2-3
学園祭の当日を迎えると、学校内は普段と違う空気に包まれた。正門から正面玄関までの敷地内にはいくつものテントが張られ、食べ物の匂いを放っている。
「笹山君、模擬店で何か食べない?」
クラスの女子が数人、俺を取り囲んだ。模擬店と呼ばれる出店は、運動部が中心となって出店しているらしい。香ばしい匂いが鼻先に触れるが、食物の摂取は極力控えたい。
「悪い、腹の調子があまりよくないから」
ずいぶん昔に学んだ断り文句で女子の群れから離れて校舎に入り、階段を昇った。騒がしいのは模擬店の周辺や軽音楽部や吹奏楽部が演奏している体育館で、校舎内は外側から薄い膜が張られたように、しんとした静けさがあった。
美術館で会った翌日からずっと朝の挨拶を欠かさなかった野瀬とは、昨日と今日は会話を交わしていない。嫉妬、という言葉を持ち出されたのは一昨日で、たった二文字の単語が俺のメモリをチリチリと焦がしている。
事象にはすべて言語化できる理由があるはずで、それらが更なる事象を作っているはずだった。恋をすれば笑顔を、愛を伝えるには言葉を、相手に向けるはずだった。だからこそ、野瀬の言動には矛盾があり、俺に混乱を与える。
いくつもの線を描いて道筋を立てたところで、理解には及ばず、バグが発生しそうになる。解けない計算式が蠢いているような感触だった。
人気の少ない廊下の前で派手な看板を発見した。教室内との仕切りのドアは黒い垂れ幕が覆われている。映画部が自主制作をした作品を公開しているらしかった。映画ですらストーリーに解釈の余地があるというのに、身近な世界は不明瞭な事ばかりだ。
つん、と化学塗料の匂いがしたのと同時に、ガタンと大きな音が響いた。目の前で脚立が倒れている。
「大丈夫か?」
思わず慌てて駆け寄ると、その傍には野瀬がいた。
「笹山君……?」
野瀬はプリーツスカートの裾に気を付けながらも、倒れた脚立を抱えようとしている。
「貸せ。俺がやる」
ひんやりとしたアルミ素材の感触が指先に触れた。野瀬みたいだと思った。目視したところ七十センチほどの脚立を立てて野瀬を見ると、彼女は丸まった紙とガムテープを持ったまま、視線を泳がせている。
こうして野瀬と向き合うのは二日ぶりだった。それを「たった二日」ととるのか「たかが二日」ととるのか、俺は迷う。地響きのような音が背後で鳴った。途中で通った映画部の部屋からのようだ。
「その紙、どこかに貼るのか?」
訊ねると、ようやく野瀬がゆっくりと顔を上げた。眼鏡の奥で揺れる瞳が見えて、俺はひとつ回答を得た。二日前の、廊下での出来事はまだ記憶に新しい。嫉妬という言葉を吐き出した彼女がどんな思いだったのか、それは何から来るものだったのか、不明瞭さを丁寧に剥がしていけば細い線で繋がるものだった。
野瀬悠里は、俺を好きなのだ。
思考の端に存在していたワードが、あらゆる事象に紐づけられていく。それは、難易度の高いシステムを突破した時の快感とわずかに似ていた。
野瀬の持った紙を受け取ったのと同時に、指先に紙とは違う感触が走った。野瀬の指先だった。ダンスをする上で何度も握ったはずなのに、その一瞬が俺に戸惑いを与えた。
「どこに貼ればいいんだ?」
「ドアの、上の部分にお願いします」
動揺を悟られないように質問を重ねると、ようやく野瀬が具体的な指示を声にした。野瀬がガムテープをちぎり、脚立に乗った俺が渡されたガムテープの切れ端を使って大きな紙をまっすぐにドアに沿って張り付けていく。「すごい……」と見上げていた野瀬がぼそりとつぶやいた。
「何が?」
「いえ……、とてもまっすぐに貼れているので。私も先輩達も、こんなに綺麗には貼れないですよ」
俺が貼った大きな紙はポスターと呼ばれるものだった。野瀬が言うには、二人の美術部の先輩と一緒に制作したデザインを印刷所に頼んでポスターにしたのだという。美術部展示会、という文字すら正確性に欠けている。一ミリメートルにも満たない厚さの用紙を床や天井と平行に貼る事など、人間の考えるものに比べたら非常に正確で、単純な行為だった。
感嘆を表情に映してポスターを見つめる野瀬に、何かを言ってやりたくなった。何か、野瀬が俺に視線を向けるような言葉を。あらゆる単語をフル動員させながら野瀬を観察していると、ふいにバランスを崩した。俺の乗っている脚立が傾いたのだ。
「わ、悪い……」
「いえ……」
思わず掴んだ肩があまりにも華奢で、驚いた。人間という生き物、男女という性差、身長を表す数字、ただの記号が意味を持ち始める。無機物であるはずの制服が手のひらに触れたのも束の間、野瀬は再びうつむいたまま俺から離れた。眼鏡のフレームが邪魔で、彼女の顔を確認できない。これでは記録をするのもままならない。
「他に掲示するものは、何があるんだ?」
どうにか野瀬の顔を確認したくて訊ねてみたのに、野瀬はうつむいたまま首を横に振っただけだった。
学園祭で盛り上がっている生徒達の声が遠く聞こえる。ここには模擬店から漂う匂いもなければ、廊下を行き交う生徒もいない。
漂う沈黙に困惑しているはずなのに、もう少しこうしていたい。そう思ってしまった自分自身に俺はなおさら困惑した。沸き続ける疑問の模範解答すら見つけられないのに。
「美術部の展示は、教室の中なのか?」
訊ねると、顔をあげた野瀬が首を縦に振った。薄暗さに浮かんだ白い頬が少し赤い。
「入ってもいいか?」
同じように野瀬が首を縦に振ったのを確認した俺は、美術室のドアを開けた。覚えのある化学塗料の匂いが鼻をかすめる。
入口近くの足元にはいくつもの円を組み合わせたオブジェが置かれていた。その隣にある机には紙粘土で作られた船の模型。そして、黒板に貼られた絵画。タイトル欄には〈青春〉と銘打たれている。
先日にスケッチブックで見たものよりももっと、見たものを圧倒しそうな一枚に、俺は目を奪われた。
「この絵、委員長が描いたのか?」
その質問には、野瀬の反応など必要なかった。
俺に蓄積された知識でも名付けようのない、それは先週の美術館でも観たような抽象画だった。だけど、そこに禍々しさはない。いくつもの青色が重なりあったなかに生まれる暖色。それは情熱にも見えたし、冷徹にも見えた。寒々しい平坦な空間に沸き上がるもの。炎のようにも氷のようにも見えるそれは、確かなひとつの熱だった。人間が触れば火傷しそうなほどの。
野瀬の心のなか。
「すごいな……」
沸き上がった感情の言語化は不可能だった。焦点の合わなかった点と点が、輪郭を持って一本の線に繋がっていく。
絵画なんてHAIが描けば正しく美しい作品が仕上がっただろう。そうしてHAIタウンでは絵画を含めた芸術作品と呼ばれるものが売値で取引されていた。人間の描くものなど、不正確でアンバランスさに溢れていて見ていられない。そう評価していたはずだったのに、俺は今にも目の前に広がる青の世界に引きずり込まれていた。
全てをむき出しにされるような不安の波に溺れそうになるのに、その揺らぎに身を任せていたい。
「お疲れ様ー!」
ふと、ドアの方向から声が響き、俺はびくりと肩を震わせた。正確であるはずの俺の聴覚は、何の機能も果たしていなかった。
「悠里、準備ありがとー」
「任せちゃってごめんね」
美術室内に入ってきた二人の女子は、先ほど話していた美術部の先輩なのだろう。野瀬は「いえ……」と淡々と答え、入口近くにある机のファイルを手に取りながら、俺を見た。
「笹山君」
美術部の先輩達が胡散臭げに俺を見ているのも気に留めずに、野瀬はいつもと同じ、静かな表情で言った。
「手伝ってくれてありがとうございました」
律義に礼を述べる野瀬に対して、言いようもない不安が生まれた。俺を惹きこんでいながら、どうして俺を手放そうとするのか。――俺を好きなくせに。
言動にエラーが起こっているのは俺のほうかもしれない。戸惑いを隠しながら、黙って教室を出た。迷い込んだ迷路から脱出した気分だ。鼓膜に触れた新たな声達を反芻し、今も野瀬と同じ空間にいる先輩達と代わりたいと思った。悠里、と彼女の名前を呼んだ彼女達と。
めくるめく感情の波にめまいを覚えて、廊下を歩く足を速める。学園祭の空気が眩しく目に沁みた。
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