檻の中の普通

真花

檻の中の普通

 何となく楽しい日々はすぐに風化する日々だ。何も遺せずに死ぬ予定をなぞるだけの日々だ。人生を消化し始めたらあっという間に終わりに導かれる。平穏でいる幸せに捕らわれることも刺激にまみれる快楽に溺れることも、同じことの表裏でしかない。

「ハナタはどうして小説を書くの?」

 ホテルの窓からは東京タワーが見えていた。ぼやっとしたオレンジはどこか色気がある。俺はベッドの縁に座ってタバコの煙を胸に溜めながら景色にもう飽きていた。ミカは枕を背もたれにして上半身だけ起こして、俺のことを斜め後ろから覗いている。すぐにタバコを吸いにこっちに来るだろう。

「書きたいから」

「それは知ってる。そうじゃなくて、どうして書きたいのか、だよ」

「知らねーよ」

 ミカがムッとするのが背中から伝わって来る。何となくは分かっている。だが言葉にしたことはない。俺はいつもよりずっと深く煙を吸って、大きく吐き出す。吐き出した拍子に胸の中で言葉になった。

「俺ってさ、普通なんだよ。何でも普通。仕事して、恋愛して、納税して、遊んで。全部普通。クソつまらない。貧困も暴力も同性愛も、逆の超大金持ちとか、ナルシストとか、そう言うの全然ない。マジで普通の人間なんだ。それが許せない。だからと言って人生を歪める勇気もない。犯罪者になって歴史に名を残すなんて愚か者の方法論だし、変なことをしたら何者かになれるなんてのも間違っている。『普通コンプレックス』だとしても、それを実生活で打破するつもりも予定もない。檻の中の普通だよ。だから普通じゃないことを架空でするために小説書いているんだと思う」

「そうなんだ」

 ミカは布団から這い出て俺の隣に座る。

「それで俺の何かを遺せればいい。遺したいってのはある」

「作品がちゃんと遺るよ」

「まだアマチュアだから、誰にも読まれないで埋もれるでしょ。だから新人賞とかに応募しているんだよ」

 ミカはタバコに火をつける。交代するように俺のタバコが終わる。

「きっと獲れるよ」

「どうかな。……でも、最近別のことも思うようになった。普通って惨めじゃん?」

「そうかな」

「惨めだよ。本当の苦しさのある惨めさとは違う、惨めとも言い切れないモヤっとした惨めさがある。不幸をアイデンティティに出来ない。する方もどうかと思うけどね。それで、書いている間だけは惨めさを感じないってことに気付いたんだ」

「大発見」

 俺はミカの尻を叩く。ミカが、何よ、もう、と笑う。

「そしたら、俺は小説だけは最強でいたいと思うようになった。小説だけは負けたくない」

 ミカは、す、と考える顔になる。タバコを持った手が止まっている。

「勝ち負けって、あるの? 小説に」

「明確にある。上手い下手じゃないんだ。強い弱いがあるんだよ」

「そうなんだ」

「でもまだ全然弱い。弱いくせに最強でいたい。だからモヤモヤする。だからまた次を書く」

「いつかなるってこと?」

「早くなりたい。そうなったときにこの気持ちがどうなるかは知らない。でもなりたい」

「私は、ハナタの小説好きだよ」

「でもまだ弱い。弱いままじゃ何も遺せない」

「そう繋がるんだ」

 ミカは忘れていたタバコを口許に持っていき煙にする。たっぷり時間をかけて吐き出して、ミカは、でもさ、と俺の顔を見る。

「そんな風にパッションがあるだけで、もう普通じゃなくない?」

「そうかな。誰だって何かに情熱を持っていると思うけど」

「それはハナタの普通であって、普通の普通じゃないと思う。もっと安穏に生きるだけの人の方が多いんじゃないかな。そう言う生き方を否定する訳じゃないよ。でも、パッションを持っているハナタは素敵だ」

 俺は鼻の頭を掻く。指からタバコの香りがした。

「全部ひっくるめて、書きたい。俺は小説を書くことが好きだ」

「知ってる」

 ミカが天使のように笑う。まるで、俺の歪んだ情熱の根本まで全部を肯定するみたいだった。俺もちょっとはにかんで、ベッドに上半身だけ大の字に寝転ぶ。ミカが好きだと言ってくれたらそれだけで小説は生まれた意味があるのかも知れない。それはそれであっていい。同時に最強になりたい気持ちがあってもいい。遺したくあってもいい。全てを獲りに行っていい。どの道、やることは書くことだけなのだから。ミカも体を倒して俺にひっつく。

「次の作品って、もう考えてるの?」

「まだアイデア段階なんだけどね」

 ミカは俺の腕に乗せた頭で頷く。俺は自分のアイデアを語りながら、望む未来を想像する。最強だと本当に思えたそのときに、ミカにやったね、と言われたい。俺はもうきっと離さないようにミカをギュッと抱き寄せた。だが、俺が抱くべきものはミカではなかった。俺はまた仰向けになって、胸の中で「小説」を抱き締めた。


(了)

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