オルト=エメルの羹

『神に悪意は無きなり

 人が悪意と解す』

 〜《オルト=エメル創世神話》より〜

『我を視たか

 我はいましの奥に在り

 我はオルトの中に在り

 なれどいましは我を見ず

 故に我はいましに喰らいつく』

 〜《オルト=エメル創世神話/玄狼の章》より〜 

 


 十五歳となったヴェルンは、成人ノ儀の日を迎えた。『神触れ』と呼ばれ、正教会聖堂で執り行われる。

 引き取られた養家で、ヴェルンは決して裕福ではないがかといって特段の不自由も無く、ごく普通の暮らしを送ってきた。養父のミル・オルヴェスはヴェルンが養子である事を隠すことはなかった。かといって実子と差を付けることもない。

 オルヴェスには実子が三人、養い子が四人いる。妻のシーラもいちいち区別したりしない。皆に一様に愛情を注ぎ、一様に叱り飛ばし震え上がらせた。

 聖堂内にはオルヴェスやヴェルンに限らず、養い親も養い子も多くいる。それぞれに事情は異なるが、エラフィア聖王国のみならず、セファ=ノア大陸全域で決して珍しい事ではない。

 教会が運営する救護院で育った若者も多い。神威の過酷な世界にあって子供たちを育てるという事業は決して容易ではない。自然と、こうした互助制度をあらゆる国がそれぞれの方法で発達させた。教会しかり、徒弟制度しかり。

 どこに神威が潜むか、それは正教会神官であっても真教会神官であっても正確に予測できる事ではない。神の意志は基本的に無秩序だ。庶民の出身が多い神官の多くはオルト=エメルの言葉の殆どを誤訳し続けている。それは、より神に近い貴人出身者でも、十の内一〜二程度しか読み取れぬ。神人であってもさして変わりはない。

 生きるという一事だけでも神威が人を阻碍する。

 オルト=エメルは真の混沌の神だった。人はオルト=エメルの神楽に踊らされ続ける。

 ミル・オルヴェスとシーラの娘、ラグナ・オルヴェスは昨年、神触れの儀を済ませていた。今は正教会の神学校に通いつつ、薬師の徒弟として家業を手伝っている。

 ヴェルンはラグナのお下がりの成人の儀の正装である白衣と灰色のケープをまとい、一列に並ぶ未成年者の中で、神触れの順番を待っていた。

 正衣は昨夜、ラグナに託されたものだ。ヴェルンの体格に合わせて、シーラに手解きされラグナが仕立て直した。

 そわそわとした逸る気持ちと、詰まらない儀式への倦怠、見守るラグナへの微かな憧憬、厳しくも温かい養父母オルヴェスとシーラへの感謝、様々な思いが去来していたが、今日ここに晴れて待ち望んだ日を迎え、ヴェルンの気持ちは期待に胸が膨らむ思いに収束した。

 自分が高揚している事に気付いて気恥ずかしくなったヴェルンは、壮麗な聖堂内を見渡した。緻密に設計された石造りの建物は採光窓から陽光が斜めに差し込み、微かに舞う埃を輝かせ、沈黙を護る未成年者達を照らす。オルト=エメルの寵愛と加護の賜りますよう。ヴェルンは心の内で信心深く祈った。

 この神触れの儀が済めば、ヴェルンは市民権を得て自ら人生を歩むことになる。

 取り敢えずは養父オルヴェスの徒弟として薬師を目指しても良いし、ラグナの様に高等教育を受ける資格も得られるかもしれない。ヴェルンの未来は未だ定まっていない。運命などというものは、オルト=エメルに任せておけば良い。

 オルヴェスは縁組を仲介した者から、ヴェルンを貴族の落胤らしいと聞いていたのを思い出していた。

 神触れにはそれなりの反応があるかもしれない。少しくらいは、ネオロアイトが沸き立つかもしれぬ。現に貴人の徴は血に現われていた。怪我をしたヴェルンは青い血を流す。「今夜は祝わねばならぬな・・・」と小さく独り言ち、我が子を見守る視線には養父としての柔らく誇らしい気持ちが籠もっていた。

 ヴェルンはオルヴェスの子供たちの中で、おっとりとしながらも抜きん出て利発で賢く、そして意外なほど逞しく健康に育った。流行り病や災害で死ぬ子もいたが、ヴェルンは危なげなく自らの人生を切り拓き、遂にこの時を迎えたのだ。

 ここ数年、義姉のラグナに密かに憎からぬ感情を抱いている様子も、ヴェルンの視線には垣間見えるとシーラから聞かされていた。

 なるほど、ラグナを娶らせて跡を継がせる、という事は考えても良いかもしれない。オルヴェスは密かにそう思っていた。貴人と庶民では子供は期待できないかもしれないが、養い子を持てば良い。血の継承に躍起になるのは王統にでも任せておけば良い。

 当のラグナはオルヴェスの隣で、ヴェルンが神触れの儀式を終えるのを緊張気味に見守っている。年頃の娘の内心は父のオルヴェスには推し量れない。

 神官の朗々とした呼び声に応えて、次々と子供たちが神触れを終えていく流れ作業が、速やかにかつ厳かに執り行われていく。何しろ数が多い。およそ百人はいるのかもしれなかった。

 焚かれた乳香の煙が真っ直ぐ天井へと昇っていく。甘く、極く微かなツンと鼻を刺す香りが、甘やかな清涼感で聖堂を包んでいる。

 遂にヴェルンが呼ばれた。神官は儀礼に従い、聖杖の先に埋め込まれた小さなネオロアイトの金属結晶を、ヴェルンの額に当てた。

 バンっ!と爆音が轟き衝撃波が聖堂内を駆け巡った。

 目を閉じるヴェルンの額の正面で、ネオロアイトの結晶が神焔反応を示し、青白い光を強烈に放ちながら消滅した。爆轟で神官や記錄官が吹き飛ばされ、子供たちの悲鳴が聖堂内を埋め尽くし辺りは騒然となった。ラグナは衝撃波に飛ばされて転がり、オルヴェスは耳鳴りに目眩を起こし、その場にへたり込んだ。

 正教会が用意した人別証書の用紙が爆風に吹き飛ばされ、三々五々に舞い落ちて度々視界を塞ぐ。漆喰が剥がれ落ち、もうもうと煙が舞い上がる。

 聖堂内が恐慌状態に陥る中、オルヴェスは何故ヴェルンの出自が執拗に隠されていたのか、理解した気がした。ヴェルンは、神の子だ。

 耳鳴りが止むと、神官たちの声がさざめくように聞こえてくる。

「神胤だ・・・」

「三性の神胤・・・」

「神人だぞ・・・」

 ヴェルンは三性だった。

 神人なのは、間違いなかった。それもかなり血の濃い神の胤であった。

 ラグナは無言でヴェルンを見詰めていた。


 

 神人とは、青い血を持つ神のしるしを受けた神胤である。

 神胤は貴人、庶民、隷民といったそれぞれの階級の異なる者たちが交接した際に発生した胚がどうした理由か神に犯され、胤が仕込まれる事で産まれる。なぜ交雑した時だけオルト=エメルが介入するのか、誰にも説明はつかない。神官は不安定で流産ながれやすい胚への神の恩寵、と説明している。

 そして神官たちは、この現象を三性生殖と名付けて呼んでいた。男性と女性と、そして神性である。

 通常、貴人、庶民、隷民が交接しても孕むことは稀であるし、産まれても不具になる場合が多い。仮に五体満足で無事に成長しても一代で終わる。雑種が子を為すことは出来なかった。貴人、庶民、隷民は生物種が異なるのだ。

 しかし三性で神の胤を宿した場合は事情が異なる。

 神人として産まれる。

 庶民と隷民の合いの子でも青い血で産まれる。

 二代以降は貴人と呼ばれ、同じ青い血を持つ。神人は子を為す事も可能となる。隷民から神人が産まれることも決して珍しくはない。

 現在の王統や貴人階級は、神人初代の才覚によって領地を切り取り、一家を成し、支配階級として庶民、隷民達に君臨していた。神人の血が薄まっていくと、やがて神因は消え、人心を統率する力を失い、場合によっては没落衰亡し、階調はあるがやがて庶民に堕ちる。その頃には神因も失い血も赤くなっている。庶民とは貴人の亜種なのか、貴人が庶民の変種なのか、それは判っていない。

 隷民同士の中でさえ、職能により人種が異なり、交雑は稀であった。見た目は全く同じ人であっても、生き物として超えられない壁が峻厳に存在するのだ。

 しかし神胤となれば初代として貴人階級の上に一気に上り詰める。赤い血を持つ庶民や隷民の交雑によっても神人は産まれる得る。その法則は根源神オルト=エメルのみが知る。つまり、人心の預かり知れぬ神の秘儀であった。

 オルヴェスはヴェルンが我が手を離れた事を悟った。

 成人として、ではなく階梯が異なる事実をまざまざと見せ付けられたのだ。セファ=ノア大陸の多くの国に於いて、神人は選ばれし者なのだ。これもまたオルト=エメルの思し召しか。ラグナはようやく立ち上がると、義弟が神に選ばれていた事を知り、軽く妬心が芽生えた事に驚き、一言も発せられぬまま立ち尽くしていた。

 儀式を主催していた神官たち右往左往していたが、立ち尽くすヴェルンを取り囲むお、額に血に滲む神官が叫んだ。

「この者の保護者は?父親か母親はおらぬか?!」

「あぁ、これに。薬師のミル・オルヴェスであります。ヴェルンは私の養い子であります」

「この者は神胤である。これよりこの者の身は我が正教会並びに王統により与る」

「ええっ?!そんな・・・」

「異議を申すか?!」

 思わず漏らしたラグナの抗議の声を聞き咎めた神官は、ラグナを圧し黙らせた。

 昨日まで何くれと世話していた義弟が奪われる。理屈ではなかった。ラグナは反論し掛けたが、父のオルヴェスに引き止められ、震えながら諦めた。元より正教会に歯向かう事など貴人でもおいそれと出来やしない。

 選択の余地は無い。

 歴とした神人であるヴェルンは、エラフィアの王統に組み入れられる。エラフィア聖王国に於いても数十年振りの事だった。神因の薄れつつある現聖王家にとっては、神胤は喉から手が出るほど欲するところである。

 

 ヴェルンは、自らの運命が予想もしない方向に変転した事を悟り、呆然としながらも受け入れる以外の道が残されていない事を思い知らされた。この俺がおとぎ話の登場人物でしかない、神人?

 二度とオルヴェス家を我が家として帰る事は叶わない。ヴェルンは居場所を失った。シーラが朝一番に炭を起こす竈の煙の匂い。少しカビ臭い数多くの薬草の匂い。温かな寝床。兄弟たち。総てを取り上げられた。

 成人を迎えたとて、本来ならヴェルンには未だ一人で生きる 活計たつきの道は持っていない。取り敢えずは薬師の徒弟として修行を続けていただろう。

 しかし神胤たるヴェルンは、慌ただしく王統ヴァル=セルドラル家との謁見を拝す身となり、そしてそのまま王統へと組み入れられる。神官たちに乱暴ではないが決して逃れられぬよう緩やかに拘束されると、瞬く間に王城へと向かう馬車に乗せられていた。

「待って。待ってくれ」

 せめてオルヴェス、ラグナと別れを、というヴェルンの小さな願いも、丁寧に、しかし拒否を赦さぬ頑なさで謝絶され、聞き入れられることは無かった。


 

 急報を受けたヘリド・ヴァル=セラドレル六世は眼の前に引き立てられてきた子供を静かに眺めた。王城の拝謁の間には聖王を始めとして、王室一族、廷臣や枢密と侍従、神官たち。

 ヘリドはその治世二十二年で初めて神胤を得ることになる。ただ聖王自身には、ヴェルンはただの怯えた子供にしか見えない。

 真っ直ぐな黒い髪を垂らし、蒼白となった整った貌には薄く緊張が浮かんでいる。その眼は黒く、己の場違いさに戸惑いながらも、奥底にはどこか勁い意志が宿っているようにも見えた。

 通常、庶民であれば力ずくでも跪く事を強制されるが、神人と認定されたヴェルンは、近習たちも扱いに困り、放置されただその場で立ち尽くしていた。

「この者が?確かなのか」

 聖堂の記錄官が応える。

「我が君よ、恐れながら間違いは御座いません。立ち会いの神官全て青い神焔が爆轟を起こすのを、その眼で確かめまして御座います」

「名は?」

「薬師ミル・オルヴェスが養い子、ヴェルンと」

「ふむ、余に聖杖を」

「お待ち下さい!ネオロアイトがただ沸騰するだけでは御座いません。反応は激烈で、その被害は尋常一様では御座いませんでした」

 神触れの儀の会場となった正教会聖堂内では一部の壁が崩れ、吹き飛ばされた数人が意識を失い、怪我した者は無数にいた。中には骨折したものもある。重症であった。

 貴人の神因はネオロアイトに反応する。神因に触れるとネオロアイトは沸騰し、神胤たる神人の場合、その反応は特に苛烈なものとなる。

 ネオロアイトが神殺しの希少金属であると呼ばれる所以であった。

 ヘリドは軽く溜息を吐くと、筆頭宰相ガノルに声を掛けた。

「木偶をこれへ」

「連れさせます」

 木偶とは、元々は貴人の成れの果てである。

 正教会の審問で有罪となった貴人階級はネオロアイト採掘鉱山での強制労働に処されるのが、ここエラフィア聖王国での常だ。貴人は大逆以外では、死罪となることは滅多になかった。

 しかし、ネオロアイト採掘場で粉塵と化したネオロアイトの微粒子は貴人の血に含まれる神因に反応し、貴人の身体を蝕み脳を蝕み、やがて気が触れることになる。長くても十年程度の労働にしか従事できなかった。

 庶民、隷民には全く無い反応であり、貴人の為だけの刑罰と言える。

 連れてこられた小汚い木偶は灰色の襤褸をまとい、視線は朧に焦点が定まらず、心ここに非ずで、気は触れているが大人しい女であった。元は貴人だけあって、清潔にして着飾ればそれなりの容姿ではあっただろうが、今は見る影もない。

 木偶はヴェルンの前に引き立てられ、眼の前の少年に気付いて焦点を合わせた。するとその眼はみるみる見開かれ、がくがくとおこりを起こしたかのように震える。

 完全に怯えきっていた。

 そして突然、がくりと跪くと、言葉にならぬ唸りを上げながら平伏した。

 聖王ではなく、ヴェルンに。

 木偶を生かしておく理由は神人の簡易判定のためでもあった。ネオロアイトに毒された木偶には、神胤は強い畏れの対象となる。

「良い、下げろ」

 震えて立ち上がる事もままならぬ木偶の女は、そのまま近習に抱えられる様に退出した。

 ヘリドはふと気になり、尋ねた。

「あの木偶は何をした?」

 王家封印記録官のセト・ダリウムが記錄をめくりながら答えた。

「姦通の罪で家令に告発されたようです」

「ヤツに赦免を。正教会救護院に収容させよ」

「御意のままに」

 ヴェルンの母ノエミルは人として罪咎を赦されることとなったが、母子は互いに気付くことは出来なかった。


  

「これで確かなようだな、新たなる神人よ。神の子よ」

 ヴェルンは聖王のよく通る声が自分に向けられている事に一瞬遅れで気付いたが、まだ夢幻の中を彷徨うような非現実感に囚われていた。

「新たなる神の血を余は歓迎する。時に、ネオロアイトを精錬するのを見たことがあるか?神の子よ」

「え・・・あ、いえ」

「ネオロアイトは鉄よりも高温でなければ精錬できぬ。骸炭を積み上げ、噴き出す炎が青くなるまでふいごを回し、槌打ち飛び散る火花もまた青い。我ら貴人の血と同じ色だ。神人も然り」

「はぁ・・・」

 知識として聞いたこともあるが、それが我が身に降りかかることとは思ってもいなかった。確かに血は青かったが、まさか神人とは。

「見よ」

 神官の持つ聖杖を取り上げると、先端のネオロアイトの結晶に触れた。たちまち表面が湧き立ち、結晶は沸騰した。

「余であってもこの程度。もはや我がセラドレル家に伝う神因は薄い。新たな血が必要なのだ」

「・・・」

「セイラス」

「お側に」

 セイラス・ヴァル=セラドレル。

 ヘリドの嫡男にして王位継承権第一位の王子。現在は白鏡騎士団の総長と王国軍最高指揮官とを兼務する。決してお飾りではなく、騎士としての実力も、騎士団長としての人心掌握にも長けた、一流の聖騎士と目される実力の持ち主である。

 人を逸らさぬ明朗な快活さが、その顔に自信となって現れているかのようだった。黒い髪に柔和な青い瞳。戦場暮らしが精悍な顔を日焼けさせている。

 現在は北部に国境を接するロ=イゼレ王国との小競り合いで国境軍を指揮してもいる。いずれ大侵攻がある、との情報もあり、自ら国境地帯へ赴く調整を始めていた。

 宮廷神因式理師のアストリッド・ネル=シエレはここから数年、北部の寒冷化といくつかの神威災害を予測している。当てになるかどうかは判らないが、ロ=イゼレ王国の天命王、ラオメス=イゼレ十三世が同じ予測をしている可能性は高かった。真教会と正教会、いずれもオルト=エメルを信仰する事には変わりはないのだ。

 正教会はオルト=エメルを始めとする多数の神々を信じ、真教会はオルト=エメル一柱を唯一絶対と見做している。それだけの事が互いに理解を拒む巨大な底の見えない溝となっていた。

「お前の下につけよ。騎士として存分に鍛えてやれ」

「御意のままに」

 セイラスは直ちに一礼し、顔を伏せた。その表情は見えない。

「イリア」

「いかなるお心置きにごさいましょう、陛下」

 イリア・ヴァル=セラドレル。

 セイラスの妹にして、王家諮問院副席、対神殿外交担当として辣腕を振るう。決して深窓の姫君ではなかった。王位継承権は第四位ではあるが、向こう気の強さを蒼い目の光に紛れさせ覆い隠し、白磁の如き玲瓏な美貌を飾る。長い翠の黒髪が高く結い上げられて、左右形よく整った小ぶりな耳が覗く。

 よく似た兄妹であった。

「ヴェルンを婿とし、王室に迎える。数年内の良き日には婚礼を執り行う」

「・・・お心のままに。よろしく、未来の我がつま

 流石に一瞬躊躇った様子だったが、イリアは王意に逆らいはしなかった。

 気になったのは、職責か、想い人でもいたか、或いはヴェルンとの年の差か・・・。

 これで水面下に続いていた南部に国境を接する海運国であるタレン公海連邦の第八王子、エルファス・サイとの婚姻の破算は、確定となった。王宮侍道長のミュリア・エルネストはこれまでの交渉が水の泡になったことを自覚したが、王統の血の強化と天秤に掛ければ、どちらを取るかは明白な事だ。

 しかしイリアは全く心を読ませぬ無表情で、ヴェルンの手を両手で取り、辞儀をして見せた。手を離す時は微かに笑みさえ浮かべている。八つの歳の差など、意に介してもいない。

 ヴェルンは狼狽を隠せなかった。結婚?この俺が?この王女様と?おとぎ話であろうか。

 今朝はそんな事になるとは露知らず、朝餉に青菜と肉団子入の粥を啜って舌を火傷していた、根っからの庶民のこの俺が?このお姫様は火傷するほど熱い粥を啜ったことなど、一度も無いだろうな、などと場違いなことを考えていた。

 ヴェルンにすれば王女イリアに不満がある訳ではなかった。しかし、つい半日前まではただの成人未満の薬師の徒弟見習いでしかなかった身である。結婚、ということが何を意味するかも想像がつかないのだ。それにヴェルンがイリア本人を見たのは、ただの一度切り。祭りの日に遥か遠くからバルコニーに立つ姿を人波の中から垣間見たに過ぎない。それが突然、自分と結婚するという。驚かない方がどうかしている。

 それは、聖王の側近たちにしても同じ事だった。

 筆頭宰相のガノル・フェゼイン。

 王宮侍道長のミュリア・エルネスト。

 王家封印記録官のセト・ダリウム。

 軍政庁筆頭文官にして国王直属軍務顧問のテリオン=エス=ヴァレン。

 宮廷神因式理師のアストリッド・ネル=シエレ。主だった面々が一様に王の裁定に動揺を隠せず、互いに目配せをする。

 しかし、聖王の言葉であり、聖断である。

 そして、既に王室の神因が薄まりつつあるのは周知のことであった。先王も僅か七十足らずでこの世を去っている。庶民、隷民と異なり、貴人の寿命は百年近くに及ぶ。神因が長命を担保するのだ。

 つまりは明らかに神の血が薄まっているということになる。それもこれもここ数十年、エラフィア聖王国に神胤が現れなかった為だ。

 北に国境を接するロ=イゼレ王国の天命王は国中から集めた神因で周囲に固めて、真教支配の統率力を高め続けている。エラフィア国境では喫緊の脅威として切迫感を増してきている。エラフィアには、新たな神の血がどうしても必要だった。

 王統の拠って立つ証が神因なのだ。青き血はセファ=ノア大陸のいずれの国の王族にとっても、支配構造の柱になる。

 拝謁の間に居合わせたそれぞれに思う所はあったが、この少年の利用価値の高さは、この場にいる全ての者に共通していた。

 少年の舌は、まだ少しヒリヒリとしていた。


 


II

『羹は世界をなぞり

 鼎の淵に寄せ返す

 零れ落ちる雫は人となれり

 貴きもの

 獣のようなもの

 語るもの

 沈黙するもの

 すべては零れ落ちた雫なり』

 〜《オルト=エメル創世神話》より〜



 白鏡騎士団教練場は、王都の壁外にある。宿舎に寝泊まりし、訓練を受けそれぞれ任務に就く。王城警護、国軍を率いた国境警備、進軍する際には先頭に立つ。

 任務の無い時は、教練で自ら鍛えること課せられていた。

「ヴェルン、ヴェルンはあるか?」

義兄あに上、こちらに」

 五年が経っていた。

 ヴェルンは白鏡騎士団の訓練教程を瞬く間に終えると、衛士を飛び越えて騎士となっていた。

 神人や貴人には時にこういう例がある。神因は本人の意を大きく超えた才を人に与える。セイラス、イリアにしても、程度の差や向き不向きはあれ卓越した才を持ち、存分に発揮していた。王統や貴人が世界を支配する必然と言えた。

 青い血は異能を育む。

 ヴェルンは剣ではなく、身長ほどもある六ナブ(約百八十センチ)の鉄杖を携えて駆け寄った。

 セイラスは苦笑した。

義兄あに上は止せ。まだイリアとの婚儀は済ませてないぞ」

「あっ」

 こういうところは、初めて会った頃と変わらぬな。五年の歳月がヴェルンを見違えるほどしなやかに逞しくしたが、決して心根を変えていない事に、セイラスは不思議な満足感を覚えた。

 だから、少し困る。

「何か御用でしたか、騎士団総長閣下」

 ヴェルンは悪戯っぽく笑むと、改まって事更に階級を強調した。

 木剣を振るうのも覚束なかった少年ヴェルンは、教練で一年も経たぬ内に見る見る頭角を現し、今では白鏡騎士団・副官のヴァルト・レミウスを圧倒する事さえ少なくはない。あの日、王宮で緊張し怯えた様子の子供はもういない。

 神人である、ということで特別に訓練教官を務めたヴァルトが珍しく控えめながらも褒めたのだから、実力は本物だろう。今では戦場で自ら証明している。目を見張る成長ぶりだった。

「つまりは、神因の才、オルト=エメルの加護で御座いましょうな。もちろん、人一倍、いや三倍は努力を重ねております。その努力を支える吸収力、体力がヴェルン殿にはありますな」

「それほどのものか」

「セイラス様も、決して油断は出来ますまい?」

 ヴァルトの言う通りである。

 戯れに手合わせをすると、ヴェルンは時に加減する事を許さぬほどの手練てだれと成長していた。今では騎士団内でも遊撃隊の隊長として、重要な地位を占めている。


  

「イリアとは会っているのか?」

「休みが合いませぬもので、ここひと月ほどは機会もございません。イリア様もお忙しい方ですから」

「あいつは仕事莫迦だからな」

 セイラスの思わぬ軽口に、ヴェルンは虚を突かれた。やがて苦笑しながら義兄を嗜める。

「イリア様も聖王国の重責を担っておられます。私ごときの相手をしている暇はございません」

「未来の夫を放ってか?一度私からきつく注意せねばならんな。・・・そのイリアの尻拭いが必要となりそうだ。天命王がまたもや我が国の領地を欲しがってウロウロしだしたと斥候より報告が上がっている。神殿外交などという文官仕事も真教会相手では捗がいくまいよ。駐屯する戒律騎士団が次々と増員されているようだ」

「またしても・・・」

「ひと揉みあるぞ」

 イリアの事ではない。ロ=イゼレ王国との小競り合いは、ヴェルンが産まれる前から続いていた。国境地帯での戦闘にはヴェルンも何度か参加し、戒律騎士団を何度も退けている。

 ヴェルンは初陣でも臆することなかった。臆する暇が無かった。

 それには仔細がある。

 国境近くの小さな村だった。

 無惨というほかない惨状であった。壊滅させられた村の住人達を見出し、戦闘前にも関わらず白鏡騎士団と王国軍はわざわざ手間を掛けて無言で彼らを荼毘に付した。老若男女で別はない。悪い意味で戒律騎士団は平等であった。お包みを剥がされた乳飲み子の遺体が焔に包まれた瞬間、ヴェルンの心にその焔が燃え移ったかのようだった。

 白鏡騎士団の武装神官が、古代真因聖文オルセメルで捧げる祈りが静寂の中を漂った。

 会敵し戒律騎士団とぶつかり合った戦場で、ヴェルンの青みを帯びた黒い眼は燃え盛り、内から湧き上がる闘争心が、鬼神の如き働きを見せた。

 ロ=イゼレは国土は広いが農産の収穫の少ない貧しい国である。宗教的熱狂が自らの正当性を強硬に主張していたが、騎士団でさえも、やっている事は野盗のそれと変わりない。異教徒の持ち物を収奪する事は彼らの施す功徳なのだという。ヴェルンは捉えた捕虜が悪びれもせず自慢げに話すのを聞いたことがあった。

 戒律騎士団の集団は防御に徹した大柄な重装甲を好む。ヴェルンは目に付いた片端から切ってかかり、段平の刃が通らぬと悟ると、即座に戦法を変えた。剣の柄頭を握ると面貌に狙いを定め、全力を込めた大振りで振り回し始めたのだ。なまくらとなった刃でも苛烈な打撃の勢いで相手に脳震盪を起こさせられる。

 ヴェルンは初陣で、持っていた剣が何度も折れ、その度に敵兵から奪い取ると、次々と血祭りに上げた。燃え盛る瞋恚の焔と同時に、冷え切った氷の判断力が次の獲物を探っていた。躊躇えば、あの乳飲み子と同じ運命が待っている。自らの膂力に任せて戒律騎士団をかたきとばかりに、次々と屠りさっていく。

 普段のむしろおっとりとしたヴェルンとは様相が一変していた。

「おおおっ!」

 ヴェルンは一匹の獣と化して吠えていた。

 揉み合い、ひしめき合う両国の騎士たちは次第にヴェルンを遠巻きにしつつあった。味方であっても、その勢いの凄まじさに息を呑む。ヴェルンはしっかりと味方を識別していたが、邪魔をすればどうなるか判らない。

 七ナブ(約二百十センチ)になろうかという、一際大きな騎士がヴェルンの眼の前に立ちはだかった。腕に覚えがあるのであろう。目立つヴェルンを仕留める気迫が漂う。

 騎士の振り上げる巨大な戦斧を、ヴェルンは辛うじて凌ぎ掻い潜ると一気に懐に入り込んで間合いを詰め、大振りしよろける敵騎士の隙を突いて、切っ先を喉元に真っ直ぐ突き立てた。敵騎士の筋肉が強張り剣が抜けぬと悟るやいなや、直ぐさま敵の指をへし折って握り締めた戦斧を奪い、次の敵へ次の敵へと遮二無二突進する。

 追い縋ったヴァルトが背後から組み付き、必死になって止めなければ、ヴェルンは潰走する戒律騎士団の残党を追って、緑の濃い針葉樹の森の奥へ奥へと踏み込んで行っただろう。かつて王宮で立ち尽くしていた少年の面影はどこにもなかった。

 そこで、ヴェルンは不思議なものを見た。

 十リ・ソール(約百十メートル)ほど先の切り立つ崖の上で、真昼の月を背にした巨大な玄い狼が、自分を鎮かに見守っていたのだ。ヴァルトに諌められ身動き出来ぬまま狂熱が去っていくヴェルンを、神獣はその神因に血塗られた様に碧い虹彩でただ見守った。

「あれは・・・」

「見るなヴェルン!あれは神獣クロウ=ルグルだ。虚無の獣だ。心を奪われるぞ!」

 ヴァルトはヴェルンの頭を抑え、視界を遮った。手遅れなのだが、それでも神獣には関わるべきではない。人は神獣には勝てない。ヴェルンは沸騰していた血が静かに冷えていくのを感じた。

 玄狼の目は満足気に細められると、やがて森の奥へと消えていった。

 あれは夢だったか。

 ヴェルンは今でも時折、三年も前の神獣クロウ=ルグルの目を思い出していた。

 あれは、

 その初陣以来、ヴェルンは戒律騎士団との戦場で剣を抜く事は少なくなり、重たい鉄杖を携えて立つようになる。


  

「ヴェルン、大きな戦となるやもしれぬ。真教徒共にお灸を据える事になるだろう。その時はお前も同行しろ」

「無論です。よろこんでお供します」

「ついては、お前に十日ほどやる。イリアとよしみを通じておけ。私もヤツにきっちり時間を取るよう忠告しておく」

 セイラスは笑いながらヴェルンの肩を叩いた。

「ご冗談を」

「ふふん。さて?・・・おお、これをテリオンに。国軍を招集を要請する」

 蜜蝋で封をされた文書が手渡された。

 久し振りに、王都でのんびり出来るかもしれない、とヴェルンは思った。


 

「しかし、また分厚くなったか?ヴェルン」

「それほどには・・・。養父ちち上はお変わりなく」

 ヴェルンは王都に戻ると、まず市内の養父の元に立ち寄った。任務の最中だが、特に急げとはセイラスには命じられていない。薬師オルヴェスは相変わらず忙しく立ち働いていた。二年前、妻のシーラは先立った。今ではラグナが家庭を切り盛りしている。

「ラグナも喜ぶぞ」

「それはどうかなぁ・・・」

 一年前に顔を出した時は、何故だかラグナを怒らせていたのだ。自分の何がラグナの癇に障ったのか、未だヴェルンには見当もつかない。

「ヴェルン!」

 背後から声を掛けられ、振り向くと店先には使いから帰ったラグナが荷物を取り落として、駆け込んできた。

「一年も顔を見せないで!心配させるな!」

 ラグナはヴェルンに飛びつき、抱き着いた。どうやら杞憂だったのかもしれない。

 シーラの亡き後、ラグナは急速に大人としての貫禄を身に付けつつあったが、ヴェルンを前にすると、やはり姉としての気持ちが戻ってくるようだった。

義姉ねえさん、変わりなかった?」

「相変わらずよ。父さんは商売が下手だし、私は誰も貰ってくれないわ」

「おいっ」

 オルヴェスは「お前が片っ端から断っているからだろう」という言葉を飲み込んだ。

 この二人は、もはや大きく身分が違う。

 血が異なる神人と庶民とでは行く末に明るい未来は無い。ラグナの気持ちを思うと、オルヴェスとしても、なかなか扱いに困る。この五年。年頃の男女となったヴェルンとラグナは、姉弟の家族的情愛から微妙に変化を遂げているのだが、それに気付くのは遅過ぎた。

「嘘だね。義姉ねえさんが袖にしてるんだろ?引く手数多に決まってる」

 ラグナは美しく育った。実際、市街を歩いていると何人もの男たちの目を引く。

「口が上手くなったものねヴェルン、聖騎士団では女を口説く教練もあるの?」

「まさか」

「今日はゆっくり出来る?晩御飯くらいは食べて行きなさいよ。急いで用意するわ。あんたの部屋はもう物置だけど」

 ラグナはころころと笑った。

「あー、それが申し訳ないけど、今日は王城に戻らなきゃならないんだ」

「なんだ」

「なかなか帰る機会もないから、顔だけでも見せとこうと思ってさ」

「仕事中ならこんな所で油売ってないで、とっとと

「おい、こんな所はないだろう」

 オルヴェスは口を挟んだ。さっきまで上機嫌だったラグナの雲行きが早くも怪しい。

「ごめんよ、義姉ねえさん、義父とうさん。また必ず寄るよ」

 ヴェルンはラグナの急変には気付かずに、そのまま出ていった。

 ヴェルンを見送ると、ラグナは先程落とした荷物を拾い集め始めた。

「元気そうだったな」

「そうね。ヴェルンが元気って事は、誰かを殺すのが上手くなったって事だわ」

「そんな言い方はよせ、ラグナ。ヴェルンは王都を守るのが仕事なんだ」

 荷物の埃を払いながら、ラグナは小さく「ごめん」と呟いた。

「おい、夕飯は?」

「面倒だから外で食べてきて」


 

 ヴェルンは馬を降りて門番に帰参を告げ、近習に馬を預けると、自室に戻り汗を拭い着替えた。鎧姿でも構わないのだが、多少は身綺麗にもしておきたい。

 背も髪も伸びたが、ここ二年ほどは、かなりの筋肉がついた。しかしそれでも、ヴェルンのしなやかな痩せ型の体型はあまり変わらずにいる。

 髪をまとめ、顔を洗うと国王直属軍務顧問の執務室へ向かった。聖騎士団総長からの報告文書を届けなければならない。

 また戦か、とヴェルンはとりとめもなく思った。

 実は戦うことは今でも怖い。

 戦場での自分と普段の自分とでは、人格が全く切り替わって見える程のヴェルンでも、いざという直前まで、心がざわつき恐ろしい。殺したくて殺すわけではない。打ち倒さねば死ぬのは自分なのだ。気持ちを切り替えられずに躊躇えば、骸になる現実があった。

 この終わりの見えない状況はいつまで続くのか。ロ=イゼレとの和平交渉は遅々として進まない。むしろ後退してさえいるかのようだ。

 国境警備に人員を割き続けるのは、例え豊かな穀倉地帯のエラフィア聖王国であっても年々維持が難しくなってきていると聞く。国境沿いの村はそれほど多くはないのだが、街道筋はその限りではない。

 村々で自警団も組織されているが、相手はそのつもりで武装する集団だ。抵抗も思うようにはいかない。 

「テリオン閣下、ヴェルンです」

「お入りを」

 扉を開くと、珍しくイリア王女がテリオン=エス=ヴァレン軍政庁筆頭文官にして国王直属軍務顧問と話し込んでいた様子だった。

「お帰り、婿殿」

 イリアが艶然と微笑む。

 八つ上のこの許婚いいなづけを、ヴェルンは少しだけ眩しく見た。ラグナとは別の意味で、イリアもまた、美しさに磨きが掛かっていて、今では凄みさえ漂わせている。流れるような黒髪を今日は下ろしていた。

 ヴェルンは予想外の邂逅に、一瞬何をしに来たのか忘れかけた。着替えておいて良かった、などと場違いな感想を抱いた。

「どうした?仕事を済ませてしまえ」

「・・・あぁ、はい。テリオン閣下、騎士団総長より、これを」

 ヴェルンはイリアに促され、セイラスからの書状をテリオンに手渡した。

 封密を解き、テリオンは無言で読み始める。普段から決して上機嫌とは言えぬ国王直属軍務顧問の顔が、ますます苦虫を噛みつぶしたような難しい顔になっていく。

 それに気付かぬはずは無いのだが、イリアは特に気にするでもなく、ヴェルンに話し掛けた。

「先程までは宰相のガノルもおった。テリオンと三人で何を話していたか想像はつくか?ヴェルン」

「さぁ・・・?政治まつりごとについては、俺はとんと不調法で」

「お前はいつまで私を放って置くつもりなのか、と責められていたぞ」

「ええっ?!俺がですか?!そんな無体な」

「やっぱり年増は嫌か?ヴェルン。陛下も酷なことをなさるな。私は孤立無援で、陛下に催促され、ガノルには嫌味を言われ、テリオンには牽制され、セリスには小言を言われで散々だ」

 イリアの矛先は四方八方を乱れ撃った。イリアの女官セリスは脇でそっぽを向いている。

「お戯れを」

 テリオンが割って入り、ヴェルンに問いかけた。

「セイラス様から言伝は?」

「特別にお言葉は賜っておりませんが、近く大規模侵攻を予測なさったご様子でした」

「うむ。これにはロ=イゼレの駐屯騎士団が国境砦に次々と兵員を増している事が克明に書かれている。時期は?」

「私は十日間の休暇を頂きました。騎士団と国軍の編成を考えると、近く布告され、遅くともひと月以内には進軍なさりたいお心算つもりかと」

「冬になる前に、ということになるか」

 今年は神威災害があった。

 ロ=イゼレのみならず、エラフィアにも、夏に石泣きが続いた後、血の雨が三日三晩降り続き、多くの土地が腐り果てたのだ。農産物と家畜が犠牲になり、エラフィアは国庫を解放せざるを得なかったほどだ。

 天命王ラオメス=イゼレ十三世は、これを異教徒の齎呪と糾弾したという。ロ=イゼレの隷民の中には木の根を食べて飢えを凌いだとまで、伝えられている。身勝手な言い草である。血の雨はエラフィアにも降り注ぎ、甚大な被害を受けた。

 両国での餓死者は数万を数えた。

 仮に白鏡騎士団と王国軍三万の内の一万を国境地帯に集結させ、対峙するロ=イゼレの戒律騎士団駐屯兵を一気に叩く算段だとしても果たして兵站が保つかどうか。かといってロ=イゼレの軍勢がエラフィアを蹂躙するのを、指を咥えて眺めている訳にはいかない。

「しかし彼奴らもついえは何処から・・・?ふむ、私は聖王と筆頭宰相に諮りますゆえ、失礼を」

 テリオンは慌ただしく執務室を出ていった。

 イリアとヴェルンは無言で見送る。

「ヴェルン、話がしたい。部屋を移ろうか。どうせテリオンは今日は戻るまいよ。お前は他に用事はあるか?」

「いえ、本日は先の文書を手渡す事で、休暇扱いとなります」

「では、着いて参れ」

 すっくと立つと、テリオンの執務室を後にした。しずしずと進む女官のサリスの先導で、二人はイリアの居室へと通された。

 小さな卓子の傍らの椅子を勧められ、腰を下ろす。セリスが飲み物の用意をした。

「イリア様も、お人が悪い」

「おや。突然何を?」

「先程の話ですよ。急に私が責められ驚きましたよ」

「本当の話ではないか。お前は私を放って軍務、軍務と王宮に寄り付きもしない有り様。気がつけばもう二十八の大年増となってしまった」

 イリアは明らかにヴェルンを玩弄からかっていた。何やかやと理由をつけて婚儀を先延ばしにしてきたのは、イリアの方である。

 ヴェルンはこの才女の歯に衣着せぬ物言いをいつしか好ましく思っていた。結婚の話は抜きにしても、相手にされていないのだろうな、と少しだけ歯痒くもあったのだ。訓練に励むのも、一つには早く一人前の騎士にならねば、と自ら鼓舞するところがあった。

「良い機会だ。本音で話すとしようか」

「本音ですか?怖いな。俺をこてんぱんにする気でしょう?」

「サリス、席を外せ。それとも王族の睦言を特等席で観覧するか?」

「お戯れを。では失礼致します」

 女官のサリスは一礼すると、部屋を出ていった。

「はじめは私もこの婚姻に乗り気だった。それは認めよう」

 ヴェルンは初めて会話を交わした日のことを思い出していた。

「私の王位継承権は四位だ。兄上、叔父上、叔父上の息子ガエル、そして私だ。しかしヴェルンが現れた事で、私が一歩飛び抜けた。子を為せばその子が次の王だ」

「そうなのですか?私には序列はよく判りかねますが」

「そうなのだ。神胤というのはそれほど強い。あの時、この手に未来が転がり落ちてきた、と確信したほどだ」

 エラフィア聖王国に女王が封じられた例が無いではない。しかし女王の治世はあまり長くは保たない。依然、女の地位は低く見積もられ、その裏では呆れるほどの政争が繰り広げられているのだ。それにそもそも正教会がなかなか女王擁立を認めようともしない。王統貴人であっても、それは変わりない。

「ヴェルンが現れるまでに、私は別の婚儀が進んでいた。知っているか?タレン公海連邦のエルファス=サイ王子だ。第八王子で、当時十歳。今ようやく十五だぞ」

 ハッ、とイリアは短く笑う。

「王統の婚姻は政治まつりごとなのさ。タレンと結びつけば、ますます交易は盛んになり、エラフィアの民はますます豊かになったはずだ。

「神胤もそれは大事だろう。既にセラドレル家の神因はかなり薄まっている。王家の血か、民の生活か。これはそういう取引なのだ。

「私にエラフィアでの役割が無いのなら、タレンでチヤホヤされるのも良かったかもしれぬ。私が政治まつりごとであれやこれやと口を出すのを、父王も兄上も、快くは思っていなかったはずだ。体よく南の国へ追い出す算段を進めていたのだからな」

「セイラス様にその様な謀り事があったとは思えませんが・・・」

「お前は、良い奴だヴェルン。真っ直ぐで、正直で。庶民の家で暮らしていたからだろう。オルヴェスの人柄が忍ばれるな・・・。だがなヴェルン、忠告しておこう。例え兄上でも、決して気を許すな。聖王に至っては言わずもがなだ。これが王家と言うものだ。発する言葉には必ず裏がある」

「・・・イリア様もですか?」

 イリアは会心の笑みを浮かべた。

「私こそが、この王家の闇の最たるものだヴェルン。私はな、」

 イリアは一旦、言葉を溜めて逡巡した。これから話すことは秘中の秘として、女官のセリス、王宮侍道長のミュリアにさえ、漏らしたことはない。

「このセルドラル家を、エラフィアを我が物にする心算つもりだ。お前はその鍵だヴェルン」

  

 


  III

『我は己を委ねよう

 汝らに祝福を

 記憶を

 名を

 徴を

 生命と運命を 

 鼎の底へ刃を突き立て

 漏れ出す世界を受け取るが良い』

 〜《オルト=エメル創世神話/ロ=イゼレに伝わる写本》より〜



 鬨の声が上がり、戦端の火蓋が切って落とされた。太鼓が打ち鳴らされる。

 ヴェルンは休暇を終えて隊に戻ると、軍装を整えて騎士団とともに街道を進み、国境地帯へと向かった。ヴェルンは通常は白鏡騎士団第四遊撃隊を指揮して戦場を縦横に駆け巡るのが常だったが、今回はセイラスの側に控えて騎乗している。騎士団総長から直々に命じられたのだ。そしてこの総長は、他者の後塵を拝し、親衛隊に囲まれ守備を固める後衛で大人しく眺める様な男ではない。

「切り込むぞ!ヴァルト!!ヴェルン!!」

 機を見るや敏。副官とヴェルンに声を掛けると、真っ直ぐに中央を突破していく。馬上から早くも数人の戒律騎士団の歩兵の頸や剣を握る腕を撥ねた。

 無論、ヴァルトも、ヴェルンも負けてはいない。ヴァルトは槍を、ヴェルンはいつもの革帯を巻いた鉄杖を用い、殺到する戒律騎士団の塊へと突進し、セイラスに続いて血路を開く。その後には白鏡騎士団の重装騎馬隊と衛士歩兵、国軍歩兵が続き、自然と縦針陣が形作られていく。ロ=イゼレの戒律騎士団は一般に練度が低い。それを鎧で守備を固めて数で押し切る、という戦法が常套手段となっていた。

 ゴリゴリと肉を削り骨を撃つ音が聞こえてくるような、文字通りの死闘である。ヴェルンはおよそ三クラン(約十キロ)の鉄杖を振り回して殴打していくが、剣以上の殺傷力がある。鎧越しにも骨のへし折れる感触が伝わってくる。ヴェルンはセイラスの左背後から先頭へと躍り出ると、次々と敵歩兵の顔面や頚筋を殴打し、戦闘の中心部へと分け入る。屍の山を乗り越えると、また次の塊へ。蹴散らすようにまた次の塊へ。

 ヴェルンは細身の体躯に似合わぬ驚くべき持久力で、血煙の中を掻き分け、数合打ち合い飛び散る火花に頬を火傷し、敵に囲まれた味方を救い、潰走する敵の背中を殴打し、また次へと飛燕のように跳躍していく。ヴェルンは常に戦闘の中心部を掻き回し続け、気付けば周りは敵兵の亡骸と、決死の思いで着いてきた第四遊撃隊の面々、血臭に塗れた生き残りの白鏡騎士団とエラフィア国軍ばかりが残されていた。

 戦闘は二時間余りを数えただろうか。

 体制を立て直す為にか、「退けっ!」「退がれっ!」と戒律騎士団内で号令が飛び始め、生き残りは死に物狂いで後退していく。すると憑き物が落ちたかのように俄に戦場に静けさが戻った。

「深追いするな!!」

「深追いは止めよ!!」

 セイラスの放ったエラフィア国軍の伝令の声だけがあちこちでこだまする。ヴェルンは疲れ切った乗馬を労いながら、周囲を見渡した。案外と近くにセイラスとヴァルトの騎乗姿を発見し、乗馬を操り近付く。二人は疲れからか、渋面で何事かを話していた。

「無事だったがヴェルン。余り心配を掛けさせるな。お前が突出していくのを追い掛けるのもひと苦労だぞ」

 最初に飛び出したのはセイラスの方である。ヴェルンにすれば、義兄の露払いに奮闘していただけだ。いつの間にかはぐれてしまったのが誤算ではあったが。

「総長、副長、お怪我はありませんでしたか?」

「無事だ。ヴァルトは手傷を負ったようだが」

 汗と返り血に塗れた副官は「大事有りませぬ」と、落ち着いた様子で健在ぶりを示した。セイラスは伝令を呼ぶ。

「生き残った諸将を集めよ。被害報告と戦果をまとめ、向後の検討を行う。ヴェルン、まだ動けるか?」

「軍馬は変えねばなりませんが、私はまだ余力があります」

「お前の第四遊撃隊連れて周囲を警戒しつつ掃討を。頼めるか?」

「承知いたしました」

「気を付けろよ」

 セイラスがヴェルンの肩を叩いた。

 兵站に寄って馬を変えると、配下の第四遊撃隊を引き連れ掃討を始めた。隠れた生き残りの戒律騎士団が何処に潜むか判らない。周囲を警戒しつつ、ヴェルンは王都を立つ前の出来事を思い出していた。


  

 ヴェルンは思わず周囲を見回し、小声になった。

「エラフィアを我が物に?本気ですか?」

「無論、本気だとも。お前の様に棒切れ振り回すだけが国取りではない。特に私のような女にとってはな」

「イリア様、俺は聖王国の盾のつもりで・・・」

「怒るな。他意はない。本音で話すと言っただろう?陛下や兄上の本心は知らぬが、聖騎士団や国軍のような軍備を整えるのは、国土を護る為ことくらい、お前だって知らぬはずはあるまい」

 実際、ロ=イゼレの様な大国はともかく、周辺の小国や貴人領の荘園などは、騎士団、国軍の武力を頼んで併呑する事もある。たまたまヴェルンがその任に就かなかっただけである。それはセイラスなりの気遣いかもしれなかった。まだ若いヴェルンが戦場に立つのに、綺麗事で済むならその方が良い、ということかもしれぬ。誉れ高き白鏡騎士団の負の側面である。

 国境線はしばしば変わる。どちらかに正義が有る、などとはヴェルンでさえも思ってはいなかった。これまで打ち倒した戒律騎士団の中にも、彼らなりの正義があったであろう。どちらがどうと言うことではない、ということはヴェルンにも判っていた国境を争うというのは、そういうことだ。

「タレンとの政略結婚も、まぁ意義はあるだろうが、私の本意ではない。ましてや第八王子だ。宮廷の隅っこで南国の果実を齧りながら、退屈とは何か思い知らされたて人生を終える事になるはずだった」

 イリアは自嘲気味に笑い、卓子に用意された茶菓を齧った。

「そこにお前が現れた」

 イリアは目を閉じ、間を置いた。珍しく、少し歯切れが悪い。

「私は女の身で産まれたことを呪いこそすれ、楽しんだ事は一度もない。政治まつりごとも嫌いではないが、本音は剣を取り、この手で国を切り取りたかった。だが生憎、剣の方はからっきしだ。見ろ、この莫迦げた細腕を」

 イリアは白く細い腕を掲げて見せた。ペンならともかく、剣を持つのは似合いそうにない。

「セラドレル家の血は本来武断派なのだ。陛下然り、兄上然り、この私もな。私にその能力が無いと認める事は出来なかった。兄上と私とでどうしてここまで差がつく?女だからという以外に何がある?誰も答えてはくれなんだ。お前はそんな私の前に現れた一本の剣だ。女であるからこそ、私だけが手に取ることのできる、な」

「私に出来る事など、大してありませんよ。イリア様の言葉じゃありませんが、棒切れ振り回すのが関の山です」

「おい、他意はないと言ったろう?皮肉を言うな」

 イリアは苦笑を漏らす。

 聖騎士団に入団してから、ヴェルンはひたすら剣技に打ち込んできた。ようやく騎士として一人前と評価されつつあるが、国などという物差しで人生を考えたことなど、絶無である。

 ただただ、己の腕一本を頼り、戦場を駆け抜けてきた。それがどんな意味を持つのか、いちいち考える事は判断を鈍らせる。ヘリド六世はヴェルンを神人としてエラフィアの未来を左右する存在と考えているようだが、有るのか無いのか判らない神因など、戦場を翔け抜ける時にあまり当てにしてはいられない。神因が飛んでくる矢が避けてくれる訳では無い。

 白鏡騎士団はエラフィア国家守備の要である、という思いがセラドレル王家を通り越し、養父母オルヴェスやラグナたちを守る事に繋がっている。ヴェルンの世界は広がり続けていたが、根っこにはオルヴェス家の温かな寝床が今でも存在していた。

 結局のところ、それが騎士ヴェルンの原動力であり続けた。

 「ここからが、本題だ」

 イリアにしては珍しく言い淀んだ。どう言えば良いか悩んでいる。あまりこの才女が見せることのない逡巡だった。

「・・・単刀直入に言おう。ヴェルン。私は男の身体というのを経験したことがない。率直に言えば怖かったのだ。婚儀を先延ばした本当の理由は、私の臆病さが故だ」

 突然の告白に、ヴェルンはどう答えれば良いのか判らなかった。王家諮問院副席として大いに国家を運営する女傑イリアの葛藤の正体が、閨の恐怖とは思いもよらなかった。

「この怖さは説明が難しい。単純に床入りも怖いし、踏み出すことで王統に強く食い込む事も怖い。他人の人生を左右する立場は経験しているが、それが自分の子供となると話が別だ。それに自分がヴェルンに見合うのか、というのは最大の問題でもある」

 イリアほ自分の手元を眺めた。整えられた爪には紅が差されていた。

 今朝、身を清めておいた。目立たぬ様に磨き上げて臨んだが、それでも幾許かの躊躇いがイリアの歯切れを悪くする。

「お前は、養家の義姉あねを憎からず思っていただろう?隠すな。調べさせた。私如きとラグナ殿と比べられるものではないと百も承知だ。それがまぁ、こんな年増女が相手ではお前も気の毒だが、そこは今宵限りと呑んで貰いたい。」

「あの、俺はイリア様に避けられているとばかり思っておりましたが・・・」

 ラグナの事を思うと、今でもヴェルンの胸は痛む事がある。しかし神人となり、白鏡騎士団の一員として、そしてエラフィアの王統を支える立場として生きる今では、もはや添い遂げぬ仲と心の中で決着をつけていた。

 それにイリアが婚儀を意図的に避けている以上、ヴェルンから催促するのも気が引けた。話が違うなどと言い立ててはイリアにも迷惑だろう。庶民の結婚とは訳が違うのだ。好悪の情で左右されるものではない。

 イリアに何か考えがあるのだろう、とそれ以上は考えなかった。どうあったって、いずれはイリアとは結ばれる事は、ヘリド聖王の命なのだ。

 それを望むか望まぬか。ヴェルンはそう問われれば、聖王の裁定とはいえ、勝手に婚約を決められて自分の意志は一切酌まれなかった経緯への反発も少しある。あの日から自分の自由意志は陰に陽にと蔑ろにされ続けている。

 無論、それなりに権能の一端を享受することもあるし、明日の食事に困ることはない。行動もそれほど制限される訳では無い。養家にも何度か顔を出している。

 先延ばしにされるのなら、それもよし、と軍務や訓練に集中できた。元は庶民の育ちである。王宮内での典礼やしゃちほこ張った生活は、正直息が詰まる。騎士として己と向き合う事に集中していれば、それなりの王統としての義務は果たしているだろう、と考えた。

 革鎧を身に付けて戦場を駆け回る方が、まだしも本来の自分の姿に近く思えた。少なくとも典礼服に身を包み、見知らぬ貴人の宴などで居場所を探すよりもまだ良い。神人などというのは体の良い見世物でしかないのだ。誰もが遠巻きにし、本気で社交する訳では無い。

 騎士としての使命や、戦闘で人を傷付け、多くは死なせなければならない事は、ヴェルンの精神を良くも悪くも鍛え上げてきた。それに慣れるという事はないだろうが、与えられた仕事だと割り切った。

 戦場の獣騎士は、どこか醒めた眼で自分の運命を見下ろしていた。かつての薬師の徒弟が、今では敵兵の命を次々に刈り取る騎士である。僅か五年で人はこうも変わるものか、と自嘲するのも無理からぬことだろう。

 五年の歳月は刮目するほどヴェルンを成長させた。

 

 

「ヴェルン、お前の胤を貰い受けたい。好いてくれなどと贅沢は言わぬ。私はお前との子が必要なのだ」

 姫様がとんでもないことを言い出した。

「打算的な女と嫌われても構わぬ。軽蔑も喜んて受け入れよう。政略の道具として使うな、と断られればそれまでだが・・・。仮に妻としての献身をお前が求めるなら、私はお前の最良の伴侶となることを、オルト=エメルに誓う」

 ヴェルンは自分の価値がイリアの思いに見合うのだろうか、と不思議になる。神胤という神の気紛れを過大に評価していないだろうか 

「此度の遠征が済んでヴェルンが帰参したら、婚礼を執り行いたい。以後、表面だけ我がつまとして振る舞ってくれるなら、私はお前のする事に一切干渉はしない。何なら後宮を構えるがいい。側女そばめを持つのも厭わぬ。私がお前の妻として図々しく振る舞うのは、今宵限りだ」

 それは嫌だな、と素直にヴェルンは思った。 

 

「発する言葉に必ず裏がある」

 とイリアは冷笑して見せたが、あの夜のイリアにに二心があるとはヴェルンには思えなかった。

 その様に思うこともまたイリアの掌の上なのかも知れぬ。とはいえそれでイリアが得するかどうか、と考えると随分と破滅的な戦略ではないか。

 ヴェルンは判断に迷ったが、この野心家の才女がこれから味方でいてくれるというのは、今後の王室で生きていく上ではこの上なく心強い。

 つまりは、ヴェルンも決して清廉潔白とは言い難い。もともとは天涯孤独の身なのだ。これからもエラフィアで、王室で生きていくつもりなら、これほど心強い後ろ盾があろうか。

 むしろ、これがイリア王女の赤心であるなら、打算的とは言え誠意で応えるべきかもしれぬ。

 


「ヴェルン様、あれを!」

 物思いに沈みかけたヴェルンの意識を副官のゼイランが引き戻した。

 その指差す二十リ・ソール(約二百二十メートル)程先に、血塗られてなおギラギラと白銀の如く輝く重装の戒律騎士団数人に引き摺られる、手負いらしき白鏡騎士団員の革鎧姿が確認出来る。ぐったりとして、されるがままだがかといって放って置く訳にはいかない。

「行くぞ!ゼイラン!ヴェズ、続け!」

 ヴェルンは遊撃隊医式士の返事を待たず、一気駆に戒律騎士団の一軍の下へと飛び出した。

 あと一歩という、その瞬間。

 ヴェルンの乗馬が前脚を折り、崩れ落ちた。正確に言えば、馬は足を折ったのではなく、周到に用意された落とし穴に脚を取られたのだった。ヴェルンは駆け抜けた勢いそのまま馬上から振り落とされ、例の集団の眼の前に落馬した。部下たちも次々と落馬していく。こんな単純な手に引っかかるとは。圧倒的な戦勝に油断していたのかもしれない。

 こんなところに落とし穴?

 捕らえられ引き摺られていたのは、白鏡騎士団員の死体であった。ヴェルンは罠に嵌められたのを悟り、殺到する伏兵を相手に鉄杖を構えた。

「捕らえよ!死んでも奴の動きを止めろ!!」

「殺すでないぞ!ヤツは神胤だ!!」

 ヴェルンを神胤と承知している。

 しかし殺す気もなくヴェルンに立ちはだかろうというのだから、戒律騎士団も甘い。落馬の衝撃を物ともせず、ヴェルンは落馬でも手放さなかった鉄杖を振るい、次々と駆け寄る戒律騎士団を手酷く打ち据えた。

 しかしいくら手練のヴェルンであっても、数十を超える人数相手では多勢に無勢である事は明白である。

 それが作戦でもあったのであろう。戒律騎士団は後から後からぐいぐいと押し寄せて包囲網を狭め、鉄杖を振り回す隙間がなくなってきた。活路を見出そうと振り返ったところを足を絡め取られ、雪崩を打って押し寄せる重装備の鉄鎧の津波に翻弄され、散々殴打され圧し潰された。一度、ヴェルンは咆哮を上げて渾身の力を込めて上体を起こしかけたが、頚筋に重たい一撃を喰らい、そのまま意識は途切れた。


 

 凶報は早馬で王都に駆け込んだ。

「ヴェルン様が行き方知れず、恐らくはロ=イゼレの騎士団に囚われたもの、と。生死は不明」

 イリアは、それを何時にも増して無表情に、しかし顔色だけは蒼白となって聞いた。ヘリド・ヴァル=セラドレル六世聖王は、動揺のあまり、思わず無言で立ち上がった。

 やがてイリアが小さく呟いた。

「気を付けろと、言ったではないか・・・」


 

「それにしても、何故今日なのです?」

 幾度か交わり、婚約者たちの夜伽話になった。

「アストリッドに聞いた」

 宮廷神因式理師のアストリッド・ネル=シエレのことである。

「何かの拍子にアストリッドが、お前が王都に戻るだろう、それも近々に、と。お前の星は読み易いらしいぞヴェルン。私はお前が戻のるなら、軍務顧問のテリオンの所に寄るだろう、と踏んでいたのさ。用もないのにウロウロされて、テリオンも迷惑しただろうな」

 くすり、とイリアは笑み溢れた。

 正教会の神官とは異なり、神因式理師はオルト=エメルの言葉ばかりではなく、星を読み、独自の魔道を組み立てる。古代神因聖文セメラオルで呪いを操るものもいる。

「それを信じたのですか?」

「はっ!莫迦な。式理士の与太など。私が信じたのは兄上の采配だよ」

「総長の?どういうことでしょうか」

「アストリッドは兄上と親しくしておる。お前は知らぬだろうが、兄上は案外慎重で、いざとなるとお心をなかなか定められぬ方だ。だから式理士などを頼みにする。アストリッドを通じて私にお前が帰ることを知らせたのだろう」

 イリアはベッドから降りると、裸のままで水差しから盃二杯に水を注いでヴェルンに差し出し、ヴェルンの隣に腰を下ろした。

 ヴェルンは礼を言うと、ごくりと喉を潤す。

「肝心なのは、アストリッドを通じて、という点だ。恐らくは兄上は何事か決心を固めた。私はそう見ている」

 イリアは杯に注がれた透明な水をただ眺めている。

「忠告しておくぞヴェルン。兄上には恩義を感じるのは勝手だが、決して心を許すな。お前は兄上の王位継承権を揺るがす存在なのだ。既にお前は武功を立てすぎている」

「そんなことは・・・」

 普段のセイラスを知るヴェルンには俄に信じ難い話だ。勇猛果敢に先頭を切って敵陣営へと乗り込む騎士団総長の姿と謀とは掛け離れて聞こえる。

 武功といっても、それは騎士団としての働きに過ぎない。少なくともヴェルン本人はそう思っている。早く一人前に、とは思ったがセイラスに隔意がある訳ではなかった。

「何事か謀っている筈だ。アストリッドを通じ私にお前が帰る事を知らせた真意は私にも判らぬ。判らぬが、何事かが進行している気配は感じる。それが兄上のものか、アストリッドのものか、陛下のものか、ロ=イゼレのものかは知らぬがな。だから私は我が身を捧げてでも、お前を味方にする賭けに出た」

「イリアとよしみを通じておけ」

 という騎士団総長の言葉がヴェルンの脳裏に蘇った。




 

 

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