第8話 憧れの影
しんしんと雪が降り頻り、伽耶の中庭はすっかり様相を変えていた。秋には伽耶が草花を愛でていたその場所も、いま白く高い雪に覆われ、その場所さえもわからなくなっていた。
伽耶の書房では、ぱち、ぱち、と火鉢の炭が小さく音を立てていたが、その静けさをかき消すように、部屋の中には賑やかな声が満ちていた。
「それでさ、俺言ってやったんですよ、俺が生意気なんじゃなくて、そっちが頭でっかちなんじゃないんすか?って」
騒ぎの中心にいるのは蒼煌辰。
秋の武芸祭事以来、何かと理由をつけては伽耶の書房に出入りするようになり、もはや常連と言って差し支えない。
だが今日は、さらにもうひとり――
華蘭の登場により、書房の空気は一層にぎやかだった。
「そのあとがひどかったのよ!軍団長ったら真っ赤になって!場をおさめるの大変だったんだから!」
腕を組んで怒ったような顔を作り、華蘭は伽耶の方をむいた。
伽耶は2人の話にくすくす笑い、とても楽しそうだ。対照的に誠は眉を寄せて煌辰をじとっと見つめていた。
腕を組んで怒ったように言いながらも、口調にはどこか楽しげな響きがある。
伽耶はくすくすと笑い、とても楽しそうだった。
対照的に、誠はというと――
「そんなことを師匠に聞かれたらどうするつもりですか、蒼煌辰」
静かに、しかしじとっとした視線を煌辰に向けていた。
「そのときはそのときだな。俺はもう終わりだと思う」
「……巻き添えにしないでくださいね」
「おいおい、そんなこというなよ、寂しいだろ誠ちゃん!」
煌辰はけらけらと笑いながら頭の後ろで腕を組む。
その様子に、伽耶が思いついたように声を上げた。
「そういえば、あなたたちって“武芸の同門”なんでしょう? 師匠って、どんな方なの?」
――その言葉に、誠の肩が、ぴくりと小さく揺れた。
「師匠は……超こえぇ。あれはもう、熊だな。冬眠明けの熊。すぐ手が出るし、超短気。でも――とんでもなく強いんすよ。片足、義足なんだぜ?それでも俺、一度も勝てたことがない」
煌辰は顎に手を当て、しみじみと頷く。
「伽耶、あなたも名前くらいは聞いたことがあるんじゃない? 崇高(すう こう)殿は、昔、父様と共に戦っていたわ。“鬼神崇高”って、呼ばれてたのよ」
華蘭がさらりと補足する。
煌辰と華蘭の話に、伽耶の瞳はみるみる輝きを増していく。
「お父様と……?」
「ええ。父様は今でも、崇高殿とはよく酒を酌み交わしてる。ずっと信頼してるのよ」
その言葉に、がたん――と、伽耶が勢いよく立ち上がる。
「崇高殿、会ってみた――」
「いけません、姫様」
すぐ背後から、静かだが有無を言わせぬ声音。
気づけば誠が伽耶の背後に回っており、肩にそっと手を添えて、座らせるように押し下ろしていた。
「こちらが姫様の今月の学習計画表です。ご覧ください。最近、邪魔な来客が増えたせいで、予定よりも大幅に遅れております」
「……俺のこと?」
「あなた以外に、誰がいるんですか、蒼煌辰」
ぴしゃりと、いつになく早口な誠。
「さあ、本日の分を進めましょう。くれぐれも、師匠に会いたいなどと――」
そのときだった。
「おいっ、蒼煌辰はここかーっ!!」
まるで砲声のような声とともに、書房の扉が勢いよく開かれた。
一同の背筋が、びくりと跳ねる。
そこに立っていたのは――
顔中を髭に覆い、大柄で筋肉隆々。片足は義足という、ただならぬ風貌の男だった。
その姿を確認した途端、煌辰は「やべっ」と呟いて机の陰へひらりと身を隠し、誠はびくりと身体を強張らせて立ち尽くす。
男は部屋にずかずかと入り込むと、キョロキョロと中を見渡しながら、明らかに煌辰を捜していた。
その後ろから、すんと澄ました顔の芳蘭が姿を見せる。
「……あ、あの……」
伽耶がおずおずと声をかけると――
男の目が机の陰に向けられた。
「この、バカモンがァァ!!」
突然、怒声とともに拳が振り下ろされる。
ゴツン!!と、書房に鈍い音が響いた。
「いってえぇぇぇ……!!」
煌辰が情けない声を上げ、頭を抱える。
男はそのまま、ぴくりとも動けずにいた誠へ視線を向け、次の瞬間にはズカズカと歩み寄り――再び拳を振り下ろした!
「なっ、なぜわたしまで……!?」
誠も慌ててしゃがみ込み、頭を抱える。
「お前も同罪じゃ!こんな厄介者、さっさと追い出さんか!」
ずしんと響く怒鳴り声の中、誠が小さく呟く。
「……理不尽だ……」
「ホレッ! さっさと戻るぞ!! 今日という今日は、しごき抜いてやる!!」
男は蹲ったままの煌辰の首根っこをがしっと掴み、ずるずると引きずっていく。
あまりの迫力に動けずにいた伽耶だったが、ようやくはっと我に返り、おずおずと声をかけた。
「あ、あの……あなたはもしかして、崇高殿ですか?」
その声に、初めて気づいたかのように男――崇高は、伽耶の方を振り返った。
その目が、ふと見開かれる。
ドサッと音がして、煌辰がその手から落ちた。
「……玲珠(れいじゅ)様……」
ぽつりと、崇高がつぶやく。
それは、伽耶の亡き母の名だった。
崇高は、まじまじと伽耶を見つめ――
だが次の瞬間、首を振ってその思いを打ち消す。
「……いや、そんな訳ねぇな。玲珠様は、もう亡くなられたんだ……ということは、あんたが伽耶様、ですかな?」
伽耶は静かに、こくんと頷いた。
「やはり、そうでしたか。よう似ておられる。玲珠様に……」
崇高は再び、じっと伽耶の顔を見つめた。
伽耶は、どこか居心地の悪さを覚え、ピシッと背筋を伸ばす。
そして崇高の視線が、隣に座る華蘭へと動いた。
「おおっ、華蘭様までおられたか。……む? ここは……?」
急にきょろきょろと辺りを見回す崇高に、芳蘭がため息をついて一言。
「ご説明しましたでしょう、崇高殿。ここは伽耶様の御書房です」
「む、そうだったか!? 芳蘭!」
「そうです。蒼煌辰様が度々いらっしゃるので、あなたにお越しいただいたのですよ」
そう言われた途端、煌辰の顔が引きつる。
「……こえぇ人が呼んだのかよぉ……」
その情けない声が終わらぬうちに――
「誰が“こえぇ人”だッ!!」
ドゴォッ!
容赦なく拳が振り下ろされた。
「いってぇぇぇぇ〜〜っ!!」
煌辰がうずくまり、頭を抱える。
「お主、舐めた口をききおって……!」
「ちが、師匠のことじゃ……いや、師匠もこえぇけど……!」
情けなく呻く煌辰の姿を見て、伽耶がふと横を向くと――
そこには、そっぽを向き、口元を押さえて震えている誠の姿があった。
「まったく。伽耶様、ご存知かもしれんが、わしは崇高だ。そこの悪ガキどもの剣の指導をやっとる。」
崇高は大きな手で、伽耶の頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でた。
「うちの悪ガキがご迷惑かけたな。また厄介事があったら、すぐ呼んでくれ」
そういうと、煌辰の首元を再び掴み、引きずり始めた。煌辰は情けない声をあげた。
「あ、あのっ…崇高殿!少し、お茶していかれませんかっ」
伽耶が意を決してそういうと、隣の誠がヒュッと息を吸う音が聞こえた。
「む?お茶?」
「はいっ…あの、お母様の話を、もっと聞かせていただきたくて!」
伽耶は両手をぎゅっと握りしめ、真っ直ぐ崇高の瞳を見つめた。
崇高は呆気に取られたように伽耶を見つめていたが、やがてふっと笑みを浮かべると、どかっと椅子に腰を下ろした。
「わしは茶は好かん。これを飲ませてもらうぞ。」
そういうと、ニッと歯を見せてどこから取り出したのか、酒瓶をゆすった。
「全く…!姫様方の前でそのような…!」
芳蘭が呆れたように腕を組むが、崇高はぐいっと酒瓶に口をつける。
「なんだなんだ、景仁様に言いつけるつもりか? 芳蘭」
「…あなたが誰に何を言われても聞かないのはわかっています。」
芳蘭がため息をつくと、それまでことの成り行きをじっと見つめていた華蘭が口を開く。
「あなた達、どう見ても“はじめまして”じゃないわよね?」
華蘭の問いに、芳蘭は小さく咳払いをして答える。
「私は、玲珠様付きの女官だったのです。崇高殿とはその時の縁です。」
「玲珠様はわしらの憧れだったからな!芳蘭にも色々世話になったって訳だ」
崇高はぐい、と酒を煽り、豪快に笑う。
伽耶はちらりと誠を見た。珍しく、その表情がどこか落ち着かない。
「母様が憧れってどう言うこと?」
「そりゃあ美しかったからな。それに前向きで努力家で、聡明でもあった。女官出身だってのに、舞だって天女のようだったぞ」
崇高は再びぐいっと酒を煽ると、ふっと遠くを見らような目になった。
「女官出身?!お母様は女官出身だったのですか?!」
伽耶は崇高の言葉に驚きがたんと立ち上がった。
崇高はそんな伽耶の様子に目を丸くし、酒を飲むと大きく頷いた。
「そうだ。だから景仁様に娶られた時は悔しかったもんだ。今となってはいい思い出だな」
再びぐいっと酒瓶を傾ける崇高。その足元で、首根っこを掴まれていた煌辰が、小声で「そろそろやめた方が……」と呟く。が、届く様子はない。
「玲珠さまは気高くて凛としていて…
でもな、うちのカミさんのほうが美人だがな!」
崇高がそう言って酒を煽ると、煌辰は
「まずい!」
と言いながら身を捩り始めるが、崇高の力があまりにも強く、びくともしなかった。
「うちのカミさんはな、そりゃあ美人で、気立ても良くて、笑顔もいいんだ!いつも叱られてばかりの俺だが、カミさんと結婚できて本当によかった!」
崇高は突然立ち上がり、その目は完全に据わっていた。
「カミさんの話をしていたら暴れたくなったな!!おい、煌辰、誠!つきあえ!!!」
「うわあああ!師匠!!勘弁してください!奥さんの話するといつもこれだ!!」
抵抗も虚しく煌辰はずるずると引きずられていく。
「残念ながらわたしは伽耶様の御指導がありますので」
誠は伽耶の肩にそっと手を添え、すっと首を振る。
「おい!この裏切り者!!」
煌辰は情けない声をあげながら引きずられていき、そのまま廊下の向こうへと消えていった。
「あの状態の崇高殿ってものすごく強いらしいわ…わたし見てくる!伽耶!またね!」
華蘭も、一定の距離を保ちつつ、興味津々でその後を追っていく。
――とたんに、書房にしん……と静けさが訪れた。
伽耶と誠は、ふと目を合わせる。
「ものすごい方ね、崇高殿って…」
「えぇ…剣の腕は確かなのですが…」
誠は気まずそうに頭をかいた。
伽耶は、ふっと笑みをこぼしながら言った。
「でもわたし、今日崇高殿に会えてよかったわ。お母様のこと、わたし全然しらなかったの。」
「玲珠様は…本当に素晴らしいお方だったのですね」
「そうね、お母様ってあれほどの方に憧れてもらえるくらいなんですものね。
…わたしも、いつかそうなれるかしら」
「――きっと、なれます」
誠はそう言って、伽耶の学びの机を見やりながら続けた。
「そのためにも、さあ……続きに参りましょう」
「ふふっ、ええ」
伽耶は微笑むと、筆を手に取った。
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