二話 団地の向こうへ

 マッキーこと、板橋いたばし 麻希まきは団地一の噂好きだ。噂するのも聞くのも好きな年頃。アジトからの帰り道にも、噂はあちらこちらから飛び交う。


「ねえねえ聞いた? 下の階に住んでるゴシップ記者、最近きな臭い人とつるんでるらしいよ」


「聞いたかい? C棟の二階、どこにもないはずの電話機の音がするみたいだよ」


「神田のお爺さん、もう長くないみたいだよ。何回も入院断ってるみたいだし」


そうした噂を部屋に持ち帰るのが、彼女の手土産だ。部屋に帰るなり彼女は元気よく、居間にいる両親の元へ行く。だが、いつもであればニュースの話題ばかりしている両親が、今日は神妙な面持ちであった。その様子を見るとマッキーの弾む心も徐々に沈んだ。


「ただいま。ママ、パパ」


「あら、おかえり麻希ちゃん。ねぇ麻希ちゃん、都心に住んでみたくはない?」


マッキーの母親は何やらパンフレットを広げている。そこには、新しい家が並んでいた。


「今度、パパはお台場でお仕事するんだ。だから、麻希も素敵なお家で暮らしたくないかなって思ってな」


父親は柔らかな口調でマッキーに言い聞かせる。その手元には難しい文字で書かれた、大量の書類が散らばっていた。マッキーは父親がどんな仕事をしているかはよく分かっていない。だが、父親の事は好いていた。それと同じくらい強い感情を、今のマッキーは抱いている。


「う……うん。ちょっと考えてみてもいいかな」


マッキーは自信なさげに答える。


「あ、いきなり言われても難しいよね? まだ決まったわけじゃないから、麻希ちゃん、安心してね」


娘が乗り気でいない様子を察し、母親は慌てて取り繕う。父親も、書類の束を娘の目が届かない所に隠した。マッキーにはそんな両親の姿が目に張り付く。マッキーは両親を嫌っているわけではない。だが、それと同じくらい、この団地を嫌っているわけではなかった。


 ケンこと、渋谷しぶや 賢治けんじは団地一番の悪たれ坊だ。団地の屋上に寝そべったり、給水塔をよじ登ったり、団地は彼のアスレチックだ。彼は今、悪友に紹介された新しい遊び場に行くのを楽しみにしていた。履き潰したスニーカーをばら撒き、部屋に上がる。


「おいコラ、ケン! オメェクツ揃えて部屋上がれや!」


野太い声と共にケンの頭にゲンコツが炸裂する。タンクトップ姿の青年が、ケンの襟を掴む。がっしりとした腕は、万力のようにケンを離さない。


「ごめんってマサ兄。すぐ直すからさ」


靴を直すとそそくさと立ち去ろうとするケン。だらしなく開いたケンの尻ポケットから出たものを、マサは注視する。筋肉で盛り上がった眉を上げ、目元が痙攣した。


「待てケン。オメェ、そりゃ何だ?」


 マサはケンに近づき、尻ポケットの物体を取り出す。それはグシャグシャに折れたタモ網であった。昔、マサがバイト代をはたいてケンに買ったものだ。ケンは慌ててタモ網を引く。


「返してくれよマサ兄! それ大事なものなんだからさ」


「オメェまた悪さしようとしてんな! 何べん人様に迷惑かけりゃすむんだ!」


マサはタモ網を奪い取り、ケンを振り落とす。さしものケンも、仁王のような形相の兄には手も足も出ない。ケンはベソをかき、しゃくりあげた。


「違う、俺、マサ兄がどこも連れてってくんねぇから、自分で外に行きたいんだよ」


マサはケンを怒鳴りつけようと息を吸い込むが、それはため息に変わった。タモ網を持ったまま、マサは自分の部屋に戻る。鼻を啜りながら、ケンは黙って兄の姿を見ていた。

 団地に帰ってこない両親の代わりに、マサは毎朝早く仕事に出かけている。幼いケンもそれを分かっていた。だが、遊び盛りのケンにとって一番必要だったものは、遊び道具ではなく、遊び相手だった。


 ヒロこと、日暮里にっぽり 博彦ひろひこは、同年代の子供達の中では物知りで有名だ。彼は幼い頃から勉強が好きで、特に生き物に関しては詳しい。いつも図鑑を持ち歩いており、気になる事があったらすぐに近所のお爺さんに聞いていた。彼は元来生真面目な性格で、悪ガキ集団の一員には不釣り合いなほどだ。だが、ヒロは一度としてこの集団を抜けたいとは思わなかった。この集団にいると新たな発見がたくさんあるからだ。

 部屋に戻ると、ヒロはすぐにリュックを準備した。懐中電灯に雨合羽にマッチ。大好物のチョコレートも入れた。物音に気づいたのか、母親が部屋に入ってくる。


「博彦、遊びに行くつもり? 勉強はどうしたの?」


厳格な口調の母親。ヒロは慌ててリュックを片付ける。取り繕うように、ヒロは苦笑いをした。だが、ヒロの口元はぎこちなく、目も笑っていない。


「心配しないで母さん。勉強を終わらせてから行くつもりだよ」


ヒロが弁明するも、母親は険しい顔のままだ。ヒロも笑顔は苦手だったが、母親も決して笑うことのない人であった。

 

「博彦、あなた最近変な集団とつるんでるらしいわね。何をしているか知らないけど、あなたには中学校受験があるんだからね」


母親のこびりつくような言葉に、ヒロは黙って頷く。母親が出ていくのを見るなり、ヒロはゆっくりとリュックを出した。

 ヒロは他の同学年の子供と違う。ヒロには受験があるのだ。聡いヒロはそれが何を意味するのかも理解していた。だが、その進路は学びを深められても、新たな発見はない。あのメンバーでなくては、冒険はできないのだ。


 ズクこと、奥多摩おくたま 和久かずひさは、他の悪ガキ集団ほど目立った能力はない。ただ、好奇心だけは抜きん出ていた。部屋に戻るとすぐさま地図を広げる。この地図には僕らの知らない世界がある。地図を見ると、大人達も知らない謎を解き明かしたいという気持ちに駆られた。


「よお、ズク。珍しいもの持ってんじゃんか」


無作法に部屋に入ってきたのは、ズクの叔父、奥多摩おくたま 幸男ゆきおだ。ズクは突然の訪問者に驚くが、叔父と知ると呆れてため息をつく。空気の抜けたタイヤのように緩みきった叔父の顔つきは、どんな不審者よりも無害そうだ。


「なんだよサチオ。また変な物押し付けに来たんだろ」


「つれないこと言うなぁ。せっかくお宝と交換してやろうと思ったのによ」


サチオはボサボサの髪を掻くと、尻ポケットからネックレスを取り出した。ポケットの中で絡まったネックレスは、プラスチックの安っぽい光を帯びている。


「これはおいちゃんが古代の遺跡で見つけたんだ。俺の見立てだと、これは王様が付けてたネックレスだと思うな」


太い指でネックレスを不器用にほどき、サチオはズクにネックレスを見せる。ズクは何が王様のネックレスだと呆れ返った。子供から見ても一目でそれが安物だと分かる。鈍く光るメッキのチェーンに継ぎ目のついたプラスチックの石。物を知らない子供扱いされたことに対し、ズクは腹を立てる。


「悪いけどこの地図は大切な物なんだ。だから交換なんてしないよ」


「その地図もきっと高く売れるぞ。大金持ちになれるチャンスだ」


サチオは次から次へとズクが食いつきそうな出任せを話す。ズクはうんざりしながら首を横に振り続けた。早く帰ってくれと言わんばかりに、ズクは貧乏揺すりをする。


「何をしている。幸男」


ズクにとっては馴染みのある、だが背筋が凍るような声が聞こえてくる。黒いスーツ姿の男が、招かれざる客の方を睨んでいた。声の主を見るなり、サチオはバツが悪そうな顔になる。男はサチオと似た眉の形をしているが、引き締まった厳格な顔立ちは全く異なる印象を与えた。


「やあ、親愛なる兄上様よ。今日は随分早いお帰りで」


「お前こそどういうつもりでここにいる。息子から離れろ」


間の抜けた口調を斬り捨てるように、ズクの父親はサチオに命令する。サチオは渋々ズクから離れ、部屋を離れようとする。


「全く、お堅い兄貴だこと。少しは可愛い甥っ子と話をさせてくれよ」


「お前を家族だと思ったことはない。出ていけ」


強い口調で突っぱねられ、サチオはそそくさと部屋を出る。サチオの姿が見えなくなるなり、ズクの父親はぴしゃりとドアを閉めた。


「和久、アイツに何か物をもらったか?」


父親は疑るような目でズクを見る。ズクはすかさず首を振った。それでも父親はズクを見据える。実の父親に見られているはずなのに、ズクは生きた心地がしなかった。


「…………ならいい。お前はあんな碌でもない大人になるんじゃないぞ」


言い終わるなり、ズクの父親は部屋から出て行く。ズクはそんなスーツ姿の父親が好きになれなかった。父親がズクに言う言葉はいつもこうだ。お前は真っ当な大人になりなさい。お前は変な仕事に就くのはやめなさい。ズクにはそれが窮屈に感じた。父親の言葉を振り切るように、ズクは地図をリュックに入れる。

 この冒険は、大人にとっては真っ当な人間がやるものではないのかもしれない。だが、ズクは一度抱いたこの好奇心を捨てる事はできなかった。

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