第3話 生贄

 体育館で反響する運動部の黄色い声は、小さな噴水の有る中庭にまで届いていた。その噴水前で水川は目的地が分からず、一人キョロキョロしている。


 董正学園には中庭を挟んで校舎が三つ有る。まず南側には職員室や図書室がある南校舎。東側には学園内で一番大きな建物の新校舎。水川達の教室はこの新校舎にある。そして学園内の西側にある旧校舎。少子化で生徒数が減った事もあり、現在この旧校舎は殆ど使われておらず、文化部の部室や倉庫などが主な役割である。それらは新校舎でも賄えるので、老朽化が進んでいる旧校舎は、一年後に取り壊す予定だ。


 水川はそれらの情報を知っていたので、美術部が活動を行なっている美術室は旧校舎の方だと思って放課後向かったのだが、茶道部や軽音楽部などの部室は一階に有ったものの、肝心の美術室は見当たらなかった。それで仕方なく一度中庭に出たのだ。

 時刻は既に夕方の五時。このままでは部員の人達が帰ってしまうと水川は焦っていた。

 顧問の灰汁巻に聞こうと職員室にも行ったが、灰汁巻は席を外していた。人見知りから他の先生に聞く事も躊躇ってしまう。

 もう入部の挨拶は明日にしようと諦めかけた時、旧校舎の三階に窓が開いた教室を見つける。他の三階の教室は全てカーテンが閉まっていたが、其処だけはカーテンが開いているので人が居ると水川は推測した。部室は一階に片寄っていたので、二階、三階には部室が無いと勝手に思い込み、確認しに上がってはいなかった。水川は「美術室は三階に有ったんだ」と判断し、走ってもう一度旧校舎の方へと向かう。

 階段で旧校舎の三階まで一気に上がると、水川は眼前の光景に目を丸くした。其処は一階と違って人気がまるでなく、長い廊下は静まり返っていたのだ。水川は「やっぱり此処には美術室は無いかな」と、考えを戻したのだが、一応駄目元で歩きだす。

 カツンカツンと、水川の足音だけが静粛した廊下に反響する。

 やがて窓が開いていた教室の前までやって来た。しかし、その教室にはプレートが掛かっておらず、しかも廊下側のカーテンは中が見えないよう閉められていた。中から声も聞こえないし、人が居るとは到底思えない。窓が開いていたのは見間違いだったのかなと思ったが、念の為にドアを横にスライドさせてみた。

 動いた。

 すんなりドアは開き、中の様子が水川の目に飛び込んだ。

 複数人座れる工作用机と椅子。無造作に置かれたイーゼルスタンド。画材道具や張りキャンバスが入った棚。その棚の上には石膏でできた数個の胸像。明らかに美術室だ。

 その美術室の真ん中に、イーゼルに乗せられたスケッチブックに絵を描く、長い黒髪の女子学生が一人座っていた。背中を向けているが、そのベージュ色の制服は董正学園の生徒だという事を教えてくれている。

 水川は「やっと見つけた」と安堵のため息を吐き、中の女子学生に声を掛けた。


「あの……美術部の方ですよね? 僕、入部希望の一年なんですが……」


 水川がそう言うと、女子学生はゆっくり振り向いた。その女子学生は、まるで絵画から飛び出して来たのではないかと疑いたく成るぐらい、とても透明感のある美少女だった。水川はその少女に胸を射抜かれたかのように硬直してしまい、次の言葉が出て来ないまま立ち竦んでしまう。


「新一年生? どうぞ。遠慮なさらずに入って」

「は、……はい」


 水川は高鳴る心臓を抑え、中に入るとドアを閉めた。中を見廻したが、どうやら美術室の中には、少女一人しか居ない。噂の動く女子生徒の肖像画も、見える範囲には何処にも見当たらなかった。それどころか壁には風景画一枚掛かっていないのだ。ただのデマだったのかと、少しがっかりしたが、目の前の可愛く両手で手招きする美少女を見てしまっては、そんな事なぞ直ぐに思考の外へと吹き飛んだ。


「はじめまして。美術部部長の藍葉あいば瑠音ルネよ。よろしくね」

「よ、よろしくお願いします。水川大翔です」

「立ってないで座って、座って」


 ルネに促され、水川は対面の形で椅子に座った。改めてルネの顔を見ると、ノーメイクの筈なのに目のライン、鼻筋、唇の色、全てがまるで描いてるかのように、くっきりしている。同じ年代で此処まで妖艶な美少女を見た事がなかった水川は、まともにその大きな黒い瞳を見詰められないでいた。


「水川君。早速なんだけど、今日この後、時間ある?」

「えっ? あ、はい。入部の手続きで何か書かないと、いけないんですか?」

「ううん。違うの。生贄に成って欲しいの」

「生贄?」

「あっ、ごめんなさい。いきなり『生贄』は、びっくりするわよね。生贄はね、アートモデルの事なの」

「モデル?」

「そう。ほら、人物モデルって、クロッキーなら短いけど、通常は長時間同じポーズでいないといけないでしょ。だから、みんなやりたがらないのよ。それで嫌々人物モデルに選ばれちゃった人を、うちの部では『生贄』って言ってるの」

「ああ、成る程。わかりました。いいですよ。僕、生贄やります」

「本当に? 良かったー。とても助かるわー」


 無邪気に喜ぶ姿も可愛かった。ルネは鼻歌を歌いながらエプロンを着け、筆やパレットを用意している。水川は人物モデルなんかした事なかったので緊張感が走り、髪の毛を押さえたり、服を正したりと、急にソワソワしだした。


「リラックスしてね。一時間ほどで終わるから」

「他の部員さんは居ないんですか?」

「うん。今日は私だけ。誰も来ないわ」


 それを聞いて更に緊張感が増した。一時間も綺麗な先輩と美術室で二人きり。頭の中で何故か「百瀬ごめん」と謝ってしまう。


「あっ! ポ、ポーズはどうすれば良いですか?」

「そこで座ったまま、手をダランと横にしてるだけで良いわ」

「は、はい。これで良いですか?」

「うん。じゃあ、今から描き出すけど、描き終わるまでは絶対そのままのポーズで動かないでね。約束よ」

「はい。わかりました」


 ルネはイーゼルに乗せたスケッチブックに筆を走らせた。どうやら水彩画のようだが、鉛筆などで下描きせずにスラスラと描いている。流石は美術部の部長だと水川は感心していた。この実力を新入部員に見せつける為に、いきなりモデルを頼んできたんだと、勝手に納得していた。

 しかし、それは間違いだった。異変が起こったのは、描き始めてから五分を過ぎた時。水川は鼻がかゆくなり、無意識に掻いてしまったのだ。途端にさっきまでスラスラ動いていたルネの筆が止まる。


「何をしているの?」

「えっ? あっ! ごめんなさい。鼻がかゆくて――」

「『絶対に動かないで』って、約束したよね……」

「あっ、は、はい……」


 急にルネの声のトーンが低く成った。さっきまでの猫なで声とは別人のようだ。水川は慌てて鼻から手を離した。すると……。


「『動かないで』って、言ったのに……『動かないで』って……」


 水川はギョッとした。

 ルネのそのくぐもった声にではなく、睨んできたその目に驚いたのだ。ルネの黒い瞳は、いつの間にかカラーコンタクトを装着したかのように虹色に輝いていた。しかも有ろう事かその虹色の部分は虹彩こうさいだけに留まらず、黒いはずの瞳孔までがメタリックに輝きだし、赤、青、黄と変化しながら目まぐるしくグルグル回っている。それは、明らかに人間の瞳とは別ものだった……。

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