第36話 心理的圧迫と譲歩要求
ガチャリ――鉄の扉が開く音が、室内の空気を一変させた。尋問室の張り詰めた沈黙を破るように、全員の視線が一斉にそちらへと向く。
薄暗い照明の下、無機質な鉄骨の構造が陰影を強める中、重い空気を押しのけて姿を現したのは、紅華特務局・東京支部代表、韓志遠(ハン・ジーユェン)だった。
彼は威圧するわけでも怒声を発するでもない。ただ、上質なスーツに包まれた均整の取れた身体、研ぎ澄まされた所作、そして曇りなき眼差しが、自然とこの空間の支配権を奪っていく。誰もが、それを否応なく感じ取っていた。
韓志遠は、一流の官僚のように冷静かつ整然と歩を進めた。彼の前の机には、ホテル襲撃作戦の詳細なログ、接続履歴、通信端末、押収機器、そして――EXODUS東京支部との連絡記録が、証拠物件として整然と並べられていた。
その全てが雄弁に語っていた。作戦の全貌はすでに解析され、榊原を通じて東京支部に直接指示が届いていたこと、そして彼らが信じていた“自由なレジスタンス”が、すでに紅華の監視網の中にあったという事実を。
韓志遠は、ゆるやかに息を吐き、静かに語り始めた。声に激情はなく、だが確信だけは一分の揺らぎもなかった。
「――君たちは、理想に溺れ、現実を侮った。自由とは、自律なしには成立しない。管理なき自由は、必ず破滅を招く」
その声には、怒りも憎悪もなかった。ただ、厳格な秩序を信じる者の純粋な確信がにじんでいた。
「紅華特務局は、国家と社会の“持続可能性”を保証するために存在する。個人の自由、感情、思想――それらが無秩序に広がれば、文明は瓦解する。我々はそれを未然に防ぐため、“人間を管理”する。必要であれば、感情さえも調整し、社会に適応させる」
韓志遠はまなざしを細めた。
「君たちが信じた“自由な意思”など、幻想に過ぎない。都市に秩序をもたらすには、個人の選択を超えた設計と統制が不可欠だ。――それが、我々の存在理由だ」
無慈悲でも暴力的でもない。むしろ論理的で、理性的にさえ聞こえるその宣言が、陸斗たちの心を強く締め付けた。
「神崎天花は、社会安定化プロジェクトの一環として生まれた。人間社会に調和するための“試験体”。だが君たちは、彼女を私的な感情で引き裂き、自己満足のために破壊しようとしている」
静かな告発だった。しかしその言葉が突きつける現実は、あまりに冷徹だった。
韓志遠は、卓上に一枚のフォルダを置いた。中には機密指定の書類が綴じられていた。
「君たちが今後、生き延びたいと望むなら、以下の条件を即時に受け入れてもらう。第一に、天花に関するすべての記録・機材・研究データの破棄。第二に、今後一切、彼女を追う行為の放棄。――これが、我々からの譲歩だ」
明確で、交渉の余地を残さない提示だった。室内に再び沈黙が落ちた。榊原は目を伏せ、羽柴はわずかに顎を引き、常盤は瞼の裏で何かを反芻するように静かに目を閉じていた。
交渉は始まってなどいない。提示された条件は“命令”であり、彼らがいま立っている場所は、「理想を語る者」ではなく、「敗北を受け入れる者」の位置だった。
しかし、それでも心の奥にわずかに残る火種だけは、誰一人として消し去ってはいなかった。
その緊張を切り裂くように、黄紹明(ホワン・シャオミン)が書類を一枚つまみ上げ、机の上で指先ではじいた。
「――天花。お前たちは、あの女に何を見た?」
彼の声音には、冷笑と嘲りが混じっていた。
「彼女の脳には、AI回路が侵襲的に埋め込まれている。構造的に“人間”ではない。感情? 愛?――そのどれもが、設計された“反応”に過ぎない」
彼は唇を歪め、さらに畳みかける。
「文化祭の弁当も、体育祭の涙も、生徒会での議事録も――全部が、君を“惹きつける”ための演出だった。最初から筋書きが用意されていて、お前はその通りに動かされた」
その刃のような言葉は、陸斗の胸の奥に突き刺さった。あまりにも鋭く、冷たく、残酷だった。
「……自分の意志で選んだと思っていたか? だが、お前は“選ばされた”だけだ」
さらに、翔平が歩み出た。かつての仲間だった男は、今や特務局の一員として、使命を帯びた目で陸斗を見据えていた。
「……お前の“情熱”は、崇高なんかじゃない。彼女が君を好むよう設計されていた。感情制御回路も、手術痕も、すべて制御されている証だ」
声は冷静で、理路整然としていた。
「俺たちは、彼女の“生存”を保証するために動いてる。紅華での保護体制なら、彼女を壊さずに済む。お前が本当に天花を想うなら、“自分のため”ではなく、“彼女のために”手を引け。それが答えだ」
再び、沈黙。
誰もが翔平の論理の冷酷さと、同時にそれが否定し難い現実であることを認めざるを得なかった。
だが――
その静けさの中、陸斗の内側で何かが静かに燃え始めていた。冷たく閉ざされた空気のなかで、まだ言葉にならぬ意志が、ゆっくりと形を成していこうとしていた。
その沈黙の中――榊原が、ゆっくりと顔を上げた。
敗北を知った者の顔ではなかった。ただ、静かに、燃えるような確信を秘めた目だった。 榊原は静かに立ち上がる。手錠がわずかに鳴り、椅子が軋んだ。その所作に、微塵の迷いもなかった。彼の視線が、韓志遠へ、黄紹明へ、そして翔平へと順に向けられる。その瞳には、もはや敗北の色などなかった。
「――確かに、我々は敗れた」榊原は、静かに言った。まるで、敗北を受け入れること自体を、恐れていないかのように。
「計画も、力も、情報も、すべて奪われた。だが――それが“正しさ”を証明するわけではない」
その声には、静かだが底知れぬ力が宿っていた。
韓志遠は無言を貫き、黄紹明は一瞬薄笑いを浮かべかけ、だが榊原の言葉に押し返されるように口を閉ざす。榊原はさらに続けた。
「君たちは、秩序を守るために、人間を管理するという。自由は錯覚、感情は統制すべきノイズ、理想は無力な夢――」
ひとつひとつの言葉を、榊原は、まるで刃を研ぐように丁寧に重ねていく。
「――だが、そんなものはただの、“安全装置のために魂を殺す行為”にすぎない!」
怒声ではなかった。だが、言葉そのものが雷鳴のように尋問室を震わせた。
「感情はノイズじゃない。理想は、錯覚なんかじゃない。人間は、結果ではなく、“もがき”そのものに価値があるんだ」
榊原の声が、ぐっと強くなる。
「天花が、設計された存在だと?記憶も、感情も、用意されたものだと?」
榊原は一歩、足を踏み出す。手錠の鎖が鈍く音を立てた。
「――ならば問う。君たちは、一度でも、彼女の微笑みの中に、プログラムにない“迷い”を見たことがあるか?」
韓志遠が微かに表情を動かす。黄紹明は反論しようと口を開きかけるが、韓が鋭い視線を向けると、その言葉を飲み込んだ。
「一度でも、彼女が苦しみ、悩み、誰にも頼れずに泣いた夜を、その“計画書”に記載できたか?」
黄の笑みが、わずかに引き攣る。
「演算できない、予測できない、“誰にも命じられていない選択”――それが、彼女の中にあった!」
榊原の声が、尋問室の壁に反響する。
「それこそが、人間だ!」
翔平の表情が、かすかに揺れた。彼は気づいていた――本当は、ずっと、気づいていたのだ。
榊原は静かに、だが鋭く言葉を続けた。
「もし、君たちが“管理された正しさ”しか認めないというなら、君たち自身もまた、ただの機械にすぎない!」
尋問室の空気が、熱を帯びる。張り詰めた秩序が、わずかにきしみ始めていた。
「たとえ敗者であっても。たとえ声が届かなくても。我々は――“誰かが用意した正解”ではなく、自分たちの意志で、選び続ける!」
沈黙が落ちた。だが、それは敗北の沈黙ではなかった。それは、抗う者たちの沈黙だった。榊原の言葉は、尋問室を満たし、支配しようとした空気に、確かな亀裂を刻んでいた。
そして、韓志遠が、静かに口を開いた。
「――時間だ。結局、我々は感情に支配された社会に秩序を見出せないのだよ」
淡々と、冷静に。だが、その声の奥には、ほんの僅かな感情の揺れがあった。
韓は時計を見下ろし、最終通告を告げる。
「譲歩案の受諾期限は、いまをもって終了する」
扉の外から、黒服たちが静かに動き出す気配が伝わってきた。
榊原は、微笑んだ。 静かに、誇り高く。
「我々は、君たちの手には落ちない」
たとえ身体を拘束されても。たとえ組織を潰されても。意志だけは、決して奪わせはしない。そして、物語は次なる闘いへと進み始める――。
重い扉が閉じる音が、尋問室に響いた。
その後、拘束を解かれたEXODUSのメンバーたちは、無言のまま倉庫の外へと歩き出す。 濡れたアスファルト、灰色の空、廃材のような機材。それは彼らが失ったものを象徴していた。
榊原は空を仰ぎ、低くつぶやく。
「……スパイを見抜けなかったのは、我々の失策だ」
その言葉に、羽柴も常盤も琴葉も無言で頷いた。敗者の沈黙ではない。未来を見据える者たちの沈黙だった。
紅華特務局の車列が遠ざかる。陸斗は雨の中で立ち尽くし、心の中で天花の名を何度も呼んでいた。
榊原が肩に手を置く。
「……我々はすべてを失った。 だが、それでも――まだ、未来を選び直す権利まで奪われたわけではない」
陸斗は顔を上げ、榊原を見た。
「希望とは、勝利を意味しない。希望とは、絶望の中でもなお、“選び続ける”意志のことだ」
雨は止まなかった。だが、その冷たささえ、いまは静かな祝福のようだった。
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