アンダー・マイ・シューズ

写乱

第1話 新学期

 四月は、いつも心がざわめく。

 新しいクラス、新しい教室、新しい人間関係。普通の高校生は、それに新鮮な希望を覚えて心を躍らせるのだろう。通学電車の中で見かける、楽しそうに笑い合うグループみたいに。

 でも私、倉本由紀は違う。そのすべてが、私の内側で眠っている何かを、春の虫みたいに、土の中からそっと押し出す。それは不快なものではない。むしろどこか甘美で、待ち遠しいような秘密の疼き。


 私の記憶の一番深い引き出しの、そのまた奥のほう。そこには、小さな赤い長靴の感触が、微かな染みのように残っている。雨に濡れた土の匂い。そして足の裏で何かがくちりと潰れた、あの忘れられない感触。それが何だったのか、もう定かには思い出せない。その瞬間に訪れた、驚くほどの心の静けさだけが、いまも私のお守りになっている。



 鏡の前で、私は真新しい制服の襟を丁寧に整えた。去年よりも少しだけ身体に馴染んだ、濃紺のセーラー服。アイロンをかけたばかりの青いスカーフを、決められた形にきっちりと結ぶ。スマートフォンが短く震え、画面に『由紀、おはよー!クラス、一緒だといいね!』という、太陽みたいに明るい文字列が点滅した。差出人は、高木美香。

『おはよう。だといいね』

 当たり障りのない返事を打ちながら、私は鏡の中の自分と目を合わせた。そこにいるのは、長い黒髪を後ろでひとつに束ねた、どこにでもいる高校二年生のおとなしい女の子だ。この子が幼いころからどんなひどい行為を繰り返してきたかなんて、ほとんどの人は思いもよらないだろう。

 食卓には、昨夜のうちに母親が置いたのであろう『数学の小テスト、今度こそ満点取りなさい』と書かれたメモが、無機質に光っていた。母親はもうこの時間は仕事に出かけている。大丈夫。ちゃんと「良い子」でいられる。お母さんの期待も、先生の評価も、友達の信頼も、裏切らない。私には私なりのやり方があるのだから。

 玄関で革の匂いがするローファーに足を入れる。私の新しい一年が始まる。それは、新しい「楽しみ」を見つけ出す、一年間の始まりでもあった。


 学校に着くと、昇降口のホールは生徒たちの熱気でむせ返っていた。クラス分けの表が張り出された掲示板に、黒山の人だかりができている。私は人混みを避け、自分の下駄箱を探す。硬い革のローファーを脱ぎ、指定のゴム底の上履きに足を入れる。自分の足が、硬い武装を解かれて、少しだけ無防備になるような感覚だ。


「あ、由紀! いた!」

 人混みをかき分けるようにして、美香が駆け寄ってきた。

「見た? 見た? 二年三組! また一緒! 神様ありがとう!」


 大げさに両手を組んで天を仰ぐ美香に、私は思わずくすっと笑ってしまった。私の笑顔を引き出せる人間は、そう多くない。美香はその数少ない一人だった。


「大げさだよ、美香」

「大げさじゃないって! あんたと離れたら、誰に恋バナ聞いてもらえばいいのさ。あ、担任、田中先生だって!」

「え、マジで? 田中先生って、あの体育の?」

「そう、鬼のタナカ!」

「うわー、最悪……」

「でも、授業は面白いって噂だよ。まあ、一年間よろしく、って感じ?」


 美香はウインクしながら私の腕に自分の腕を絡めてくる。シャンプーの、甘くて爽やかな香りがした。


「あ、沙耶も同じクラスじゃん!」

 美香が指さす先で、少しおっとりした雰囲気の友人、水野沙耶が私たちに気付いて手を振っていた。

「美香も由紀ちゃんも一緒? よかったー。また知らない人ばっかりだったらどうしようかと思った」

 沙耶は心底ほっとしたように胸を撫で下ろす。

「沙耶は大げさなんだって。すぐ友達できるくせに」

「そうかなあ」


 三人で連れ立って、新しい教室へ向かう。階段を上りながら、美香は「ねえ、選択科目どうする? 私、音楽にしようかと思って。由紀は今年も美術?」

「うん、静かだから好き」

「わかるー。沙耶は?」

「私は書道かなあ。字がきれいになりたいし」

 なんて、途切れることなく喋り続ける。


 この時間が、好きだった。気の置けない友人たちと過ごす、ありふれた日常。この「陽だまり」にいる間だけは、私は完璧に「普通の女の子」でいられる。でも、少しだけ疲れるのも本当。美香の太陽みたいな明るさに合わせるには、私はいつも背伸びをしなくちゃいけない。みんな、すごいな。こんなに自然に笑えて。私はちゃんと笑えてるかな。そんなことを考えていると、クラスメイトの誰かが「あ、バスケ部の佐伯くんも同じクラスなんだ」と話しているのが聞こえたが、その時の私は、特に気にも留めなかった。


 教室は、まだ誰のものでもない、新しい匂いがした。私の席は窓際の、後ろから三番目。悪くない席だ。美香は私の前の席だった。荷物を置くと、早速くるりと振り返る。


「ねえねえ、由紀。夏休み、どこか行かない? 海とか!」

「まだ春になったばっかりだよ」私は苦笑する。

「だって、今から計画しないと、いいとこ取れないじゃん! 水着、新しく買わなきゃだし!」

「美香は気が早いんだから」

「そうやって言ってると、あっという間なんだって。ね、沙耶もそう思わない?」

「うん、思うー。でも、私、泳げないんだよね」

「大丈夫、浮き輪があれば!」


 そんな他愛ない会話を繰り返す。楽しい。本当に、楽しいと思っている。でも心のどこか、一番冷静な部分が、この光景を一枚のガラス越しに見ているような、奇妙な乖離感を覚える。私はこの陽だまりの中に、本当に存在しているのだろうか。


 ホームルームが始まると、教室は嘘のように静かになる。新年度のスケジュールを説明している田中先生の、意外と穏やかな、しかし芯のある声が響く。私はふと、窓の外に目を向けた。校庭の桜が盛りを過ぎて、風に花びらを散らしている。きれいだ、と思う。

 その時だった。

 退屈さが、飽和状態に達する。私の意識が、現実からふっと剥離して、内側へ内側へと向かっていく。来たな、と思う。あの疼きだ。

 私は、視線を教室内に戻した。机の上に配られた新しい教科書の表紙には、美しい蝶が色鮮やかに印刷されている。生物の教科書だった。オオムラサキ。日本の国蝶。その完璧な翅の模様。きれいに伸ばされた触覚。

 ――この完璧な形を、めちゃくちゃにしてみたい。

 この指で。ううん、違う。靴を履いて。私のローファーの、硬い革で。その美しい翅を、粉々になるまで。その鱗粉の一粒一粒まで、私の靴底で感じてみたい。

 それは、抗いがたい、甘美な誘惑だった。不快感なんて微塵もない。むしろ想像するだけで、身体の奥がぞくぞくするような、心地よい興奮が湧き上がってくる。溜まった澱を、すべて洗い流してくれる、浄化の儀式。私は机の下で、自分の上履きのつま先を、反対の足でそっとなぞった。薄いゴム底の、頼りない感触。早くあの硬い感触が欲しい。


 放課後、美香と沙耶が「駅前のクレープ屋さん、新しくなったから行かない?」と誘ってくれた。


「今日、新作のいちごフェア最終日なんだって!」

「ごめん、今日はちょっと用事があるんだ」

 私は、申し訳なさそうな表情を完璧に作りながら、そう言った。その仮面の下で、心が躍っている。これから始まる、たった一人の秘密の遊びへの期待に。

「えー、なんでー? 昨日も用事あるって言ってなかった?」

「うん、ちょっと家の用事が続いてて」

「そっかー、残念。じゃあ、明日は? 明日こそ空いてる?」

 食い下がる美香に、私は「うん、明日は大丈夫」と優しく微笑んでみせる。友人としての自然なやりとり。それを巧みにこなす自分に、少しだけ酔う。

「じゃあ、また明日ね!」


 二人と別れ、一人になる。昇降口へ向かう足取りは、自然と速くなる。上履きを脱ぎ、自分のローファーに足を入れる。その瞬間、私は「普通の高校生」の皮を脱ぎ捨てた。

 足取りは軽い。まっすぐ家には帰らない。少し遠回りをして、あの古い公園へ向かう。獲物を探すハンターのように、私の目は鋭く、地面すれすれを舐めるように動いていた。


 公園の花壇は春の花で満ちていた。パンジー、ビオラ、チューリップ。まずは、どれにしようか。私は、まるでブティックでドレスを選ぶように品定めをする。今日はあの紫のパンジーにしよう。ベルベットのような、深い色合い。

 すっくと立ち上がり、何でもないことのように、その花の中心をぐしゃりと踏みつける。ローファーの硬い靴底が、柔らかい花弁を無慈悲にすり潰す。土の湿った感触が、靴底を通して微かに伝わってきた。これは前菜。ウォーミングアップだ。

 私の心が本当に求めているのは、もっと別のもの。

 私は花壇の縁石に沿って、ゆっくりと歩き始めた。いた。

 縁石のコンクリートの上を、のそりのそりと歩いている、小さな赤い点。七つの星を背負った、テントウムシ。

 私は、立ち止まった。心臓が、期待に、とくん、と高く鳴る。周囲を見回す。誰も見ていない。この公園のこの一角は、いま、私だけの舞台だ。

 私は、ゆっくりと右足を上げた。濃紺のスカートの裾が、ふわりと揺れる。

 まずは観察。その完璧な赤と黒のコントラスト。健気に動く小さな足。その生命の輝きを私は愛でる。口の片端だけが吊り上がり、逃げ惑う小さな命の輝きが、最高に愛おしく見えた。そしてローファーのつま先で、そっとその進路を塞いだ。

 テントウムシが、驚いて向きを変える。そっちじゃない。私はまた、つま先で壁を作る。右へ、左へ。逃げ惑う様を、私は楽しんだ。小さな神様にでもなった気分だ。

 十分に弄んだ後、いよいよ本番。

 私はテントウムシの真上に、ローファーのつま先を、そっと置いた。まだ体重はかけない。ただ影で覆い、絶望を与えるだけ。

 そしてゆっくりと、本当にゆっくりと、体重をかけていく。

 プチッ。

 脳に直接響く、快感のシグナル。硬い甲殻が、私の体重に耐えきれずに砕ける、小気味よい音と感触。

 私は、そこで止めなかった。さらに体重を乗せ、踏みつけたつま先をぐり、と半回転させる。靴底のギザギザした凹凸が、かつて命だったものを、コンクリートの染みへと完全に変えていく。完璧な破壊。完璧な支配。

 ――ああ。

 深い、深いため息が漏れた。

 母親の期待も、友人との関係で感じる見えないプレッシャーも、すべてがどうでもよくなる。身体中の細胞が、新しい空気に入れ替わったような、圧倒的な爽快感。自己嫌悪なんて、どこにもない。あるのは、すべてを終えた後の深い満足感と、世界を自分の足の下に踏み敷いたかのような、静かな全能感だけだった。

 これでまた、明日も「良い子」の倉本由紀を完璧に演じられる。


 私は、何事もなかったかのように、公園を後にした。ローファーの靴底の汚れなんて、気にしない。どうせ歩いているうちに落ちてしまう。

 空を見上げると、茜色の夕陽が街をきれいに染めていた。なんて美しいんだろう、と素直に思う。

 すれ違う人々は、私がたったいま、小さな命を弄び、快楽のために破壊したことなど知る由もない。この完璧な秘密。この光と闇の乖離こそが、私の世界を危ういバランスで成り立たせている。


 家のドアを開けると、スマートフォンが震えた。美香からだった。

『今日のクレープ、新作のいちごチョコ最強だった!今度絶対行こ!』

 写真が添付されている。美香と沙耶が、大きなクレープを手に、満面の笑みで写っていた。

 私はその写真を見ながら、何の屈託もなくメッセージを打ち返す。

『わー、おいしそう。うん、絶対行こうね』

 送信ボタンを押した指先は、「普通の高校生」倉本由紀のものだった。

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