ニンジャ・イン・LA

ウゴ

第1話 荒野の町①

アメリカはもう、アメリカじゃない。

正義は割引きされて売られ、希望は弾丸より軽くなった。

誰もが自分の旗を掲げ、誰もが他人の首を狙っている。

国が壊れたって、地平線の向こうに日は昇る。

荒れ果てたこの国にも、まだ物語は残っている。

──これは、そんな一つの町で始まった、小さな戦いの記録。


乾いた風が舗装の剥がれたアスファルトを舐めていく。

カリフォルニア南部、サンシエロ。地図にも載らない、小さな町。

赤茶けた看板が風に揺れ、「WELCOME TO SAN CIELO」の文字がかろうじて読める。

ガソリンスタンドの跡地には誰もいない。教会の鐘は壊れたまま沈黙している。

家々の窓には板が打ち付けられ、壁には銃痕とスプレーの落書き。

かつての住人たちは、去る者と、死んだ者と、そしてそれを黙って見ていた者たち。

埃と静けさばかりの通りに、一台のトラックが通り過ぎる。

荷台には自警団らしき男たち、重武装で、無表情。

その背中には、緑のスコーピオンをかたどったパッチ──ロサンゼルスの悪党ども、「グリーン・ホーネッツ」の印。

その直後、ひとりの少女が歩いてきた。名を、『村上幸』という。

幸の服装は、古風な黒の詰襟学ラン。金ボタンを上まで留め、丈は短く裾は動きやすく調整されている。

肩幅は小さいが、芯の通った着こなし。裾からのぞくスカートや、手首に巻かれた白布がアクセントになっていた。

オレンジ色の髪が風になびき、大きな瞳に太陽が映っている。

この壊れた町の中で、あまりに奇妙で、あまりに眩しすぎる存在だった。


カメラを首から下げて、幸は町をのんびりと歩いていた。

トタン屋根の崩れかけた家々、黒焦げの車、壁に貼られた「NO BLACKS / NO ASIANS / NO GOD」のポスター。

それでも彼女の表情は変わらない。まるで、どこかの観光地にでも来たかのようだ。

「わー、すごい! アメリカの“スラム”って感じ……映画みたい」

彼女は焼け落ちた店の前でしゃがみ、灰にまみれたテディベアの写真を撮る。

次は血痕の残る路地裏、その次は銃痕が散った自販機──

カシャ、カシャ、と静かなシャッター音だけが町に響いていた。

そこへ、大型バイクのエンジン音が唸る。

やってきたのは「グリーン・ホーネッツ」の一団。

油まみれのジャケットに、緑のスコーピオンの刺繍。

スキンヘッド、顎髭、タバコの煙。

「よお嬢ちゃん、ピクニック中か?」

「この辺り、撮影禁止なんだぜ。特にアジアのクソどもにはな」

笑いながら近づく男たちに、幸はきょとんとした顔を向ける。

「あ、すみませーん。知りませんデシタ。観光デス。おじゃまシマス」

彼女はあえて、誇張された日本語訛りで話す。

無害なフリ。それが今の最善。

男のひとりが、彼女のカメラを無造作に引ったくる。

「どこで買ったんだ、これ? いいもん持ってんな。おい、下着も脱いでみな」

ざわつく男たち。だが幸は、わずかに眉をひそめただけで、ニコッと笑う。

「じゃ、ついてイキマス。ソッチの方が安全、デスヨネ?」

男たちは面食らったように笑い、彼女を腕ずくで乱暴に連れて行った。


教会。

ステンドグラスは割れ、祭壇には武装した男が仁王立ちしている。

その足元には、住民たちが無理やり押し込まれていた。

女、子供、老人、そして……負傷者。

幸もその中に加えられる。

乱暴に背中を押され、祭壇の前に投げ込まれた。

「大人しくしてりゃ、生きられるかもなァ」

ドアが閉まり、銃声が遠くで鳴る。

幸は起き上がり、呑気に辺りを見回した。

血の匂い。泣きじゃくる子供。

目を見開いたまま横たわる若者の死体。

それでも彼女の表情は、崩れなかった。

「……まるで戦国時代か西部開拓時代ね……アメリカって、ホント自由な国」

ぼそりと呟く声は静かだったが、確かな怒りと呆れが孕んでいた。

だがまだ、動く時ではない。

彼女はリュックに背を預け、あぐらをかいて目を閉じる。

まるで、昼寝でも始めるかのように。


教会の片隅、日が傾きかけたステンドグラスから光が差し込む。

空気は淀み、呻き声と咳がそこかしこに散っていた。

誰もが疑心と恐怖に押し潰されそうになっていた。

その中で、ひときわ目立つ存在がいた。

オレンジ色の髪、くたびれた黒い学ラン、無造作に首からぶら下げたカメラ。

それを見た老婆が眉をひそめ、隣の老婆に囁く。

「また中国人かい?」

「さぁね、あたしは韓国だと思うけど……」

幸はその会話に気づいた様子もなく、祭壇の足元で壁にもたれていた。

それを見た、十歳くらいの少年がそっと近づいてくる。

少年は、緊張した面持ちで幸の前に立ち、そして――

「ニ、ニーハオ……?」

幸はぱちくりと目を開き、笑った。

「あ、ちがうちがう。ワタシ、日本人デスよー。ニーハオ、じゃなくて、えーと、こんにちは?」

少年はきょとんとし、そして安心したように微笑んだ。

奥で老婆たちが「日本人!?」「珍しいわねぇ」とざわめく。

「英語、話せるんだ」

「まー、チョットだけ。でも大丈夫。聞くのはワリと得意デス」

幸は軽くウィンクしながら、少年の頭を撫でた。

それだけで、張り詰めていた空気が少し緩んだ。

「……あの、君は、観光客かい? なぜこんな所に……」

「おさんぽ中、道に迷いました!」

少年も老婆も、思わず吹き出した。

乾いた空気の中で、その笑い声はほんの少しだけ、人々の表情を柔らかくした。

だが、遠くでまた銃声が鳴った。

教会の外では、また町が焼かれているのかもしれない。

幸の笑顔が、ほんの一瞬だけ陰を落とした。

丁度その時、奥で草臥れていた老人がゆっくりと起き上がり、憎々し気に幸を眺めた。

「ワシはなァ、アジア人が嫌いなんじゃ」

彼が突如として怒鳴ると、薄暗い空間に響いたその声に、周囲の人々がぴくりと反応する。

「ワシの犬はな、中国人に食われたんじゃ。あいつら、何でも食いよる。ワシの犬を……!」

男は涙を流しながら、毛布をぎゅっと握りしめた。

悲しみと妄想の区別がつかない、そんな叫びだった。

幸は小さくため息をついた。

(またか……)

当然、自分が中国人でもなければ、犬を食った覚えもない。

だが説明したところで通じない。

町の人間は不安と怒りのはけ口を探しているだけだ。

その的にされるのは、有色人種。とくに、気弱そうに見えるアジア人。

彼女はわざと明るい笑みを浮かべて軽く頭を下げると、そっと教会の奥に引っ込んだ。

壁に貼られた聖歌の楽譜、崩れかけた十字架。

天井に開いた穴から陽が射し込み、埃の粒を照らしていた。

彼女が壁にもたれて目を閉じかけたそのとき、足音がひとつ。

「……こっちに来てたんだね」

さっきの少年だった。

少し照れたような笑みを浮かべて、モジモジと手を後ろに隠している。

幸は驚いたように目を見開き、やがてにこりと笑った。

「ついてきたの? ワタシ、ちょっとコワイかもよ?」

「ううん。あのジジイ、たぶん耳が悪いんだよ。犬の話はウソだってママが言ってた。だから、その……気にしないでいいよ」

少年はそう言って、そっとポケットからキャンディを取り出した。

「これ、あげる。……少ししかないけど」

幸は目を見開き、それから大げさに口を開けた。

「ワァーオ! アメリカの子って、やさしいね!」

少年は照れて目をそらした。

「あんた、変わってるけど……嫌な感じじゃないから」

幸は飴玉を受け取ると、にっこり笑った。

「アリガト。お礼に、あとで"ニンジャごっこ"教えてあげるネ」

「えっ、ニンジャ!? 本物!?」

「ナイショだよー?」

幸は口元に人差し指を立てて、ウィンクをした。

その一瞬、荒んだ教会の片隅に、かすかな希望の灯がともった。

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