第35話 尋問
無言のまま現れたのは、特務局の黒服たちだった。
無駄のない動作で一斉に歩を進め、部屋全体を包囲するように立ち位置を整える。空間はまるで瞬時に冷却されたように、張り詰めた空気へと変化した。
その中央に、尋問官の黄紹明(ホワン・シャオミン)が姿を現した。
薄手のコートを翻しながら進むその歩みには、感情の揺らぎひとつ見られない。だが、その目だけが異様な光を宿していた。
それは人間の感情を測る眼差しではなかった。むしろ、何かを“解析”する装置のような冷徹さだった。
「昨夜の作戦――失敗は、君たちが思っている以上に“必然”だった」
彼の声は静かに空間に溶けていった。響くのではなく、染み込んでくる。
「計画を疑わない者は、計画を超えることができない。情報がすべてを制する。それが現代の“戦争”だ。……そして君たちは、我々が選んだ“最適解”のなかに正確に収まった」
黄はさらに歩を進め、琴葉、羽柴、常盤の顔を一人ずつ見ていった。その目は、外側から内部を透過し、心の綻びを探すような視線だった。
「……若さ、というのは眩しく見えるぶん、脆い。眩しさに、自分が照らされていると錯覚してしまう」
淡く笑みを浮かべながら言い放ったその言葉は、毒にも似た柔らかさを持っていた。
そして彼は最後に、陸斗の前に立つ。その眼差しは、観察者のものではなかった。切開者の視線だった。
「民部陸斗。お前の“感情”が、仲間たちを敗北に導いた」
短いその一言が、杭のように陸斗の胸を突き刺す。
「天花という少女への執着。……その個人的な情動が、判断を狂わせ、全体のリズムを崩壊させた。たった一人を救おうとしたことが、多くの希望を潰すこともある――それを、君は知らねばならなかった」
陸斗は目を伏せた。喉元まで込み上げた反論の言葉は、言語になる前に呑み込まれていく。
(……俺が、間違っていたのか……)
疑念が静かに広がり、身体の内側から揺らしていく。
だが、それでも彼の中には、あの夜の天花の笑顔が確かに残っていた。
「……たとえ間違っていたとしても、俺は……彼女を見捨てなかった。それだけは、誰にも否定させない」
声はかすれ、傷つきながらも、陸斗の中で最後の一点だけは守られていた。
扉が、再び静かに開いた。
――西野翔平。
その名を、誰も口に出さなかった。だがそれは、驚きではなく諦めだった。誰もが「まさか」と思いつつも、どこかで「やはり」と感じていた。
翔平は、EXODUSの制服でも、特務局のスーツでもなかった。無地のグレーの衣服。標章も、肩書きも、何一つ纏っていない。ただ、その姿そのものが、何よりも彼の変化を物語っていた。
「……まだ、そんな顔してるのか」
わずかに口角を上げた彼の目に、かつての温度はなかった。陸斗を見下ろすその視線は、友ではなく、第三者のそれだった。
翔平の足音が、冷たく硬いコンクリートに乾いた音を刻む。彼は無言のまま、陸斗の正面に立ち、軽く首をかしげた。
「……俺は、もう何にも驚かないと思ってたけどさ」
その声には、怒りも、憐れみもない。あるのはただ――“距離”。
「それでも君は、最後まであの子を信じてたんだな」
言葉は淡々と、まるで過去を振り返るかのように響いた。
「天花を助けたかった?まあ、気持ちはわかるよ。でも、それがどれほど君を愚かにしたか――今なら、よくわかるんじゃない?」
陸斗は何も言えなかった。いや、言えなかった。翔平の声には怒気がない。だからこそ、その言葉は残酷だった。
翔平はゆっくりと手を組んだ。
「教えてやろうか。君が出会った“神崎天花”は、最初からこの計画の一部だった。個別感情の生成、記憶の選別、社会適応実験用の仮人格――すべて、仕組まれていた」
一言一言が鋭く、切りつけるようだった。
「彼女が君の名前を呼んだ? 微笑んだ?――それすら、我々が作った“反応”の範囲内に過ぎない」
翔平が一歩前に出る。その足取りは静かで、しかし確信に満ちていた。
「君が愛したものは幻想だった。再現された“人間らしさ”に騙されて、それを真実だと思い込んだ。そして、その幻想のために仲間を巻き込んだ。それが、君の“現実”だ」
まるで弔いの言葉だった。
「……じゃあ、俺が天花と過ごした時間も、笑った顔も――全部、嘘だったっていうのか……?」
陸斗は絞るように問いかけた。声は掠れていた。
「嘘、じゃないさ。君は、ちゃんと信じた。それが君の“本物”だった。だがな、民部。君が信じたそれは、最初から台本の中に組み込まれていたんだよ」
翔平の声にはただ、“哀れみのない正しさ”だけがあった。
「俺は、最初からここに立つために動いてきた。……君と違って、感情に縛られなかっただけだ」
その瞬間、陸斗の脳裏にある映像がよぎった。翔平の目に宿る光。それは、黄紹明の瞳にあったものと同じ――熱のない確信だった。
「言葉を信じるな、民部。記憶を信じるな。感情は、必ず判断を誤らせる」
翔平の声は低く、重かった。
「君が“正しかった”と思ってるその数秒のために、何人が犠牲になったと思う? EXODUSの作戦ライン、暗号経路、連携ノード――すべて君の“動機”を起点に解析済みだ」
陸斗は目を閉じた。翔平の言葉が、じわじわと心を削っていくのを感じながら、それでもなお胸の奥には微かな声が残っていた。
(……あの一瞬が幻でも、構わない。それを信じるのが俺だ)
翔平が視線を横に流す。
「……桜井琴葉」
冷たく名を呼ばれ、琴葉はぴくりと肩を震わせた。ゆっくりと顔を上げる。
「……あなたは、いつからこっち側だったの?」
静かに問いかける声には、震えがなかった。だが、その張り詰めた静けさが、切実さを際立たせていた。
「いつから、なんて意味があるのか? そんなもの、選択肢にすらなかったんだよ」
翔平は淡々と答えた。
「じゃあ……学園で過ごしていた日々も全部、演技だったの? 天花ちゃんだけじゃなく、あなた自身も――最初からプログラムされていたの?」
琴葉の声に、かすかな怒気と悲しみが混じった。
「騙すことだけを考えていたなんて、あまりにも……」
翔平はふっと目を細め、わずかに首を振った。
「いや、それなりに楽しんでいたのは事実さ。嘘や演技ってだけじゃない。君たちと過ごす時間にも、それなりに楽しかったよ。だが俺は、それでも最終的には“合理的に”動く。それだけのことだ」
琴葉は目を伏せ、声を絞り出した。
「……あなたには、心なんてないのね。まるで機械よ。ただの操り人形じゃない」
翔平は無言のまま、短く息を吐いた。その表情には、何の揺らぎもない。
「感情にすがっているうちは、局面を動かすことなんてできない。それが今の“現実”だ」
その語調は、氷のように冷たく、痛いほどに理屈だけが響いた。
「EXODUSはもう崩壊してる。象徴も、組織も、希望も――全部。残っているのは、後悔と、罪悪感だけだ」
琴葉は拳を握った。だがその手は、微かに震えていた。
「……それでも、私はあなたを許さない」
絞り出すような声。
「どんな事情があっても、裏切った事実は消えない。なにより、天花さんを……」
翔平の目が細められた。その奥には、わずかな“痛み”が潜んでいた。
「……そうだな。許されるつもりも、ない」
その一言を残し、彼は視線を逸らす。
重苦しい沈黙。
誰も動かず、誰も言葉を発しなかった。だが、それは敗北の静けさではない。
それは、心のどこかで、まだ何かが生きている者たちの、静かな抗いだった。
陸斗はうつむきながら、拳を握る。声は出ず、身体は拘束され、痛みもあった。けれど、その胸の奥には確かに熱が残っていた。
特務局の黒服たちが無言で部屋を制圧するなか、民部陸斗だけは、心の中で立ち上がっていた。
――たとえ、誰にも理解されなくても。――たとえ、記憶すら捏造されていたとしても。
彼の心に宿った火は、まだ消えていなかった。この敗北の底から、必ず這い上がる。
夜明けはまだ遠く、倉庫街の屋根を冷たい雨が叩いていた。
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