第47話 妹の若菜に伝えなければいけないこと

 夕暮れ時の街は、茜色に染まる空の下で穏やかにざわめいていた。


 街中を後にした佐久間真司さくま/しんじは少し疲れた足取りで家路をたどっていたのだ。

 真司の隣には、ついさっきまでクラスメイトの高松燐たかまつ/りんがいた。


 燐の明るい笑顔と、彼女が放つ軽やかな空気感に引っ張られるように、今日は一日中、街中で開催されていたイベントを楽しみ、喫茶店に立ち寄ったりと歩き回っていたのだ。

 だが、途中で別れを告げ、今は一人。


 真司の心には、燐との時間と、妹の若菜わかなに伝えなければいけない言葉が複雑に、心の中で渦巻いていたのである。


 はぁ……どうするかな、これ……。


 真司は小さく呟き、夕暮れ時の空を見上げた。

 茜色の空は、真司の心を映すように、どこか曖昧で揺れていたのだ。




 自宅のドアを開けると、香ばしいハンバーグの匂いが真司を迎えた。

 キッチンからは軽やかな物音が響き、家全体が温かなリズムを刻んでいるようだった。

 玄関で靴を脱ぎ、リビングに足を踏み入れると、キッチンの入り口からひょっこりと顔を出したのは、妹の若菜だった。


「お兄ちゃん、お帰りー!」


 エプロンを身にまとい、髪をポニーテールにまとめた若菜は、満面の笑みを浮かべている。その無邪気な笑顔に、真司は一瞬、胸のモヤモヤを忘れそうになった。


「ただいま……」


 少し疲れた声で応え、真司はバッグをリビングの床に置く。

 若菜はキッチンから身を乗り出し、興味津々な目で真司の事を見た。


「ね、今日どうだった? ちなみに、どこ行ってたの?」


 その質問に、真司の心がざわつく。

 燐との時間を妹に話すのは、なぜか妙に緊張するのだ。


「えっと、まぁ……本屋巡り、かな」


 誤魔化すように笑う真司だったが、内心では冷や汗ものだった。

 嘘をつくのは得意じゃない。それに、若菜の鋭い視線がチクリと刺さる。


「ふーん、そうなの?」


 若菜は少し疑うような目を向けたが、すぐにいつもの笑顔に戻り、キッチンへと引っ込んだ。


「じゃあ、夕飯の準備手伝ってよ! 今、ハンバーグ作ってるの」


 その元気な声に押されるように、真司は近くにあったエプロンを手に取り、キッチンへ向かうのだった。




 キッチンではすでにご飯が炊け、味噌汁が鍋の中でほんのり湯気を上げていた。

 若菜は手際よくハンバーグのタネをこねていたのだ。

 真司は妹の隣に立ち、言われるがままにハンバーグを丸め始めた。


「お兄ちゃん、上手だね!」


 隣にいる若菜がニコッと笑う。

 その笑顔に、真司は照れくさそうに口元を緩めた。


「そ、そうかな? こういうの、初めてなんだけどな」

「でも、普通に上手い方だと思うよ!」


 妹の褒め言葉に、真司も調子を合わせて笑う。だが、心の奥ではモヤモヤが渦巻いていた。


 燐からの告白、今日の街で燐と過ごした時間、そして若菜との関係――全てが絡み合い、それらが頭の中で混在していたのだ。


 やがて、フライパンに敷かれたスライス玉ねぎの上に、真司と若菜がこねて作ったハンバーグが並び、じゅうじゅうと美味しそうな音を立て始める。


 キッチンに広がる香ばしい匂いに、真司の胃が思わず鳴った。


「ハンバー特有のいい匂いだな」

「でしょ? お兄ちゃんの分もバッチリだからね! 楽しみ!」


 若菜の得意げな声に、真司は小さく笑う。


 数分後。焼き上がったハンバーグを二人で丁寧に皿に盛りつけ、リビングのダイニングテーブルへ運んだ。

 ご飯、味噌汁、そしてハンバーグ。

 温かな食事が並ぶテーブルを前に、二人はエプロンを外し、向かい合って座った。


「いただきまーす!」


 若菜が元気に手を合わせ、箸を手にハンバーグを一口パクリ。

 妹の目がキラキラと輝く。


「んっ、美味しいッ! お兄ちゃんのお陰だね!」

「そ、そうかな」

「絶対そうだよ! お兄ちゃんも早く食べてみてよ!」


 促されるまま、真司はハンバーグを箸で掴んで口元へ運んだ。

 ハンバーグの断面を見つつ、それを口に入れる。

 ジューシーな肉汁が口内に広がり、真司は目を見開く。

 だが、心の中では葛藤が渦巻いていた。


 燐からの告白を、若菜に話すべきかと――


 今日中に伝えようと決心していたものの、いざとなると言葉が喉に詰まる。


「お兄ちゃん、美味しい?」


 若菜の無邪気な声に、真司は一瞬ハッとした。

 妹の笑顔を見ると、胸に秘めた言葉がせり上がってくる。


「あ、あのさ、若菜。ちょっと……話したいことがあって」


 真司は勇気を振り絞り、箸を握り締めて言う。


「え? なに? 急に真面目な顔して」


 若菜は箸を止めて首を傾げた。

 その動揺した表情に、真司の心臓がドクンと鳴る。


「じ、実はさ……」


 真司は箸を置き、深呼吸した。

 覚悟を決めるように、目を閉じて言葉を紡ぐ。


「結論から言うと……燐から告白されたんだ。だから今日、街で一緒に過ごしたのも……本屋巡りってのは嘘だった。ごめん……」


 その瞬間、若菜の箸がピタリと止まった。

 妹の瞳に、驚きと不安がちらりと過ぎる。


「え……燐さんから?」

「うん。でもさ、俺、若菜と……その、付き合ってるのに、燐ともそんな感じで過ごすのは、なんか心苦しくてさ」


 真司は目を逸らし、テーブルに視線を落とした。

 重い沈黙が二人の間に流れる。

 若菜の手が、わずかに震えているのが見えた。


「そ、そうなんだね。うん、ありがとう、ちゃんと話してくれて」


 若菜は無理やり笑顔を作ったが、その声はいつもより高く、動揺を隠しきれていなかった。


「燐さん、凄くいい人だもんね。私にも優しくしてくれたりして」


 妹は言葉を続けるが、どこか寂しげだ。


「でも、世間から見たら、私たちってただの兄妹だし。燐さんにも、いつかこのこと話さないとだよね」

「そうだな……」


 真司の声は重い。

 テーブルにはハンバーグの温かな香りが漂っているものの、二人の間には冷たい空気が流れていたのだ。


「でもさ、こういう話。食事しながらだとちょっと重いよね」


 若菜が不自然にも急に明るい声で言った。明らかに無理をしているのが分かる。


「ご飯終わってから、もう一度ゆっくりと話さない?」

「そ、そうだな。その方がいいかもな」


 真司は同意するように小さく頷いた。

 若菜はテーブルの端にあったリモコンを手に取り、リビングのテレビをつけた。

 画面から流れるバラエティ番組の軽快な笑い声が、緊迫した空気を少しだけ和らげる。


 二人はテレビに目をやりながら、感情を押し殺すように食事を続けた。

 ハンバーグは確かに美味しかった。けれど、真司の心には、燐の眩しい笑顔と、若菜の不安げな瞳が交互に浮かんでいたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る