1-3


 自宅に帰ると、キッチンにいた真知子さんがいつもと同じように「おかえりなさい」と微笑んだ。

「ただいま」

 奥にあるコンロの鍋からはトマトをベースとした香りが流れてきた。人間達はこういった匂いを「美味しそう」と表現するので、それにならって俺がそう言うと、真知子さんは嬉しそうに笑った。

 真知子さんは今の俺にとっての義母に当たる。義父は芳郎さんだ。半年前に俺を引き取った笹山家は、ヒューマン地区の中では上流階級に位置する家庭だった。おっとりとした笹山夫妻は子宝に恵まれず、あきらめかけていた一年前、ある業者を通じてHAIの里親を申し出たのだという。人間の価値観に理解を示せないまま、俺は十六歳男子として笹山家に住み始めた。

「愁君、もうすぐ学園祭なんですってね。準備なんかで忙しいんじゃない?」

「うん、今日はフォークダンスの練習をしてきたよ」

「あら、いいわね。気になる女の子はいるのかしら?」

 使用を終えた調理器具を布巾で拭きながら微笑む義母は、特に返事を求めている様子もなく、「ゆっくり過ごしてね」と俺を自室へと促した。

 HAIを里子として引き取っているという事実はヒューマン地区では他言無用となっている。契約書にも厳しく記されており、違反した場合には多額の違反金が発生する。そもそもHAIは人間にとって煙たい存在のはずで、費用をかけてまでHAIを引き取りたいと思う人間は非常に珍しい。笹山夫妻も物好きな人達だった。まともに食事もできない俺を受け入れ、生活のルーチンに組み込んだ。

 宛がわれた自室で制服を脱ぎ、普段着に着替える。全身鏡に映った自分。笹山愁と名乗る、人間として過ごすHAIは、雄大に言わせれば「顔が整っている」らしい。とはいっても遺伝によって顔つきが決まる人間とは違い、HAIにとって顔を整える事は容易い。短髪と太い眉によって男らしさをまとっている高身長の雄大とは違い、人間男子の平均的な身長である俺は顔立ちも中性的だと表現され、はっきりとした二重まぶたも、白い頬も、人間の女とそう変わらない。しかしヒューマン地区では受けがいいので、俺はこのボディをそれなりに気に入っていた。

 鏡を見ながら、着替えによって乱れた前髪を片手で整える。人間らしい仕草、人間らしい感情。人間にとってHAIは脅威であり、牙を向ける相手であるという。だから、ヒューマン地区にいる俺は完全な人間を演じ続けなければならない。いつの間か窓の外は真っ暗だった。



 学園祭まで三週間を切った放課後、日直だった俺は数学教師の指示に従って、クラスで集めたプリントを持って三階にある数学準備室に向かっていた。数学準備室は校舎の三階にあり、奥に進むほど背後に響く放課後の雑音が遠くなる。

 教師にプリントを届けた後、ふと廊下の奥が気になった。暗がりに浮かぶそこは、現実から切り離された空間みたいだ。しんとした冷たい空気につんとした匂いが混ざり、嗅覚の示した元を辿る。あまり馴染みのない人工的な香り。数学準備室よりさらに奥に進んでいくと、廊下の突き当たりに美術室があった。俺はそっと近づき、中途半端に開かれたドアの隙間から中を覗き見た。

「あれ?」

 思わず声が出た。

「委員長?」

 室内にいたのは、野瀬悠里ひとりだけだった。立てかけられた板に向かって、手を動かしている。俺に気付いた野瀬は手を止めて、ゆっくりと顔をあげた。

「笹山君、どうしたんですか?」

 相変わらず抑揚のない声が、絵画やオブジェの飾られた美術室内に響いた。

「あ、いや……。邪魔して悪い。入っていいか?」

 野瀬がうなずいたのを確認し、俺はゆっくりと室内に入る。野瀬が放課後に持つスケッチブックを思い出した。彼女は美術部だと言っていた。美術という選択科目も美術部という部活も知っていたが、それらと無縁だった俺が美術室に入ったのは初めてだった。

 野瀬が手に持っている筆を見て、この匂いの元が絵具である事を知る。立てられたキャンバスには重なった数々の色を、俺の脳が識別していく。野瀬の座るすぐそばの机にはスケッチブックが広げられている。そうか、と俺はようやく理解する。人間が絵を描こうとする姿を見たのも初めてだったのだ。

「美術部員は委員長だけなのか?」

「他に先輩が二人いますよ」

 二日間に渡って行われる学園祭、美術部もこうして準備に取り掛かっているらしい。野瀬は委員長業務もこなしているのだから、時間のやりくりに苦労しているのだろう。そう思い、

「大変だな」

 と声をかけると、野瀬はわずかに頬を緩ませた。唐突な出来事に、俺は一瞬瞬きをするのも忘れた。

「いいえ。私は絵を描く事が好きなので」

 遠くでは吹奏楽部の楽器の音が響いている。金管楽器の突き刺さるような音が、美術室という空間を取り囲んでいるみたいだと思った。実際にはドアや窓の閉じた場所を音が自在に空気中を振動させる事などありえないのに。

 机の上にあるスケッチブックに思わず手を伸ばした。厚紙をめくると、キャンバスにあるものとは違う色彩が、白いページを埋めていた。風景画でも模写でもなく、絵具の色が散りばめられている。とっさに脳が識別コードを認識し、そこは二百以上の色彩が混じっている事を理解した。ただそれだけだ。これを絵と呼んでいいのか俺には分からない。

「これ、委員長が描いたんだよな?」

 俺が訊ねると、野瀬は小さくうなずいた。華奢な手の握る筆が、キャンバスを走っていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る