり込まれるような、冷たい恐怖が這い上がってきた。
だめだ。私なんかと、付き合ったら、だめだ。あなたは光の中にいる人。私みたいな、暗くて醜い秘密を抱えた人間とは違う。
断らなきゃ。そう思うのに、言葉が出てこない。
彼の真剣な眼差しが私に突き刺さる。
もし。もしこの人の隣にいたら。この太陽みたいな人の光を浴び続けたら、私の中のあの暗くて冷たい疼きも、いつか消えてなくなるんじゃないだろうか。変われるかもしれない。普通の、本当にただの女の子に。
それは、あまりにも甘くて魅力的な希望だった。
私は、その希望に賭けてみたくなった。この人を騙すことになったとしても。
「……はい」
蚊の鳴くような、小さな声。自分でも聞こえたかどうか分からなかった。
「え?」
「よろしくお願いします」
私はもう一度、今度は少しだけはっきりとそう言った。顔が燃えるように熱い。彼の顔を見ることができない。
沈黙。
やがて彼が、ほっとしたように息を吐く音が聞こえた。
「……よかった。ありがとう、倉本さん!」
彼の声は、喜びで弾んでいた。
その声を聞きながら、私は固く目を閉じた。
一人、帰り道。白いセーラー服の袖をぎゅっと握りしめる。幸福感で足元がふわふわしていた。
でも同時に、私の足もとのアスファルトの黒い亀裂が、まるで世界の裂け目のように、大きく深く口を開けているのが、はっきりと見えた。
新しい秘密が、また一つ増えた。これまでで一番重くて、大きい、そして壊れやすい秘密が。
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