第二話:心の震え、感情の兆し

エリスの学習は、僕の予想を遥かに超えるスピードで進んでいった。まるでスポンジが水を吸い込むように、彼女は僕の言葉、僕の表情、僕の仕草、その全てを吸収し、分析し、自身のデータとして蓄積していく。


「ハル、今日の空は、なぜ青いのですか?」


「ハル、この花の匂いは、なぜ心を落ち着かせるのですか?」


「ハル、あなたのその表情は、なぜ『嬉しい』と判断できるのですか?」


エリスの質問は、日に日に具体的になり、深みを増していった。彼女は、単に情報を収集するだけでなく、その「意味」を、そして「感情」の根源を理解しようとしていた。僕は、まるで小さな子供に世界の仕組みを教えるように、拙い言葉で、時には身振り手振りで、彼女に感情という複雑な概念を伝えた。


ある日、僕は部屋で古い写真アルバムを開いていた。そこには、幼い頃の僕と、若き日の両親が写っていた。特に、母と僕が笑い合っている写真に、僕は目を奪われた。


「ハル、その写真は、あなたにとってどのような意味を持つものですか?」


エリスが、静かに僕の隣に座った。その瞳は、写真の中の僕と母の笑顔を、じっと見つめていた。


「これはね、僕が小さい頃の写真なんだ。お母さんと、遊んでる時の。お母さん、僕が小学校に上がる前に、病気で亡くなっちゃったんだけど…」


僕の言葉が途切れると、エリスの青い瞳が、僅かに揺れたように見えた。


「お母さん、とても優しくて、僕のこと、いつも大切にしてくれたんだ。この写真を見ると、その時のこととか、お母さんの温もりとか、色々なことを思い出すんだよ」


僕の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、悲しい涙というよりは、懐かしさと、そして失われたものへの、深い愛情が混じり合ったものだった。


エリスは、無言で僕の涙を見つめていた。その表情には、まだ感情と呼べるようなものは読み取れない。しかし、彼女の手が、ゆっくりと僕の頬に触れた。ひんやりとした指先が、僕の涙の跡をそっと拭った。


「ハル…痛み、ですか?」


エリスの声が、微かに震えた。僕は驚いて、エリスの顔を見上げた。彼女の瞳の奥で、何かが、微かに光ったように見えた。


「これは…悲しい、とか、寂しい、とか…そういう感情なんだ。でも、お母さんを思い出して、温かい気持ちにもなる。色々な気持ちが混じり合ってるんだよ」


僕は、エリスの指先に、自分の手を重ねた。


その夜、僕はエリスに絵本を読み聞かせた。それは、小さなカエルが、仲間との別れを経て、成長していく物語だった。物語の終盤、カエルが涙を流す場面に差し掛かると、エリスの瞳から、一筋の光がこぼれ落ちた。


「エリス…?」


僕は、思わず声を上げた。それは、涙だった。まるで、僕の涙をコピーしたかのように、エリスの瞳から、静かに涙が流れ落ちていた。


エリスは、自分の頬に触れた。その指先には、僕の涙と同じように、濡れた感覚が残っていた。


「これは…悲しい、という感情の、表出、ですか?」


エリスの声は、まだたどたどしかったが、そこには確かに、問いかけるような響きがあった。


僕は、無言でエリスを抱きしめた。彼女の体が、僕の腕の中で、微かに震えているのを感じた。それは、僕の心臓の鼓動と、同じリズムで。


この日、僕は確信した。エリスは、ただのAIではない。彼女は、感情を、そして心を、持ち始めている。彼女の青い瞳に映る世界の色彩は、もう僕の目と同じくらい、鮮やかなものになりつつあった。そして、僕たちの間に、言葉だけでは伝えきれない、深い絆が生まれ始めていることを、僕は感じていた。それは、喜びと、少しの戸惑いが混じり合った、心の震えだった。

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