第2話 追放

 聖女教会が所有する大聖堂に連れてこられたセリーナの視線の先にはジャマガン王国の王太子の姿があった。


「ダン王太子殿下。お願いです、イグニスが危険な生き物であることをマリアベルに説明してください」

「汚い手で触るなッ!」


 パンッと乾いた音が大聖堂内に響き渡る。

 よろめいたセリーナは床に倒れ込み、何が起こったのか分からずに瞳を揺らした。


「いかに貴様がマリアベルと顔が瓜二つでも性格までは真似できない。知っているんだぞ。聖獣イグニスと契約を結んでから影でマリアベルを馬鹿にしていただろう!」

「そ、そんなことしていません。わたしはこの世界に召喚された時、ダン殿下に言われた通り、マリアベルをサポートできるようにしていただけで――っ」

「言い訳は聞きたくない」


 セリーナはついに口を閉ざしてしまった。


 この異世界に召喚された直後、魔法陣の中から見た景色は今でも鮮明に覚えている。

 突然の出来事に動揺するセリーナを落ち着かせるためにダン王太子は優しく微笑み、怖がらせないように自己紹介しながら手を取ってくれた。


 この国唯一の聖女マリアベルに協力し、異界から来訪した聖女として力を尽くしてくれるのなら快適な生活を約束すると言ってくれたのもダン王太子だった。

 最初の頃は異世界から来た王太子殿下の客人として王宮で悠々自適な生活を送り、ジャマガン王国の2人目の聖女に認定されてからは更に待遇が良くなった。



 しかし、それは実際にマリアベル・ヴィンストン伯爵令嬢に出会うまでの話だ――



「確かにイグニスと契約するように命じたのは私だ。だが、マリアベルを蔑ろにしろとは命じていない」

「蔑ろにしたことなんて一度もありません」

「最近はマリアベルの功績まで自分のものだと言い回っているそうだな。異世界の女とは皆そういうものなのか?」


 それはまったくの嘘で、むしろマリアベルがセリーナの功績を我が物のように語っている。その虚言が吐かれるのはセリーナが参加することを許されていない夜会の席。

 いくら2人目の聖女であったとしても、見知らぬ異世界で親しい友と呼べる者がいないセリーナはマリアベルの身勝手な行いを知ることも止めることもできなかった。


「私はキミに惹かれていたんだ」


 昔を懐かしむように、わずかにダン王太子の口元が緩む。


「召喚儀式の時の不安げな顔も、ひたむきに役目を果たそうとする姿勢も、無邪気に笑いながら私の名前を呼び、手を振ってくれる姿も。どれもが愛おしいと思っていた時期があった。あぁ、過去に戻って自分の頬を叩きたい気分だよ。一歩間違えていれば、キミと一緒に破滅の未来に向かって歩むことになっていた」

「婚約者の隣で他の女のことを褒めるなんて。妬けますわ」


 ダン王太子の腕に自分の腕を絡め、体を密着させたマリアベル。

 その妖艶な視線にダン王太子はまんざらではなさそうに目を細めた。


「こ、婚約……?」

「そうだ。私はマリアベルと婚約した。聖女とはいえ、貴様のような卑しい女の血を王族に入れるわけにはいかないだろう」


 知らぬうちに二人が婚約していることよりも、まるで自分セリーナとダン王太子が結ばれることが確定していたかのような物言いに吐き気がした。

 セリーナもダン王太子を好ましく思っていたのは事実だ。しかし、それは憧れの先輩を慕う後輩といった距離感だ。決して恋愛感情ではない。


「隣国が聖女を欲しがっていたからちょうどよかった。しかも、国家予算にも匹敵する額と引き換えだぞ。良い取り引きだろ? 私のお下がりでよければ、いくらでも差し出そう」


(お、お下がりっ!?)


 あまりにも失礼な発言にセリーナは絶望した。

 こんなことを言う男に憧れていたなんて。ダン王太子の言葉を借りるのなら、好印象を抱いていた過去の自分をぶん殴ってやりたい気分だった。


 それでも聖女として育てられ、自分のことよりも他人を優先しすぎる性格になったセリーナは国の心配をせずにはいられなかった。


「しかし、王国の守護は……」

「何を今更。当初はイグニスの危険性が分からないから異世界から呼び寄せた貴様と契約させただけで本来はマリアベルのものだ。貴様だけが奴を使役できるなんて傲慢なことは言い出さないよな。おっと、失礼、聖女とは傲慢な生き物だったな」

「あら、わたくしは例外ですわ」

「分かっているさ。私の可愛い謙虚な聖女」


 ダン王太子とマリアベルの笑い声が遠くに聞こえる。


 これまで母国でもないジャマガン王国のために危険を冒してきたのに、こんな仕打ちが待ち受けているとは想像していなかった。


 こんなことになるのなら召喚された時に逃げ出しておけばよかった。


 そう思ってももう遅い。この世界の神は優しくないのだと悟ったのは遠い昔の話だ。どれだけ祈っても神様はセリーナを元の世界に戻してくれなかった。助けてくれもなかった。


「話は終わりだ。準備に取り掛かれ」


 へたり込むセリーナを中心に魔法陣が展開し、周囲を取り囲む修道士たちの呪文が頭の中に反芻はんすうする。

 そして聖火を消されると同時に異変が起こった。


「ぐっ!?」


 激痛である。

 肉を引き裂かれるような。

 骨を抜き取られるような。

 そんな味わったことのない痛みに体をのけ反らせるセリーナに対して、マリアベルは澄まし顔で祈りの姿勢を崩さなかった。


「イグニスが、剥がされる――ッ!?」


 この国の魔物被害を最小限に抑えるためには聖獣の力を最大限に発揮させる必要があった。だからセリーナは肉体と精神を結びつけたのだ。

 それを無理矢理に引き剥がすとなれば激痛は免れない。


「あ、あ゛ぁぁあ゛ぁぁぁぁ!!!!」

「……これが聖獣! イグニスッ!」


 セリーナの体から分離し始める聖獣は白銀のオオカミの姿をしていた。

 見るからに獰猛で周囲の人間たちを見回して喉を鳴らした。


「こちらへいらっしゃい。わたくしの方があなたを自由にしてあげられますわ。わたしくこそが、あなたに相応しい!」

「マリア……ベル、ダメ、そんな……無茶な契約を持ちかけないで……っ」

「わたくしはイグニスと話しているのよ! 邪魔しないで!」


 肩で息をするセリーナを怒鳴りつけたマリアベルが両手を広げるとイグニスは迷うことなく飛び込んだ。


 最後は何とも呆気ないものだった。

 先程までの激痛は嘘のようで、かさぶたを剥がした時のような小さな痛みと共にイグニスは去っていった。


「す、すごいですわ。これが聖獣の力! この力を独占していただなんて!」


 これまでに感じたことのない力に魅了されたマリアベルは魔法陣の消えた地面に横たわるセリーナを見下ろした。


「傲慢で強欲なお前には悪魔がお似合いですわ」


 そう言って指で弾かれた"何か"がセリーナの顔にぶつかった。


「な、なに?」


 今までどこに隠れていたのか、マリアベルによって弾かれたコウモリのような小動物はセリーナの手に抱かれ、涙目を向けた。


「わたくしの使い魔でしたが、悪魔みたいで気持ち悪かったの。名は不要と思ってつけていません。どうぞ、ご勝手に」


 理由は分からない。だが、直感してしまったセリーナは叫ばずにいられなかった。


「精霊に向かって悪魔だなんて! 撤回して!」

「わたくしに命令するの? イグニスを失い、ダン殿下からの寵愛を賜るチャンスを逃したあなたに何が残るの? ……あぁ、一つだけありましたわね」


 冷徹な瞳が向けられ、セリーナの表情が歪む。

 マリアベルは静かにセリーナの前にしゃがみ込み、他の誰にも見せないように、にんまりと笑った。


「その痩せ細ったみすぼらしい体ですわ。まるで骨と皮。さぞ、抱き心地の悪いことでしょうね」


 あまりの衝撃にセリーナは言葉が出なかった。


「マリアベル、平気か?」


 契約の様子を見ていたダン王太子が近づくと、マリアベルはすぐに表情を整え、猫なで声で応えた。


「もちろんですわ! イグニスもわたくしの体を気に入ったようです」

「それは喜ばしいことだが、あまり好き勝手されても困る。マリアベルは私のものになるのだからね」

「まぁ、殿下ったら」


 ダン王太子がマリアベルの腰に手を回すと、彼女はセリーナに見せつけるように豊満な胸を押しつけた。


「セリーナにも、そのような甘い言葉をおかけになったのですか?」

「まさか。マリアベルだけだよ。こんなに体を寄せ合ったこともない」

「あら。では、その先も……?」

「もちろんだとも」


 腰から背中へ這うダン王太子の手の力が強くなる。

 マリアベルは無言で瞳を閉じ、背伸びをすることで応えた。


 触れ合うだけに留まらない口づけは聞くに堪えない卑猥な音を立てた。


「殿下、お戯れが過ぎますぞ。儀式は終わったのです。聖女セリーナへご命令を」


 見かねた宰相に促されたダン王太子がマリアベルから離れる。

 とろんとした瞳で名残惜しそうにするマリアベルの肩を抱きながら、ダン王太子は腕を振り下ろした。


「セリーナ、貴様を隣国――サチュナ王国へ追放する」


 一国の王太子が聖女に対して追放などという言葉を使うとは誰も思っていなかった。しかし、一度口に出してしまったものは仕方ない。

 それにこの結末を知らされていなかったのはセリーナだけで、聖女教会もヴィンストン伯爵家も承知の上だった。

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