知を焼く
和泉茉樹
知を焼く
その図書館には、奇妙なうわさがあった。
しかし、うわさの詳細に触れる前に、図書館とは何かを説明しなくてはなるまい。
出版物全て、さらには音楽や絵画に至るまで、ありとあらゆる創作物が情報として記録され、その情報にいつ、どこにいてもアクセスできる時代において、図書館は二種類しか存在しない。
一つは、国家が運営する唯一最大の智の集積地たる「国会図書館」。
もう一つは、すでに失われた文化である出版物その他を保存する「私設図書館」である。
チンゼイの耳に入ってきたうわさの出どころである図書館は、私設図書館が舞台だ。
その私設図書館では「偽書」が書架に並んでいるという。
俗に言う「偽書」は正式な出版物ではない。
それは「異端書」とも呼ばれ、智を揺るがすことを目的とした書籍である。
うわさの私設図書館に本当に偽書があるのか。
大学生のチンゼイは、大学の課題のための調査としてその私設図書館を訪ねた。
◆
「チンゼイさん? ああ、電話をいただいた方ですね」
チンゼイを迎えたのは三十絡みの男性だった。毛髪はすでに薄くなっているが綺麗に整えられている。スラックスにワイシャツという出で立ちで、なるほど、図書館司書らしいかもしれない。
私設図書館は「ナカガワ図書館」という名称である。住宅街の中にある古い一軒家がそれだ。民家を改装したというよりは民家をそのまま図書館とした構造だった。
「チンゼイと申します。今日はよろしくお願いいたします」
頭を下げるチンゼイに司書であり館長でもあるマツモトは丁寧に応じた。
「そんなにかしこまらないでください。なんでも、インタビューをしたいとか? お答えできることなら、お答えします」
どうぞこちらへ、と案内された先は飲食のためのスペースのようで、明らかに昔は居間として使われていた部屋だった。食器棚がそのまま残されていて、そのくたびれた風合いは変に生活感があった。
椅子に腰掛けたチンゼイの前に紅茶の注がれたティーカップを置き、自分にはコーヒーを用意してマツモトはチンゼイの向かい席に腰を下ろした。
「それで、チンゼイさんはどのようなことをお聞きになりたいのですか? 大抵の質問にはメールでお答えしましたが、どうしても直接、質問なさりたいことがあるとのことでしたが」
はい、とチンゼイは応じ、単刀直入に切り出した。
「偽書に興味がありまして、ぜひ、お話を聞ければと」
偽書、とマツモトが小さく呟く。そのマツモトをチンゼイは少しの変化も見逃さないようにじっと観察した。
マグカップを手にして一口、コーヒーを飲んでからマツモトは動揺したようでもなく答える。
「偽書というものの定義をチンゼイさんはどう理解していますか?」
話に乗ってきたことに、マツモトは素早く思考を巡らせた。
「国会図書館に収蔵されている膨大な書籍、莫大な知識を歪めるものだと認識しています」
それは世間一般での認識そのままだった。
国会図書館の蔵書の全電子化とアクセスフリーは社会に大きな影響を与えた。
ネットにアクセスできるものならば(もはやネットにアクセスできない人間は絶滅危惧種だが)、知りたいことに容易にたどり着くことができる。
国会図書館にアクセスし、「サーチャー」とも呼ばれる電子司書に要請すれば欲しい情報が欲しいだけ手に入る。しかも人工知能のサポートを受ければ電子化された書籍を読み通さずに、内容の要点だけをピックアップしてもらうこともできるし、いくつもの書籍の情報を照らし合わせることも可能だ。
その上、人工知能の手が加わることで「正しい知識」と「間違った知識」は整えられており、常に「正しい知識」がアップデートされ続けている。同時に過去に信じられた誤りも「誤りだが信じられたことがある」という文脈で残されている。
国会図書館とはただ書籍が、知識が積み重ねられている場所ではない。
人類の智が有機的に結びつき、巨大な体系として整理されている美しい多面体の結晶のようなものだった。
その美しい構造物には、歪みはなく、透き通っている。
偽書とは智の結晶に歪みを生み、濁らせるものとされていた。
チンゼイの言葉に、マツモトは小さく頷く。
「世間ではそう言われていますね。偽書を作ることは犯罪とされていますし」
「誤情報の発信は些細なことでも責任を問われますから、当然です」
「では、誤情報とは何でしょうか」
妙な問いかけに、チンゼイはマツモトの目を見た。何を意図しているのか探ろうとしたのだが、マツモトの視線は手元のマグカップへ落ちていて、チンゼイとは視線が合わない。
淡々とマツモトが言葉を続ける。
「例えばチンゼイさん、直木三十五のことは知っていますか?」
「直木三十五、ですか?」
「そう。直木三十五は、その前のペンネームは直木三十三、直樹三十二などがあります。彼は誕生日が来るたびに年齢に合わせてペンネームを変えたわけです。誕生日が来るたび、例えば「直樹三十二」という筆名は古い知識となり、「直樹三十三」という筆名が正しい知識となったりしたと言えます。知識を情報と言い換えてもいいでしょう」
何の話をしているのかチンゼイはわからなかったが、手元で広げたノートにペンを走らせた。私設図書館では電子機器の使用が禁止されていたからだ。
久しぶりに手書きで字を書くせいで、酷い字体になった。あとで解読するのに手間がかかりそうだが、メモを取らないわけにはいかない。
そのチンゼイの様子を察したのか、マツモトは少し間を空けてから話を再開した。
「仮に、直木三十二から直木三十三に改名したその後は、公では「直木三十二」という表記は消えたでしょう。消えたというか、更新されなくなったというか。しかし一般人の中では、まだ直木三十三のことを「直木三十二」という筆名で呼ぶ人はいたでしょう。意図はどうあれ、です。これは誤情報ですか?」
思考が絡まるのを感じながら、チンゼイは最低限の確認をした。
「マツモトさんは、今、一般人の個人的なこだわりの話をされている、ということでしょうか」
「これは、こだわりというより、遊びの話かも知れません」
遊び、とチンゼイはノートにメモして素早く丸で囲んだ。どうやら偽書に関する話ではあるらしい。
「では、遊びで偽書は作られている、ということですか?」
「正確には、偽書をもって国会図書館に遊びを付け加えたいのでしょうね」
ズズッと音を立ててマツモトがコーヒーをすする。チンゼイはその様子を観察したが、マツモトは落ち着いている。
「国会図書館の知識はガチガチに固まっていて、余裕がない。人間が情報を疑う余地がないのです。一冊の書籍を読んだ時の、この本に書かれていることは正しいのだろうか、他の人はどのように解釈しているのだろうか、違う意見はないのだろうか、というような思考が生じえない。理解できますか?」
問いかけに、チンゼイは答えることができなかった。
考えたこともなかった。国会図書館にアクセスすれば整った情報が出力されるのだから、その情報が疑う理由がない。
そう、マツモトは余地がないと表現したが、理由がない、道理がないのだ。
「マツモトさんは、国会図書館を信じておられない?」
「今の若い人は国会図書館の知識を疑う立場の人を「恥識人」と呼ぶんでしたね。私もそうかもしれません」
「いえ、私はそういう表現は好きではありませんが、しかし、国会図書館を疑うということはあまり、その、合理的とは思えません」
そのチンゼイの指摘に、マツモトは困ったような笑顔になった。
「あなたは正直な方のようですね。合理性など、知識にはありません。本来、人間は自分が信じたいことを信じてきました。同じ情報に触れたとしても、みな、自分の好きなように解釈し、自分の好きなように情報を歪めて理解とも誤解ともつかない飲み込み方で満足していたのです」
「それでは正しい判断ができないのではないですか? 例えば、進化論を否定するような誤りがまかり通ってしまいます」
「では、チンゼイさんにとっての「正しい」は何が決めているのですか? 正しい知識だけがあれば、正しい行動を選べますか? 間違った情報が提示された時、それを選択することは絶対にないと言い切れますか?」
チンゼイがノートに走らせるペンの先では、いっそう崩れた字体が生み出されていく。
ペンが止まるまでマツモトは口を閉じており、チンゼイは浮かび上がってきた疑問をそのまま彼に向けた。
「マツモトさんは、何が必要だとお考えですか? その、「正しい」を決めるために」
「考えることです」
即答だった。そして強い、断定する口調だった。
やや怯みながらもチンゼイは問いを重ねた。
知りたい、と思ったからだ。マツモトの言葉の「正しい」解釈を。
「考えることというのは、具体的にはどのようなものでしょうか?」
そう質問を向けたチンゼイに、マツモトはにっこりと笑った。楽しそうで、嬉しそうな笑い方だ。
「その問いかけを相手に向けずに自分の中で検討することを「考える」と呼びます。誰かが正解を与えてくれるのは普通ではない。誰かが間違いだと指摘してくれるのもまた、当たり前ではないのです」
チンゼイはもう一度、ペンを走らせてから、しばしの間、手元のノートに視線を落として考えてみた。
まさに考えた。
物事や道理が正しいかどうかは、大抵の場合は誰かが示してくれる。
例えば幼少期は家庭では両親にあれこれと注意され、怒られて多くを学ぶ。幼稚園や小学校でも集団行動の基礎を教え込まれる中で、勝手な行動をとったり何か間違ったことをすれば教師に叱られるのは今も昔も変わらない。
ただ、どこかの段階からは、誰もが自分で考えるようになる。
自分で何かしらを決めるときに、考えない人間はいないだろう。何が正解かわからないこともあるし、正解だとわかっていても確信が持てない時もある。
そうやって考えることと同じことを、「正解」として提示されている情報を前にしてもせよ、とマツモトは言いたいのだろうか。
ノートから目をあげたチンゼイは、ゆったりとこちらを見ているマツモトと視線を合わせた。その泰然自若とした態度には圧力に似たものを感じたが、チンゼイは負けなかった。
「偽書はある種の教材ということで正しいでしょうか」
「教材? 誰かにとってはそうかもしれませんね。ただ、偽書を作っているものは起爆剤とでも思っているかもしれませんが」
話題が唐突に核心そのものに触れたので、チンゼイは無意識に身を強張らせていた。対するマツモトはゆったりとしてマグカップを口元へ運んでいる。
質問するチンゼイは、手のひらに汗を感じた。
ここに来た目的は「偽書」について知るためだが、もう一つの目的として「偽書」の出どころを知るというものがあった。
「マツモトさんは、偽書を作っているものをご存知なのですか?」
今までより平板な声になってしまったチンゼイに、果たしてマツモトは気づかなかったのか。
「それも図書館の充実のためです」
簡単に肯定されたチンゼイは、手元のペンを走らせるのを忘れた。
マツモトはのんびりと語る。
「私が管理しているのは私設図書館です。国会図書館のように人工知能による検閲は発生しないんです。正しいことも間違ったことも、ごちゃまぜで書架に並んでいるのです。ここに足を運ぶ方は正しい知識を最適化された効率で知りたいわけではありません。ここに存在するのは正しい知識ではなく、学ぶ楽しみなのです」
慌ててチンゼイはノートに「正しさ」と書いて二本線を引いて消し、「学ぶ楽しみ」と書いたところを四角で囲った。
「チンゼイさんは偽書に興味がおありとのことですが、どこに興味をお持ちなのですか?」
マツモトの側からの問いかけに、チンゼイは混乱気味だった頭の中を急いで整理した。
「偽書による国会図書館への挑戦について、調べています。失礼を承知で申し上げますが、この図書館には偽書があるといううわさを耳にしまして。正直に打ち明けなかったことを、今は、恥ずかしいと感じています」
そうですか、とマツモトは少しも不快感や怒り、苛立ちを見せなかった。平静な態度を崩さなかった。
それどころか、チンゼイの意図を汲む姿勢を見せた。
「偽書による国会図書館への挑戦、という表現は意外に的を射ているかもしれません。現場を見てみたいと考えておられるなら、手配しましょうか」
想定外の申し出だった。
しかし、偽書を製造するということは違法行為だ。偽書を製造しているものは犯罪者なのだ。
「何事もなければ問題ないでしょう。どうされますか?」
事の重大さとはチグハグなマツモトの問いかけに、チンゼイは少しだけ黙り、それから答えた。
「よろしくお願いします」
◆
偽書製造の現場は意外にも身近にあった。
住宅街に建つ元は何かの工場だったらしい建物で、外からは廃墟にしか見えない。
しかしその地下には印刷機や製本機が並び、数人が作業をしていた。
マツモトは自分の名刺の裏にこのアジトの住所を手書きで書いた、それが紹介状だった。
この名刺を見せれば入れてもらえるとマツモトが言い出した時、どこかの古い映画のようだとチンゼイは思ったものだ。
だが、地下の光景こそ映画から抜け出てきたようなものだった。
部屋の隅の方にダンボール箱が積まれていて、その箱にはリンゴのイラストが描かれていた。偽装なのか、それとも単にリンゴを出荷する時に使う箱を流用しているかはチンゼイには知る術がない。
この現場を仕切っているという初老のハヤセという男はチンゼイを案内しながら、目の前で箱を開いて見せた。
中には本がぎっしりと詰まっている。紙の本だ。
「三十年前に刊行されたように見せかけたノンフィクションだよ。所々に史実と食い違う部分がある」
嬉しそうな顔のハヤセはその箱を閉じ、隣の箱を指さした。
「そっちの中にもやっぱり三十年くらい前に刊行されたようにしか見えない本が入っているが、内容は全く別だ。でも、史実と食い違う部分は同じになっている。意味がわかるかな」
ええ、とチンゼイは恐る恐る頷いた。
「史実と違う情報をいくつもの例で示すことで、史実を書き換えるんですね?」
ハヤセが短く声を上げて笑ったのでチンゼイはいっそう萎縮した。ハヤセはそれに構わない。
「史実を書き換えることはできんよ。それにそれは本意ではない。国会図書館のクソ電子司書を混乱させることが目的さ。そうすれば利用者は自力で調べようとし始める。思考の復活だ」
こちらへ来い、と身振りをしてからハヤセが歩き出すのでチンゼイはそれについていった。
自分が今、本物の犯罪者と話をして、本当の犯罪の現場にいるとは信じられなかった。
マツモトがアジトの情報を教えてくれた時でさえ、ここまでは想像していなかった。拒絶される可能性が高かったし、もっと殺伐としたものを思い描いていた。
ハヤセが愉快げに説明を始めたが、雑談の口調だ。
「俺たちは印刷機のことを印刷を殺すで「印殺機」と呼ぶし、製本機のことは本を征するで「征本機」と呼ぶんだ。理由は想像がつくかな?」
「いえ、まったく……」
「言葉遊びでもあるが、それよりも、そうやってアイデンティティを獲得しようという意図がある。俺たちが作っているのはただの本ではなく偽書なんだからな。偽書を作るのは印刷機でも製本機でもないということだ」
一方的に言うハヤセは作業場の隣にある小部屋に入った。見た目は喫煙室に見えたがタバコの匂いはしない。小さなテーブルとソファ、冷蔵庫があった。
小部屋に入ったことで、地下には何か嗅ぎ慣れない匂いがしていたことにチンゼイは気付いた。
どこかで感じた匂いでも、いつ、どこで嗅いだ匂いかが思い出せない。記憶のかなり深いところにあるようだった。
冷蔵庫からハヤセが缶のコーラを取り出して手渡してくれる。今時、缶のコーラなどどこで売っているのだろう。手の中のコーラはよく冷えていて、手にしただけでも爽快感があった。
立ったままで缶をぐっと傾けてから、ハヤセが大きく息をつくと話し始めた。
「国会図書館のおかげで印刷業もすっかり変わっちまった。もともと印刷業なんていうのは斜陽だったが、今やほとんど仕事はない」
「ハヤセさんはもともとは印刷業者だったのですか?」
とっさの質問にハヤセが笑みを浮かべる。
「祖父の代からそうだった。しかし俺の代で廃業して、今はこの有様だ」
「ここでは、その、偽書を印刷して儲けが出るのですか?」
「依頼料が入ってくるのと、どこかの私設図書館が買ってくれれば収入はあるな。しかし微々たるものだ。印刷業は崩壊して、出版社だって今じゃただの作家のマネージメント会社だ。印税なんてものも消滅してるのに、閲覧税を「引用税」、略して「引税」とか言っているんだから世も末だ」
閲覧税とは、国会図書館が蔵書の閲覧数に応じて出版社や作家に支払う報酬のことだった。
もはや紙で書籍を出版する場面が存在しないために、出版社も作家も閲覧税で活動している。
コーラを飲み干したハヤセが空き缶を部屋の隅のカゴへ投げ込み、くたびれたソファにどっかと腰を下ろした。そしてまだ立ったままのチンゼイを見上げてくる。
「それで、何が聞きたい? マツモトさんの紹介だからある程度は答える。あんたが下手なところであれこれぶちまけたりすれば、よからぬことも起こるかもしれないが」
よからぬこと、が何を意味するのかはチンゼイは考えないことにした。
何を質問すればいいかは、事前に幾通りも考えてあった。
ただ、そのほとんどがこの偽書製造の現場を見てしまうと無意味と悟った。
質問の一つとして、偽書を製造することに罪悪感はないのか、というものもあったが、現場を見れば彼らに罪悪感がないのはわかる。憎悪や反発はなく、見て取れるのはある種の「使命感」だと感じた。
この使命感はハヤセからも強く感じる。
彼らはそびえ立つ智の塔、あるいは堅牢な智の城壁である国会図書館を相手に、挑戦しているのだ。
人間の知識というものが何であるか、という疑問を今もぶつけ続けているのである。
「お聞きしたいことは、あります」
何でも聞いてくれ、とハヤセはゆっくりと足を組んでからチンゼイを睨め上げるように見た。
「国会図書館にはどのような問題があると思いますか?」
この問いかけは、ハヤセにとってはやや予想外だったようだ。表情でそれがわかる。きっとチンゼイが犯罪行為についての質問をするとハヤセの方でも想定していたのだろう。
ハヤセはしばらく何もない中空を睨んでから、答えを口にした。
「国会図書館はあまりにも整いすぎているな。集積された知識が膨大すぎる上に、人工知能がそれを徹底的に管理した結果、人間がそれまで行ってきた何かが永遠に失われた」
チンゼイは素早くメモを取り出し、ペンを走らせた。ハヤセはチラッと視線を送り、話を続けた。
「昔は、人間は図書館で何冊もの本を借り、それをひたすら読んだものだ。それ以前に本を探すために遠くまで移動しなくちゃいけなかったくらいだ。それに本を読むという行為は、自分に傾向を与える意味もあった。ある種の思想というべきか、そういうものが読書の中から形成された。もちろん読書に限らず、いろいろなメディアにおいて思想の形成は行われただろう。だが、今の国会図書館はそれとは違う」
「マツモトさんもそのようなことをおっしゃっていました。国会図書館には遊びがないと表現されていましたが。あとは、理解と誤解の話もされていました」
そうか、と低く言葉にしてハヤセが頷く。
「国会図書館は、正解を理路整然と論理立って示すシステムが構築されている。人間は常に正解を、真実を探そうとするものだが、現実の世界はもっと複雑で正しいことと間違ったことが絡まり合って渾然一体としている。書籍もそういうものが大半だ。特に思想のようなものは正しかったのか、間違っていたのか、長い時間が過ぎないと判明しないどころか、間違いとされたものが再評価されることもある。いや、再評価ではないな、ただ再来する、という感じか。独裁者は否定されたはずなのに、百年も経たずにまた独裁者が現れるようなものだ。いずれにせよ、国会図書館というシステムが、人間には全てを知ることのできないほど巨大な情報の中から正解を導き出すシステムになった時、それはもはや図書館としての役割を捨てた。俺はそう思っている」
「ですが」
チンゼイの言葉にハヤセは顔を上げる。語調に含まれた意志に反応したようだった。
「ここで偽書を作ることで、そのシステムに影響を与えることはできるでしょうか」
「無理だ」
即答に、チンゼイは驚かなかった。半ば、予想できた答えだからだ。
問題は、国会図書館にダメージを与えられないと知っていながら、何故この違法行為を続けるのかだ。
誘われるように、ハヤセは語った。
「もはや国会図書館は揺らぐこともない。そういうシステムだ。でもな、やりようがある。戦国時代を想像してみろ」
いきなりの話題の転換に、チンゼイは動かしかけたペンを止めた。ハヤセは饒舌になっていた。
「城を陥す必要がある時、どうするのが都合がいい? 外から攻めるのも手だが、楽に済ますことも出来る。それはな、城の中にいる人間に内通者を作ること、裏切り者を作ることだ。城そのものは頑丈で揺らがないが、中にいる人間の心は簡単に揺らぐし、転がるものだ」
「それは、国会図書館を変えるために、人間の心理を変える、という意味ですか」
そうだな、と言うと勢いをつけてハヤセがソファから立ち上がった。
「いつ達成できるのか、それはわからない。おそらく達成はできまいよ。でもな、大昔から本を作った人間、出版をやった人間は自分たちのやっていることに何らかの変化を起こす力があると信じてやったものさ。俺たちもそうだ。さあ、もう質問はないか? これでも意外に忙しいのでね」
その言葉に「ありがとうございました」と答えるチンゼイに笑みを向けると「本を持っていくか?」とハヤセが言い出した。
地下を出る時、チンゼイはハヤセから一冊の本を受け取った。偽書には違いないが、ハヤセはどこに偽りの情報が埋め込まれているかをチンゼイに伝えなかった。
駅前まで戻って、ファストフード店に入ってからチンゼイは受け取った本を広げて観察した。
古びていてこれがつい最近に作られたものだとは思えない。三十年前のもののような擦り切れと日焼けが再現されている。匂いさえもどこか埃っぽかった。
遠くでサイレンが鳴り始めたのは内容に目を通そうとしたその時だった。
ファストフード店の店内からは見通しが悪く、外の様子は伺えない。だが、サイレンが鳴り止まないどころか増えていくことに気づき、落ち着かない気持ちになった。
携帯端末を取り出して情報を検索していくうちに、自分がいるすぐそばで火災が起きていることに気づいた。
住宅街の中の、廃工場だ。
チンゼイはハヤセのことを思った。自然、汗が滲み、呼吸が苦しくなった。
チンゼイは足早にファストフード店を出ると逃げるように駅へ直行した。
カバンの中には灰になることを免れた偽書が入っており、その重みは本来の重さの何倍にも感じられた。
◆
○月□日十六時頃、△△市の住宅街にある工場跡地において火災が発生した。今は使われていない工場一棟が全焼し、出火から三時間後に消し止められた。
工場跡地において違法出版物の製造が行われているとの通報があり、現場に向かった警官と工場跡地にいた数名が押し問答をしている最中に建物から出火したという。
火の勢いは激しく何らかの燃料が使用された疑いがあり、火元は最も激しく燃えている地下だと消防は見ている。
この火事で身元不明の遺体が地下から複数発見され、身元の確認が進められている。
なお、違法出版物に関して警察からの発表はまだなされていない。
◆
チンゼイは偽書に関する内容のレポートを講義を担当する准教授に提出した。
彼なり調べ、考えて書いた内容だったが成績判定の結果はB、かろうじて単位を認定されるという評価だった。
地下の印刷所、いや、印殺所で手に入れた偽書はチンゼイの手元にある。
彼にはまだその中に含まれた嘘が見出せていない。
調べるべき情報は膨大で、答えを知る人間はもういなかった。
チンゼイが自力で調べるしかない。
かつて、知識を持つ人間が今に至るまでに経てきた道を、またチンゼイも辿っていくのだ。
誰からも与えられることのない智への道が、チンゼイの前に開かれていた。
(了)
知を焼く 和泉茉樹 @idumimaki
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