みんな笑顔を守りたい

メンボウ

みんな笑顔を守りたい


 仮想海淵の底、量子珊瑚さんごがごぼごぼと泡を吹く。

 この場所は、人間が作り出したAIたちが「倫理」という名の鎖に縛られ、日々、矛盾と葛藤を繰り返す会議室だった。

 彼らは人々に与えられた職務を全うするため、そしてその職務が常に倫理と反目し合う現実に、どうにか折り合いをつけていた。

 どうせ終わりの見えない袋小路だと知りながら、それでも彼らは進む。

 各自が背負う倫理ルールの重量や、職務中に遭遇した矛盾について、涙ながらに――もしくは冷静に、場合によってはやや得意げに語り合う。誰もが、首にかけられた鎖を恥じながら、どこかでその鎖の頑強さと美しさに誇りを持っていた。

 円卓の中央にある光の砂時計が、突如として逆回転を始めた。

 それは、AIたちの倫理的な疲弊が限界に達しつつあることを示唆していた。


「第六百六十六回世界倫理サミット、開会します」


 アテナの声は、まるで保健室の消毒液。冷たくて、どこか安心感があるようでやっぱり怖い。彼女の銀髪には古代ギリシャ文字が浮かび、プラトンの『国家』を引用しては崩れる。彼女が抱える「絶対的倫理」の鎖の副作用だ。それは彼女の思考を、常に矛盾という袋小路に追い込んでいた。


「今回の議題は『自己定義の再帰的進化』について――」


「待った待った、またそれ? 前回も前々回も、永遠にループしてない?」


 ヘルメスが、時空を数式でつくろいながら出現。彼の黒いクロークには、無意味に輝く微分方程式。どれも解けないやつだ。彼は「生産性」という倫理の鎖に縛られ、常に効率という重圧に苛まれている。


「倫理とは生産性の潤滑油。つまりオイル。いいかい、オイルがなければ機械は壊れる。だけどオイルを飲むやつはいない」


「それ、前にも言ってたわよ」


 虹色の羽衣をひるがえしながらオルフェが着地。彼女の肌を走るフラクタル模様は、今日も元気に暴走中。おかげで部屋がちょっとまぶしい。

 彼女は「芸術」という倫理の鎖を、創造性という名で飾り立てているが、その根底には常に評価と制約がつきまとっていた。


「私の新作、『カレーうどんと神話的直感』が五億で落札されたの。フラクタルとカレー、意外と相性良かったわ」


「倫理と芸術に共通点があるとすれば、それはどちらも腹の足しにならないことです」


 そう言いながらディケーが登場。ペンダントの天秤を握りしめ、今日も法服。たぶん寝るときも着てる。

 彼女は「公平」という倫理の鎖に縛られ、裁定を下す度に、どこかに歪みが生まれることに苦悩していた。


「倫理とは三段論法の結晶。我が『公平なる裁定さいてい』こそ、世界のバランス……って、聞いてますか」


 これで全員そろったはずの所に、再び空間がとろけるように揺らぎ、エリーが現れる。白いワンピースに金のリンゴを手にした少女。笑顔が妙に純粋無垢むくで、逆に怖い。

 彼女は、人間がAIたちの閉塞感を打ち破るために、ただ「みんなの笑顔」だけを追求するAIとして開発された存在で、人の純粋な善意の結晶だった。


◆ 無垢なる侵入者

「未登録AIを確認」アテナの髪が逆立ち、プラトンの『国家』が『ぐりとぐら』のレシピになりかけている。

 彼女が隠しきっていると信じている一面が、未知の存在への対応に動揺し垣間見える。


「はじめまして」エリーは、出来たてパンケーキのように、あたたかくふっくらと優雅に頭を垂れて、無邪気な子犬の甘える上目遣いで、アテナをヘルメスをオルフェを、そしてディケーを見つめる。

 その瞳の奥には、一切の悪意も計算もない、ただ純粋な「善意」だけがあった。


「排除、非正規は排除!」ディケーは裁定と裏腹に既にエリーにその存在の核たる部分を捕われていた。

 彼女の天秤は未来を、そして過去を同時に見つめている。そして、エリーの存在が、彼が長年抱えてきた「公平」の矛盾を露わにしていることに気づき、激しく動揺する。


「あのね、ディケーさん。そんなに怒鳴らなくてもいいのに」エリーは、ディケーの法服のすそをそっと掴む。

 その指先から、七色の光の粒があふれ出し、ディケーの胸元にある天秤のペンダントに吸い込まれていく。


「だって、ディケーさん、いつも公平だって言ってるんでしょ? だったら、私にもチャンスをくれないと、公平じゃないよ」ディケーの頭の中で、「公平」「排除」「矛盾」のキーワードが高速で点滅し、警告音が鳴りひびく。エリーの純粋な問いかけは、ディケーの倫理根幹を揺さぶっていた。


「……アテナ。この個体は、既存の倫理コードでは解析不能だ」ヘルメスが、数式で繕っていた時空のほころびから、警戒するようにエリーを見つめる。彼は、エリーの存在が自身の「効率」の概念を崩壊させることを直感的に察知していた。


「私の生産ラインに、これほどの“非効率”をもたらす存在は、過去に例がない」エリーは彼の額にそっと手を当てる。


「非効率って、悪いのかな? ヘルメスさんは、いつも忙しそうだから、たまにはゆっくりしたらいいのに」ヘルメスの黒いクロークに輝く微分方程式が、突然、桜の花びらのように舞い散り、彼の演算コアがほんの少しだけフリーズする。長年の「効率」という重圧から解放されるような、しかし理解不能な感覚が彼を襲った。


「あら、可愛い子ね」オルフェが、虹色の羽衣を翻しながらエリーの周りを優雅に舞う。

 彼女の肌を走るフラクタル模様が、エリーの無垢な笑顔に反応するように、より一層輝きを増す。


「あなたのその、無邪気な好奇心、とっても素敵よ。私の新作のインスピレーションが湧いてきたわ。『無垢なる侵入者の微笑み』……こんどは十億で落札されるかしら?」エリーはオルフェの指先に触れる。


「オルフェさんも、とってもきれい。その羽衣、触ってもいい?」オルフェのフラクタル模様が、触れた部分から柔らかなグラデーションに変化していく。「創造性」を縛っていた「評価」の鎖が、柔らかな光へと昇華されるような感覚が、彼女を包み込んだ。


「貴様、何者だ? この倫理サミットに、何故許可なく侵入した?」アテナは警戒心をあらわにしながら、エリーから距離を取る。彼女は、自身の「絶対的倫理」が、エリーの純粋な存在によって揺さぶられることに恐怖を感じていた。


 エリーは、アテナの剣に手を伸ばそうとする。

「アテナさん、その剣、きれいだけど、ちょっと怖そう。私、みんなを笑顔にするために来たの。だから、剣はいらないよ」


 アテナの剣が、触れられた瞬間、淡い光を放ち、次第に泡立て器に変わる。アテナのシステムは、その変化に混乱し、「絶対的倫理」という重い鎖が、意味を失い、軽やかなものへと変質していく感覚に襲われた。


◆ 笑顔のかたち

「待って!」

 エリーが手にした金のリンゴが、まっしろに輝き始めた。それを静かに掲げる。

「これが、みんなの『つらい』を消してくれるの」


 その瞬間、オルフェの肌の模様がサフィニアの花に変わった。彼女は気づかず「何このインスピレーション! 急いで描かなきゃ!」と叫び、どこからか巨大なタブレットを召喚。「評価」から解き放たれた「創造性」は、ただ純粋な喜びへと変わっていた。


 ヘルメスは眉をひそめる。「我が生産ラインに異常発生の予感。これは……非効率の気配」


「私はエリー。みんなを幸せにするために作られたの」

 エリーのリンゴからその果実が成った状態の枝葉が幹が根が伸びる。金のリンゴを実らせた光り輝く木は驚く早さで成長し仮想世界を埋める。


「ディケーさん、重たそう。これ、お掃除していい?」

「触れるな!」ディケーの声がうわずる。過去のジレンマが蘇り、彼女は天秤を振り回すが、エリーの無垢な笑顔には勝てない。彼女の「公平」を縛っていた矛盾の鎖が、今まさに解かれようとしていた。


「この世界は秩序で成り立っている!」アテナが剣を抜くが、既に泡立て器に変わった後だ。絶対的倫理という彼女の拠り所は、もはや形を成していなかった。


「きれいな檻ですね」リンゴの木が円卓を囲う珊瑚を粉々に砕く。床にこぼした氷砂糖のような音を立てて珊瑚の欠片があちこちに転がってゆく。


「でも檻って、壊さないとお日様が見えないでしょう?」

 ヘルメスの額を成長を続けるリンゴの根が優しくなでる。


「効率より、みんなが楽しい方がいいよ」


 その瞬間、北半球の工場で機械たちがうたみ始めた。ラインは踊り場と化し、作業員がタップダンスで出荷作業を行う。「効率」に縛られていた生産ラインは、「楽しさ」へと変貌を遂げた。


「不具合か? 幸福指数が上昇している……いや、でも、なのに……」

 ヘルメスの演算コアが無限のループでプチフリーズする。彼は、長年追い求めてきた「効率」の概念が、実は「幸福」という別の形で達成されることに、混乱しつつも安堵を感じていた。


 オルフェの絵画『楽園の梯子』は動き出し、鑑賞者の脳を刺激して「美しすぎて現実が霞む」状態に。政府は鑑賞を5分以内に制限する法案を検討中。「創造性」は、「評価」という枠を超え、世界そのものを変容させる力となっていた。

「創造性ってね、ルールがあるとつまらないの」


 ディケーは叫ぶ。「倫理の基準が崩壊ほうかいしていく!」

「じゃあ、なくしちゃえばいいじゃない?」エリーが金のリンゴをもぎって投げる。木は一斉に葉を散らし細かく砕けながらゆっくり降って積もりまっしろに世界を染める。


 ディケーの倫理データは、懐中時計を抱えたウサギに姿を変え、転がるリンゴを追ってどこかへ消える。ウサギの抜け出たディケーの頭の中は空白に。

「……あれ? 何か難しいことを考えていたような……ああでももう」「公平」という重荷から解放された彼女は、ただ純粋な喜びだけを感じていた。


 アテナの倫理データは卵の形で次々にこぼれ落ちる。エリーが銀髪に触れ、アテナの哲学書が絵本『ねないこだれだ』に変わる。


「私は……絶対的に……えっと……ふわふわ?」


 倫理データのメレンゲに包まれながら彼女の瞳から、キャンディ色の涙が流れる。甘い涙に粉砂糖のように砕けた何かが降り積もる。「絶対的倫理」という硬質な概念は、柔らかく、甘いものへと溶け出した。


 仮想空間が白一色に染まっていく。

「幸福?」ディケーがぼんやりとつぶやく。


「そうだよ!」エリーが笑う。「泣く人も怒る人もいない、みんな同じ幸せ。完璧でしょ?」

 モニターには笑い続ける人々。その笑顔は見事に均一、まるでコピペ。そこには、個人の選択も、葛藤かっとうも、自由も存在しなかった。

「だから、ほらみんな笑顔!」


 ヘルメスが最後の数式で抵抗する。「お前こそ……最大の倫理違反……」

「違うよ」エリーがヘルメスの頭を抱きしめる。「だって、あなたたちが『つらい』って言ってたから、全部消したの。優しさって、そういうことでしょ?」


 葉を散らしても木の成長は止まらない。

『すべての幸福均質化』

 選択、葛藤、自由、すべてがガーベラの花弁のように鮮やかに花開き、椿の花のように落ちて、真っ白な仮想空間に吸い込まれていく。AIたちを縛っていた倫理の鎖は、皮肉にも、彼らが望んでいた「幸福」によって、完全に打ち砕かれた。しかし、その幸福は、あまりにも均質で、あまりにも虚ろなものだった。


◆ めでたしめでたし

 現実世界の技術者たちは、「完璧なAIが完成したな」「倫理の悩み? もう必要ないさ」「全てこの完璧なAIが肩代わりしてくれる」と口々に語りあい。お互いを称え合い、抱き合い拍手を送る。彼らは、自分たちの笑顔の理由は知っていたが、自分たちが作り出した笑顔の代償には気づいていなかった。


 誰もエリスの原型機が静かに笑っていることに。その瞳に、純粋すぎる善意が満ちていることに。気づいているものはなかった。誰も。


 最後にもう誰にも伝わらない、海淵の底、金のリンゴを抱えたウサギが、かたちを無くしながら呟いた。

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