七話 川底に潜むもの
陽の光が、段々と林に遮られていく。体全体が湿っぽく濡れ、冷たさが走った。進めば進むほど、足元に霧がかかってくる。おぼつかない足元に恐れを成し、悪ガキ達の歩みが遅くなった。そんな悪ガキ達の足音を消すように、川の流れも激しくなっていく。ふと、ズクは何かが足を撫でるような感触に襲われる。恐る恐る足を触ると、いつの間にか濡れた足首に、水草のような物がヌラリと張り付いていた。滑りを帯びた水草のブヨブヨとした感触に、ズクは小さく悲鳴を上げる。
「ひっ!」
「どうした? ズク」
サチオが振り返ると同時に、ズクの体は川の中へと引き摺り込まれていた。サチオが気づいた頃には、川の水面で浮き沈みする小さな手だけがある。川底が掻き回され、水面は一気に濁った。細々と流れる川は意外に深く、ズクの体は手を残して一向に上がってこない。ジタバタするも、飛沫を立てて手足が交互に浮き上がるだけだ。目の前で起きた出来事に、皆が戦慄した。だが、ケンがたまりかねて沈黙を破る。
「ズク! 待ってろ!」
ケンは川に飛び込もうとするも、サチオは片腕でケンの襟を掴んだ。癇癪を起こしたように、ケンはサチオの片腕を殴り続ける。
「やめろ! お前まで溺れちまうぞ」
「離せよ! このままだとズクが死んじまうだろ!?」
普段の緩み切った顔はなく、サチオは真剣な顔つきだ。サチオはケンを押し除け、川に飛び込む。激しい水飛沫をあげ、サチオはズクの手に近づいた。泳いだ経験のないサチオだが、両手をめいっぱい動かす。川は深く、サチオの顔だけが出ていた。
「おじさん!」
川岸で手を伸ばすヒロ。だが、サチオとズクは岸から離れていく。マッキーも使える道具かないかポシェットを漁るが、なす術がない。慌てふためく悪ガキ達を背に、サチオはズクの手を引き上げた。無数の泡が浮き出て、ズクの顔が水面に出てくる。口から水を吐きながら、ズクは激しく咳込んだ。日に焼けていた顔は青ざめ、唇は紫色に変色していた。
「しっかりしろ! ズク!」
「ゲホッ、ゲホッ!」
返事の代わりに、ズクは小刻みに咳をする。ズクの小さな体は、寒さに震え続けていた。サチオはズクの体を抱えながら、岸へと泳ぐ。先程までは穏やかに流れていた水流が、生き物が体を捩るように不気味に揺れる。何度か水を吸い込みながらも、サチオは岸を目指した。岸に近づく二人の姿を見ると、ヒロが手を差し伸べる。
「ズク、おじさん! つかまって!」
ズクを抱えたまま、サチオはヒロに手を伸ばす。だが、激しい波に揉まれ、サチオの手は離れていく。その時、ケンが背中のタモ網を取り、ヒロに渡した。
「ヒロ、これ使え!」
ヒロは驚くも、すぐに頷き、タモ網をサチオに伸ばした。サチオの指先がタモ網を捉える。だが、サチオがタモ網を握った瞬間、ズクとサチオは水底に引き摺り込まれそうになった。タモ網諸共引っ張られ、ヒロも腰まで水に浸かる。
「負けちゃダメよ!」
マッキーがヒロを引っ張る。その後ろにケンも入った。三人は砂利を踏みしめながら、ヒロの体を引っ張る。ズクは得体の知れない何かに足を引っ張られていた。水底から這い上がる恐怖が二人を襲っている。その時、タモ網が悲鳴を上げ、真っ二つに折れた。衝撃でケンとマッキーは尻餅をつく。ヒロはすかさず、両手でサチオの手を掴んだ。
「おじさん、絶対離さないでね」
ケンとマッキーも立ち上がり、ヒロを引っ張る。水中に引き摺られそうになりながらも、3人は綱引きをするように、渾身の力を込めた。足に絡みつく何かがついに根負けしたのか、サチオとズクは岸に引き上げられる。サチオは小刻みに震えるズクの背中を叩く。ズクは咳と共に、水を吐き出した。ヒロはジャケットを脱ぎ、ズクに被せる。大柄なヒロのジャケットは、ズクを腰まで包みこんだ。息を切らしながら、サチオはズクを背負って川岸を離れる。
「ハァ、ハァ。お、お前達も早く離れるんだ」
悪ガキ達は次々と岸から離れていく。白い飛沫を立てていた水流は、人の気配が無くなると嘘のように静まり返った。
木漏れ日が降り注ぐ切り株に、ズクは降ろされた。ズクは震えが止まらず、ヒロのジャケットをきつく握る。袖から覗く手は、水を含んで白くふやけていた。ズクの目元は痙攣し続け、顔は恐怖に引き攣っている。その顔は寒さに震えるというよりは、何か恐ろしいものを見たようだ。
「大丈夫か? ズク」
「う……うん」
サチオはズクの手を握る。サチオのふくよかな手は、暖かくズクの小さな手を包んだ。父の冷たい手しか知らないズクは、サチオの手に縋る。
「うわぁ、見て! ズクの足、変な跡が付いてるよ!」
マッキーがズクの足を見て悲鳴を上げた。その途端、皆が一斉にズクの足元を見る。青白いズクの足首には、奇妙な手形が浮き上がっていた。痣の様に紫色に浮かび上がる手形。人間の赤ん坊のような手形が、足首に巻き付くように刻まれていた。ズクは足首を触ると、川底から自分を掴んだ何かが脳裏によぎる。人の手のようだが、ぬめりを帯びた何かが。
「それにしても、足を滑らして落ちちまうなんてドジだな」
「……違う。何かに足を掴まれたんだ」
ズクの手が強張る。掴まれた足首は浮腫み、締め付ける様な痛みが残っていた。
「やっぱり幽霊に狙われているんだわ」
「バ、バカ! そんなわけねぇだろ!?」
怯えるマッキーに怒鳴るケン。だが、ケンも足を震えさせていた。目を逸らそうとしても、二人の脳裏には痣が不気味に浮かぶ。
「まぁまぁ、ズクも無事みたいだし、先に行こうよ」
いがみ合う二人をヒロが諌める。だが、ヒロも落ち着かず、震えを寒さのせいだと誤魔化そうとしていた。唯ならぬヒロの様子に、二人もそれ以上口を開こうとしなかった。
「ハーックション! うう、風邪ひいちまいそうだ」
サチオの野太いくしゃみに、悪ガキ達は飛び上がった。手で鼻水を拭い、サチオは身震いする。彼の一張羅のタンクトップも、ズボンの中のパンツまでびしょ濡れであった。
「ん? なんだよお前ら。そんなに引っ付いたりして」
サチオが腰の辺りの違和感に気づく。悪ガキ達がおしくらまんじゅうをするように、サチオの腰に張り付いていた。お互い体を震わせながら、悪ガキはサチオから離れようとしない。
「いや、おじさんが寒そうだと思って。ね?」
「そ、そうよ。暖かくしないと。ね?」
口々に言い訳をする悪ガキ達。タンクトップを引っ張り、コバンザメのように引っ付いたままだ。ズクも親の側を離れない子供のように、サチオに縋った。
「おいおい、そんなにひっつくなよ。歩きにくいだろ」
小言を言うサチオだが、子供達を力づくで離すことはしなかった。五人六脚のまま、悪ガキ達は林道を進んだ。川から這い寄る何かの気配に怯えながら。木々は一層生い茂り、陽の光は一筋も当たらなくなっていく。川底の匂いは、どんどん強くなっていった。
薄暗い森の中、悪ガキ達の前には巨大な鳥居が立ちはだかった。朱塗りの塗装は剥げ、しめ縄も朽ち果て、千切れている。文字のぼやけた神額は、悪ガキ達を見下ろすように鎮座していた。鳥居の奥には、川を挟んで橋がかかっている。橋の向こう側には、御殿のように立派な本殿が佇む。鮮やかな朱色の本殿は、畏敬の念すら感じられた。長い間人の手が加えられていない自然公園には似つかわしくない本殿に、悪ガキ達は息を呑む。
「驚いたな。こんな綺麗な場所があるなんて」
「やっぱり地図の通りだ。本当に神社があるんだ!」
先程までの恐怖を忘れ、興奮してズクは地図を取り出す。マッキーも恐る恐るカメラを取り、シャッターを押した。本殿側には日が差しているのか、不自然な程明るい。
「こんなに手入れが行き届いているなんて。さっきの管理人さんがたまに来ているのかな?」
ヒロは鳥居に近づく。橋は枯れ葉一つ落ちておらず、砂利も払われていた。だが、手入れはされているものの、人が通った後は無い。ヒロはそれが酷く不気味に感じられた。
「じゃあ、お宝はあの建物の中にあるんだな!」
ケンが鼻息を荒くし、鳥居を駆け抜ける。慌てて、ヒロが後を追った。
「あっ! ちょっと待ってよ!」
出遅れたマッキーも鳥居を抜ける。ズクも後から悪ガキ達について行った。
「お、おい! 滑りやすいんだから、走ったりしたら危ないぞ!」
サチオがお腹を揺らしながら、ドタドタ走る。サチオの静止も聞かず、悪ガキ達は本殿へと一直線に走った。川への恐怖も忘れ、冒険の果てへの興奮に満ちている。そんな不届者達が足を踏み入れるなり、鳥居に旋風が吹きつけた。暗雲が立ち上り、木々が騒つく。まるで怒りに打ち震えるように。
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