第32話 帝都の暗闘、ソウルの血路、蠢く聖剣、深海の証言者
横須賀軍港に帰投した南雲譲二陸将補は、内閣情報調査室直属の特殊作戦部隊「黒曜」による厳重な護衛(あるいは監視)のもと、帝都・東京の長谷川長官執務室へと直行させられた。択捉島での過酷な任務と、多くの部下を失ったことへの悲痛な思い、そして榊原三佐の安否も不明な状況が、彼の心を重く圧し潰していた。だが、今は感傷に浸っている暇はない。長谷川との対決が、目前に迫っていた。
「南雲君、無事の帰還、何よりだ。君の勇気と、そして『黒曜』の働きにより、択捉島の貴重な情報を得ることができた。感謝する」
長谷川は、いつものように柔和な笑みを浮かべて南雲を迎えたが、その瞳の奥には、全てを見透かすような冷たい光が宿っていた。
「…長官閣下、択捉島のロシア軍の戦力は、我々の想定を遥かに上回るものでした。この状況で『北極星作戦』を強行すれば、我が帝国軍は壊滅的な打撃を受け、国家の存亡に関わる事態となりかねません。作戦の即時中止を、具申いたします!」
南雲は、長谷川の目を真っ直ぐに見据え、決然と言い放った。
長谷川は、南雲の言葉を黙って聞いていたが、やがて静かに口を開いた。
「君の報告は、確かに重要だ。だが、物事には、君が見ている側面だけではない、様々な側面があるのだよ、南雲君。例えば…君がスイスで接触した『友人たち』は、君に何を囁いたのかな? そして、君が択捉島の混乱に乗じて『紛失』したと報告してきた、スイスからの『お土産』…あれは本当にただのガラクタだったのかね? あるいは、択捉島では、何か別の、我々が知らない『発見』でもあったのかな?」
長谷川の言葉は、南雲の心臓を鷲掴みにするような、鋭いものだった。やはり、彼は全てを知っている。択捉島からの「救出」も、スイスでの接触も、全てが彼の仕掛けた罠だったのだ。
「…私が何をしようと、この国を破滅から救うためです。長官閣下、あなたは…一体何が目的なのですか? アメリカやロシアと裏で手を結び、この国をどこへ導こうというのですか!?」
南雲は、もはや感情を抑えきれず、長谷川に詰め寄った。
長谷川は、ゆっくりと立ち上がり、窓の外に広がる帝都の風景を眺めながら、冷ややかに言った。
「目的かね? それは、この腐りきった世界に、新たな『秩序』を打ち立てることだよ。そのためには、旧い殻を破り、新たな『指導者』を戴く必要がある。一之瀬君では、その器ではない。そして、君には、その新たな時代の先駆けとなってもらうつもりだったのだが…どうやら、君は少々、理想に走りすぎているようだね」
長谷川は、そう言うと、執務室の隅に控えていた「黒曜」の隊員たちに目で合図した。数人の隊員が、音もなく南雲を取り囲む。
「南雲君、君にはしばらく『休養』してもらう必要があるようだ。帝国の未来のため、そして…君自身の命のためにもね」
南雲は、絶望的な状況を悟った。だが、彼は諦めなかった。
「長谷川…! お前の思い通りにはさせんぞ…! 必ず、お前の陰謀を暴き、そして…!」
南雲が最後の抵抗を試みようとしたその時、執務室のドアが乱暴に開かれ、国家保安局の制服を着た氷川長官が、部下を引き連れて踏み込んできた。
「長谷川君、少々騒がしいようだが、一体何事かね? 南雲将補は、我が国の英雄ではないか。彼に無礼な振る舞いは許さんぞ」
氷川の突然の登場に、長谷川も、そして南雲も驚きを隠せなかった。氷川は、長谷川と裏で手を結んでいたはずではなかったのか?
帝都の権力中枢で、新たな暗闘の火蓋が切られようとしていた。
韓国、ソウル。高級ホテル。
天城航太郎とソフィー・ルグランは、「秘密会議」の会場に不正情報を暴露した後、ホテルの警備員や各国の諜報員と思われる男たちとの壮絶な銃撃戦を繰り広げながら、決死の脱出を試みていた。ソフィーの卓越した戦闘能力と、天城の機転、そして事前に準備していた複数の逃走ルートが功を奏し、彼らは辛うじてホテルの包囲網を突破することに成功した。
だが、ソウル市内には、既に彼らに対する非常線が張られており、街中が敵だらけという状況だった。
「コウタロウ、このままではジリ貧よ! 何とかして、この国から脱出しなければ…!」
ソフィーは、息を切らしながら、廃ビルの一室で天城に言った。
天城は、パク・ミンジュンから託されたデータチップの解析で得た、ある情報を思い出していた。それは、長谷川の秘密資金ルートの一つが、仁川(インチョン)港から出航する、ある貨物船を経由しているというものだった。その貨物船は、表向きは古紙を運ぶリサイクル船だが、裏では武器や麻薬の密輸にも使われているという。
「ソフィー、仁川港だ。そこに、俺たちを乗せてくれるかもしれない『船』があるはずだ。ファルコンが言っていた、『狼になれ』という言葉の意味が、少し分かってきた気がする。俺たちは、奴らの闇のルートを逆手に取って、この国から脱出するんだ」
天城の目には、新たな決意の光が宿っていた。彼らは、ソウルの裏社会に潜む協力者の助けを借り、最後の賭けとも言える仁川港への脱出を開始した。その背後には、国家保安局や各国の諜報機関の、執拗な追跡が迫っていた。
日本国内、某所の藤堂たちの潜伏先。
藤堂は、国家保安局長官の氷川との間で、「汚れた聖剣」の譲渡と、自らの組織への支援を取り付ける密約を、正式に締結した。氷川は、その見返りとして、藤堂たちの「指導者」を、近々、一之瀬宰相に代わる新たな「帝国の顔」として擁立するための、具体的な工作を開始することを約束した。
「…藤堂君、君たちの『指導者』は、いつになったら我々の前に姿を現すのかね? 我々も、そろそろその『御尊顔』を拝し、直接お話を伺いたいものだが」
氷川の問いに、藤堂は初めて、わずかな動揺を見せた。
「…間もなくです。その時は、必ずや長官閣下にご連絡いたします。それまでは、どうか我々を信じて、お待ちいただきたい」
藤堂の言葉の裏には、彼自身も「指導者」の全貌を完全には把握しておらず、何らかの指示を待っているだけなのではないかという、奇妙なニュアンスが感じられた。
一方、別の部屋で依然として軟禁状態にある蓮見志織は、藤堂から「汚れた聖剣」の再調整――つまり、不完全な核物質から、限定的ながらも兵器として使用可能な「ダーティボム」のようなものを再生する作業――を強要されていた。
彼女は、表向きは協力するふりをしながら、密かに、その作業工程の中に、さらなるサボタージュを仕込む機会を窺っていた。彼女が外部へ発信しようとしたSOS信号は、依然として誰にも届いていないようだったが、彼女は諦めていなかった。
(この悪魔の兵器を、絶対に完成させてはならない…! たとえ、この命と引き換えになったとしても…!)
蓮見の瞳には、絶望の中にも消えない、科学者としての最後の良心と、人間としての尊厳を守ろうとする、悲壮な決意の光が宿っていた。彼女の孤独な戦いは、まだ終わってはいなかった。
台湾東方沖。「雷鳴」艦内。
相馬圭吾大尉は、ハイジャックされた「剣龍」から救出した、風間武蔵少佐の尋問を行っていた。風間は、拷問こそ受けていなかったものの、長期間の監禁と、ハイジャック犯との艦内での戦闘で、心身ともに疲弊しきっていた。
「風間少佐、一体何があったのですか? なぜ、あなたは『剣龍』に? そして、あのハイジャック犯たちは、一体何者なのですか?」
相馬の問いに、風間は重い口を開いた。
「…俺は、北朝鮮での任務の後、ある『組織』に拘束され、その後、何者かの手引きで『剣龍』に乗せられた。その『組織』は、帝国の中枢に深く食い込み、そして…アメリカやロシアとも繋がっている、恐るべき陰謀組織だ。彼らは、『剣龍』に搭載された新型のSLBMを狙っていたようだ。そして、その過程で艦の制御を奪い、乗組員を人質に取った」
「では、彼らが南雲閣下を狙っていたという情報は…? 閣下もこの艦に…?」
「いや、南雲閣下は、この艦には乗っていなかったはずだ。だが、奴らが閣下の名前を口にしていたのは確かだ。おそらく、閣下を何らかの形で利用しようとしていたか、あるいは閣下の行動を把握した上で、このSLBMを奪取する計画だったのだろう。そして、『剣龍』をハイジャックしたのは、その『組織』の内部で分裂した、別の派閥の連中だ。彼らは、SLBMを奪い、帝国を脅迫することで、組織の主導権を握ろうとしていた…まさに、泥沼の内ゲバだ」
風間の言葉は、相馬にとって衝撃的なものだった。帝国の最新鋭原潜が、そのような内部抗争の舞台となっていたというのか。
「『剣龍』の艦長や生き残った乗組員たちは、必死に抵抗し、艦の制御を取り戻そうとしていた。俺も微力ながら加勢したが…奴らの数は多く、装備も最新のものだった。EMP攻撃がなければ、我々は全滅していただろう。感謝する、相馬大尉」
風間の瞳には、深い感謝の色が浮かんでいた。
「…少佐、その『組織』とは…一体…?」
風間は、一瞬、言葉を詰まらせたが、やがて決然とした表情で言った。
「…『黒龍会』…それが、奴らの古い呼び名だ。そして、その背後には…おそらく、長谷川長官がいる」
「黒龍会」――それは、かつて日本の大陸進出を裏で操ったとされる、伝説的な右翼秘密結社。それが、現代に蘇り、しかも帝国の中枢を蝕んでいるというのか。
相馬は、自分が想像を絶する巨大な闇の、ほんの一端に触れてしまったことを悟った。「雷鳴」は、ただの潜水艦ではなく、帝国の運命を左右する、危険な秘密を抱えた船となってしまったのだ。彼は、風間と共に、この深海の底から、帝国の闇に立ち向かう決意を固め始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます