第42話 東京
春の気配が、まだ冷たさを残す風に紛れて、街の隅々をそっとなでていた。
東京――コンクリートの峡谷にも、よく探せば芽吹きの兆しはある。
ビルの谷間の花壇には小さな新芽が顔を出し、歩道の植え込みでは早咲きの菜の花がこぼれるように咲いていた。
その柔らかな色彩の真ん中で、民部陸斗は制服の襟を指で整え、駅前の広場に立っていた。
雲ひとつない青空。
バスのブレーキ音、パン屋の香ばしい匂い、行き交う人波のざわめき――
どれも確かに「東京の日常」だ。
上海の薄曇りの空の下で、もう戻れないかもしれないと覚悟したこの光景が遠い昔のようにすら感じる。
胸ポケットには生徒手帳。その角をそっとなぞり、陸斗は小さく息を吐いた。
(――俺は、ちゃんと帰って来られた)
そう確かめると、駅前通りの向こうに見慣れた二つの影を見つけた。
――桜井琴葉と山城隼人。
信号が青に変わり、人々の流れに押されるように三人は自然と引き寄せられた。
「よっ、陸斗!」隼人がいつもの調子で手を挙げる。
「……おはよう」琴葉は春色のカーディガンの袖を揺らし、柔らかく微笑んだ。こんな何気ない朝を迎えられることが、どれほど貴重なことか――少し前の自分なら気づきもしなかっただろう。
「遅刻ギリギリだな。走るか?」隼人が軽口を叩く。
「やめときなよ。マラソン大会で倒れてた人がよく言うわね」琴葉が呆れた声で返し、隼人が「あの時は寝不足だったの!今それ言うかよ!」とぼやく。
そんなやり取りに、陸斗は声を立てて笑った。確かに、何かが変わった――自分の内側で。それを見透かすように、琴葉が歩きながら問いかける。
「……陸斗、変わったね」
「……俺、ちょっとだけ強くなったかもしれない」
言葉にすればそれだけで、上海での出来事――天花の痕跡、李文斌の忠告、紅華特務局の影、翔平の二重の顔――すべてが胸奥でざわりと揺れた。
琴葉は多くを聞かず、ただ歩幅を合わせた。隼人も何も言わず、ポケットに手を突っ込んだまま並んで歩いた。
校舎に着くと、冬の冷気と新しい季節の匂いが入り混じった廊下が出迎えた。教室の窓際で三人が並んで腰を下ろす。そこには――翔平の席だけが空白のままだった。
「なんか……やっぱり変だよな、この景色」
休み時間、隼人がぽつりと呟く。
「翔平は、今ごろどこで何してるんだろう」
怒りでも諦めでもない、不思議な余韻を含んだ声。何も言えない陸斗は答えを飲み込む。 言葉にしてしまえば、あの倉庫で見た裏切りと救いの矛盾が、軽くなってしまいそうで――。翔平が裏切り者ではないことは簡単に伝えていた、しかし、だからと言って心の傷が癒えたわけではなかった。
「でもさ、お前も無理するなよ。俺たちがいるから」隼人らしい真っ直ぐさが、空白を風のように埋めた。
琴葉も頷く。「無理に笑わなくていい。でも、ちゃんと顔を見せて。……私たち、ずっと一緒にいたんだから」
「ありがとう……」陸斗は静かに目を閉じ、言葉より深い場所で感謝を響かせた。
――終わってはいない。上海で知った事実は、まだ蒔かれたばかりの種だ。いずれ芽吹くそのときまで、心のどこかで準備を続けている。
数日後の放課後、陸斗は一人、新宿駅東口の広場に立っていた。
夕刻の空気は朝よりも柔らかく、人波のざわめきが橙色の光を揺らしている。手の中のスマートフォンには、短いメッセージだけが残されていた。
──「今日、会おう」
差出人は、翔平。
胸の奥で何かがざわりと揺れる。信じている。けれど心の傷はまだ癒えない。それでも答えを出すため、ここへ来た。
駅ビルの時計を見上げる。待ち合わせまで、あと五分。広場のベンチに腰を下ろすと、人混みの向こうから見慣れたシルエットが歩いてくるのが見えた。制服姿の翔平。かつての軽薄さはなく、どこか無防備で、どこか疲れていて――そして少しだけ、誇らしげだった。
「よう、陸斗。……久しぶり」
彼はそれだけ言い、隣に腰を下ろした。風が吹き、街路樹の新芽が震える。沈黙のあと、陸斗が口を開いた。
「……お前、本当は、ずっとこっち側だったんだな」
翔平は苦笑する。「ああ。でも、バレないようにするために……お前らのことも、突き放してた。嫌われるくらいに、な」
「……それでも、最後は……俺は守りたかったんだ。お前たちと、天花を」その声に嘘はなかった。
「信じていいんだな」陸斗の問いかけに、翔平は真正面から頷く。
「当たり前だ。そのために、ここに来た」
肩の力が抜ける。「……なら、もういい」
気持ちの整理が出来ないところも残るが、ただ「全てを受け入れる」という選択。 翔平が安堵の笑みを浮かべる。
「でさ、実は今日もう一人、会わせたいヤツがいるんだ」
「……?」 陸斗が首を傾げる。
翔平はベンチから立ち上がり、ビル街の陰を指さした。
流れ込む午後の陽光が、ガラス張りの駅ビルの吹き抜けを柔らかく染めていた。
スーツケースのキャスターが床を滑る音、人波に紛れる呼び声、春の匂い――。陸斗は改札横のベンチに腰を掛け、胸の鼓動がひどく速いのを必死に抑えていた。
そのときだった。
柱の陰から、小柄な影がそっと現れた。
白いコート。少し伸びた黒髪。そして、誰にも取り違えようのない澄んだ琥珀の瞳。
「……天花……!」
声が洩れた瞬間、理性が弾け飛んだ。
陸斗は無意識のうちに立ち上がり、人波をかき分けて駆け寄る。
天花もためらわず歩み出た。互いに伸ばした手の指先が触れた瞬間――世界が滲み、時間が溶ける。
彼女は痩せ細り、頬は透けるように青白い。それでも指先は、確かに温かかった。
「……陸斗」
かすれた声が鼓膜を震わせ、胸を打ち抜く。
「会いたかった……!」
言葉はそれだけで十分だった。陸斗はそっと彼女の手を包み込み、そっと抱き寄せる。氷のような体が小刻みに震える。
いつの間にか、数歩後ろに翔平が立っていた。人込みを避けるように少し距離を取りつつ、安堵と責任を背負った静かな表情で二人を見守っている。
「彼女はずっと耐えてきたんだ」
翔平は周囲に聞こえぬよう低く語りかけた。
「特務局にいた間、AI回路との拒絶反応が急激に悪化してな。感情が増幅するほど電気的痛覚フィードバックが襲う――まるで“感じること”そのものが罰になる仕組みだった。それでも天花は、自分の人間性を捨てなかった。お前を想うことで、人である証をつかもうとしたんだ」
天花は陸斗の胸元で小さく頷く。
「後悔してないよ……。あの痛みがあったから、自分が生きてるって信じ続けられた」
「でも、そんなの――あんまりだ……」
「いいの。私が選んだ道だから。それに、こうしてまたあなたに会えたから」
震える声で浮かべた微笑みは儚くも、確かな光を宿していた。
「どうやって戻ってこられたんだ?」
陸斗が問いかけると、翔平はほっと息を吐く。
「日本政府も紅華も、世界を敵に回す決定打を避けたかった。だから天花の帰国は、双方が被害を最小化しつつ手打ちにするための象徴になった。繁栄クラブが噛み、国会の超党派グループが動き、条件交渉は泥沼だったが――最後は“全員が少しずつ妥協をして、誰も完全には負けない”形で押し切った。いかにも日本らしい解決策、俺は、その擦り合わせ役をやったに過ぎないさ」
「……お前のおかげだな、翔平」
「まあな。でも俺だけじゃない。琴葉も隼人も、そして陸斗――お前の無謀なまでの信念が、交渉の最後の一押しだったんだよ」
照れ隠しのように彼が視線を外すと、人込みの向こうで政府の連絡員たちが合図を送り、静かに離れていく。二人に必要な時間を与えるためだろう。
再び向き合った陸斗と天花の間に、雑踏の喧騒が霞のように遠のく。
「本当に……帰ってきてくれたんだな」
天花は瞳を潤ませ、けれど優しく頷く。
「ごめんなさい。ずっと待たせて、心配ばかりかけて……。でも、あなたを思うときだけ、私は生きていると確かに感じられたの」
陸斗は彼女の涙を指で拭い、真っ直ぐに告げた。
「俺はずっと信じてた。どんな闇の中でも、天花の光が消えないって」
天花は彼の胸に顔を埋める。体温のない春風が二人を包み、駅ビルの上空でガラス越しに照る午後の陽が黄金色を濃くした。
「これから手術があるし、元通りになるかは……」
不安を口にしかけた天花の声を、陸斗が静かに遮る。
「結果なんて関係ない。俺は、どんな形の君でも守り抜く」
その言葉に、少女の瞳から迷いが消えた。代わりに、未来へ伸びる一本の光が揺らめく。
「信じるよ……。一緒に、生きよう」
二人はもう一度、強く抱き合った。痛みも悲しみも、春の暖気に融け出していくかのようだった。
――新しい季節。
芽吹き始めた東京の街で、少年と少女は“未来”を、その手で確かに?み取ろうとしていた。
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