第13話 風鈴
「……来てくれて、よかった」
その声は、かすかな風のように小さかった。
案内されて部屋に入ると、そこには以前と同じ静けさがありつつも、少しだけ“生活”の匂いが増していた。キャンプ用品の横に、小さなテーブルと丸いクッション。どれも主張は控えめなのに、不思議と温もりを感じさせる。
「最近ね、風鈴を買ったの。ちょっと試してみたいから……エアコン、一旦止めてもいい?」
「うん」
陸斗が頷くと、天花はリモコンを操作し、窓を開けた。むっとした熱気が室内に流れ込み、代わりにエアコンの静かな唸りが止む。
そして、吊るされた小さな風鈴が、チリン――と一度だけ鳴った。
外は相変わらず猛暑だったが、その一音は涼しさというよりも、澄んだ感情を運ぶような響きだった。
風がカーテンを揺らし、青空が切り取られたような窓辺に天花が立っている。薄手のワンピースの布地には汗の跡がわずかに浮かび、首筋を滑るその様が、どこか儚さを際立たせていた。
(……キャンプの夜も、こんなふうに暑かった。でも、心の中の熱気と静けさは今とは異なる部分と変わらない部分がはっきりしてきた)
思わず浮かぶ記憶に、陸斗の胸が熱を帯びる。水着姿で照れ笑いしていた彼女。焚き火の音。寄り添った気持ち。それらは現実だったのだと、こうして再び向き合っている今、改めて実感する。
「……あれから、頭ごちゃごちゃだったけど。でも、やっぱり逃げたくなかった。だから来たんだ」
陸斗は、天花をまっすぐに見つめながら口を開いた。
彼女は少しだけ視線を伏せ、そして消え入りそうな微笑を浮かべる。
「ありがとう……。信じてた。陸斗なら、また来てくれるって」
チリン、とまた風鈴が鳴った。
その音は、日差しにも負けず、ただ静かにこの部屋の空気を揺らした。
殺風景だった空間に差し込んだ風と光。ほんのわずかに加えられた“誰かの暮らし”の痕跡。そのひとつひとつが、天花が自分の存在を少しずつ確かめているように思えた。
陸斗は思う。この数日間、天花はどんな心でこの部屋で待っていたのだろうかと。
自分がいない間に彼女が部屋を整え、風鈴を選び、ここに自分を迎える準備をしていた――そのすべてが、「人間らしさ」を育てようとする祈りのように思えてくる。
(この子は、誰よりも“生きたい”と思ってる……)
それがヒューマノイドだろうと、生まれがどこだろうと関係ない。
この小さな部屋の中で、風鈴の音を頼りにして誰かを待ち続けていたのなら──
その気持ちだけは、もう疑う理由がなかった。
そして陸斗の中にも、またひとつ覚悟が育っていた。
この夏の続きを、まだ終わらせたくないという、少年の願いのような決意だった。
「でも、その組織……紅華特務局って、本当に大丈夫なのか?もし動き出したら……俺の家族とか、天花だって……」
自分で言葉にしてみると、ひんやりした恐怖が喉元を塞ぐ。AIやヒューマノイド開発の裏社会で名を聞く――紅華特務局。民間の研究機関を装いながら、国家機関との癒着も囁かれるブラックボックス。バイオノイドに関する違法改造技術の裏で蠢く、都市伝説のような存在。
(そんな組織が、天花を──)
天花はわずかに視線を伏せ、けれどどこか達観したような笑みを浮かべた。
「正直、わからないんだ。たぶん見限られてるかもしれないし、また急に連絡が来て、危険な命令を受けるかもしれない。でも……もし何かおかしいと感じたら、いつでも私を切り捨てて。私がいなければ、陸斗や家族が巻き込まれることはないと思うから」
その声音は静かすぎて、まるで自分を消すために話しているようだった。風鈴が小さく揺れ、陽射しがカーテン越しに差し込む。窓の外には猛暑が続く現実世界があるけれど、部屋の中にはただ二人の、揺らぐような沈黙があった。
だけど──。
「……見放すわけないよ」
陸斗は真っ直ぐに言葉を返した。恐怖や不安がないわけじゃない。それでも、天花を知りたい、支えたいという気持ちのほうが遥かに大きかった。
「天花が背負ってるもの、ちゃんと理解したい。助けになりたい。どこまでできるかは分からないけど……一緒に前へ進みたいんだ。少しずつでも、できることから」
その一言に、天花の目が見開かれ、次の瞬間、ふっと微笑んだ。あのキャンプファイヤーの夜に見せた、あの儚くも確かな笑顔に似ている。
窓から吹き込む風が、風鈴を再び揺らした。涼やかな音が、蒸し暑さの中で淡く響く。互いの手が触れたわけでもないのに、そこには静かで豊かな時間が流れていた。
ふと、天花の指先がそっと陸斗の手の甲に触れる。ほんの一瞬、羽が舞い降りたような感触。わずかに湿ったその指先は、震えていた。
「……ごめんね。私、こういうの、初めてだから。いろいろ怖いけど……」
その囁きは、迷いというよりも、必死さの裏返しだった。不器用で、でも誠実な気持ちのあらわれ。
陸斗もまた、静かに手を握り返す。言葉はなかった。ただ、その手のひらに伝わる体温が、すべてを語っているようだった。
「大丈夫。俺も、うまく言えないけど……天花と一緒にいると、ちゃんと前に進める気がする。焦らなくていいよ。一緒に、少しずつ乗り越えよう」
その言葉に天花は小さく息を吸い、「ありがとう」と囁いた。
チリン――風鈴の音が静寂を優しく撫でる。
彼女は「全部、話してもいい?」と控えめに尋ね、陸斗は「うん」と力強く頷いた。二人はクッションに腰を下ろし向かい合うと、空気は一変し、先ほどまでの穏やかさが静かな緊張に変わっていく。
「私、本当は……普通の日本人の女の子だった。親の仕事の都合で中国に住んでいて……でも、家族は感染症で亡くなって、私は一人になったの。なぜか親族に莫大な補償金が払われて、保護されると思って信じた人たちに、騙されて……」
天花は膝の上で手を握りしめながら、ぽつぽつと言葉を紡いでいく。
「脳にAI回路を埋め込まれて、バイオノイドに改造されたの。拒絶反応が出て、痛みに耐える日々。訓練って言われて、実際には“スパイ”になるための……教育だった」
“スパイ”という響きがどこか現実味を欠いているのに、天花の語る口調には、生々しい痛みがこびりついている。陸斗は息を呑んだ。
「でも、心のどこかで……自分がまだ人間だって信じたかった。陸斗と話してると、それがわかる気がしたの。泣いたり笑ったり、そういう感情が今もあるって。それが機械のせいかもしれなくても、私は、信じたい」
その想いに、陸斗の胸が熱くなる。
「……俺は、今聞いたこと、全部受け止める。まだ何ができるか分からないけど……でも、知りたい。手伝いたい。天花のこと、もっと」
自分でも気づかぬうちに涙ぐんでいた。天花は少し驚いたようにまばたきし、それからふっと微笑んだ。
「私、陸斗に振られても仕方ないと思ってた。でも、こうして……そばにいてくれて、ありがとう」
陸斗は拳を握りしめた。彼女がどれほどの痛みと孤独を抱えてきたか、すべてを理解はできない。それでも、一緒に進んでいきたい。
「……天花を守りたい。少しずつでも、きっとできることがあると思う」
静かに、けれどはっきりと伝えた。天花は「ふふ、陸斗らしいね」と小さく笑い、息を吐いた。
「ありがとう。私の今の状態は、組織から見れば計画外かもしれない。でも、私は“私の声”に従いたい。陸斗がそう言ってくれるなら、頑張れる気がする」
部屋の中には、確かに“人間らしい時間”が流れていた。AIでもスパイでも、ラベルもバッジも関係ない。ただ、彼女は──天花であり、今、目の前に生きている。
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