婚約破棄はウィンウィンに――末永く、お幸せに

如月 安

婚約破棄はウィンウィンに――末永く、お幸せに

「ルクレツィア・ゴールドウィン侯爵令嬢! お前との婚約を破棄する!」


 城の大広間に、皇太子殿下の声が鋭く響き渡ります。

 周囲の皆様からわたくしに注がれる、好奇に満ちた眼差し。

 突き刺さるようなそれに、肌がひりつくようです。わたくしの胸は、早鐘を打ちます。


「お前が侯爵令嬢であることを笠に着て、私の愛するソフィアを苛めていたことはわかっている!」


 皇太子殿下に縋りつくように豊満な体を寄せているのは、ソフィア・バークレイ男爵令嬢です。

 いくらなんでも、結婚前の男女が公衆の面前で身体を寄せすぎではないかしら。

 わたくしはこんな時だというのに、つい心配になります。


 実際、周りの貴婦人達がソフィア様に向かって眉をひそめています。

 こんなことでは、お二人の仲が裂かれかねません。


「皇太子殿下! ルクレツィア様を責めないで! ルクレツィア様は、わたしの家柄が気に入らなかっただけなんです! わたしが下流貴族だから、殿下に相応しくないって仰っただけですわ!」 


 わたくしの記憶が確かならば、わたくしはソフィア様と口をきいたことなどありません。

 ソフィア様が、甘ったるく舌っ足らずな声で続けます。


「わたしの貴族令嬢としての振る舞いがなってないばかりに、つい、わたしを突き飛ばしてしまったんてすよね! だから、悪いのはわたしなんです!」

「ああ、ソフィア。君はなんて優しいんだ」


 皇太子殿下は愛おしげにソフィア様をかき抱かれます。

 ですが、わたくしには身に覚えのないことでございます。


 殿下の腕の中にいるソフィア様が、わたくしを見下ろし勝ち誇ったように口端を吊り上げました。

 ふん、と傍らの貴婦人が興ざめしたように鼻白んだのが分かります。

 いけませんよ、ソフィア様。そのお顔はまだ早いです。もっと周囲の視線に気を配らなければ、いつか足元を掬われます。


 まあもっとも、わたくしにはどうでも良いことですが。


「かしこまりました。皇太子殿下」


 わたくしはそんな二人に向かってカーテシーをしてみせます。

 どうでしょうか。侯爵令嬢らしく、威厳を保てていたら良いのですが。ドレスをつまむ指が微かに震えているのは、婚約破棄されたショックのせいだと思われたかもしれません。

 貴婦人だけでなく周りの紳士方も、わたくしに気の毒そうな、哀れむような視線を向けてくださいます。


 しかし、わたくしを擁護してくださる方はこの場にはおられないようです。


 無理もありません。


「殿下の婚約者としてのお役目を全うできず、申し訳ありません。すべて、わたくしの不徳の致すところでございます」


 深く頭を下げると、皇太子殿下は少し怯まれたように瞬かれました。もともと、性根の悪い方ではないのでしょう。


「……ルクレツィア、私が君と婚約を結ん時、僕らは互いに十歳だった。その頃は、君のことが大好きだった。けれど……」


 気まずそうに、殿下は続けます。


「君は外交官であるゴールドウィン侯爵と共に外国に赴き、六年ぶりに帰って来た。つい半年前のことだ……手紙でしょっちゅう遣り取りはしていたけれど、帰って来た君からは、私の好きだった頃の天真爛漫な面影が消え失せていた……」


 そりゃそうでしょうよ、と近くに居る貴婦人が扇の内側で呆れたように呟かれました。

 あくまでも一般論ではございますが、六年も経てば人は変わるものです。

 ましてや、十歳から十六歳ですから、別人のようになっていて何ら不思議ではありません。


「君のことは、不憫に思わないでもない……しかし、私は自分の心に嘘をつくことはできない。私が愛しているのは、ソフィアなんだ!」

「殿下! わたしも愛していますわ!」


 確かに、天真爛漫さでソフィア様の右に出るものはいないでしょう。

 大広間に居並ぶ貴族の皆様が、わたくしに同情的な視線を送ってくださいます。

 しかし、助け舟を出してくださる方は居られません。無理もないことです。


 帰国の途中、わたくしたちの乗る船は事故に遭いました。

 右舷に高波を被ったかと思うと、あっという間に船は傾きました。次に打ち付けた波に呑まれた船が粉々に砕け散るまで、すべてがほんの一瞬の出来事でした。


 わたくしは海に投げ出され、流れてきた板切れに必死で縋り付きました。


 生きたい――ただその一心でした。


 乗っていた船のすぐ後方に、たまたま紅茶運搬船ティークリッパーが居てくれなかったら、わたくしは船と一緒に海の藻屑となっていたでしょう。


 わたくしは、生き延びました。

 けれど、船に乗っていた者の中で、助けられたのはわたくしだけでした。あまりにも波が高すぎたのです。


 ルクレツィアに兄弟はおらず、ゴールドウィン侯爵家は遠縁の叔父のものとなりました。


 わたくしは、天涯孤独の身の上となったのです。


 つまり――ルクレツィア・ゴールドウィンには、もう何の後ろ盾もありません。


 ですから、居並ぶ貴族の皆様はわたくしに同情的なようですが、味方になってはくださいません。世間様とはそういうもの。すべて、無理なきことでございます。


「殿下、わたくしは王都を離れたく存じます。今後は、誰も知り合いのいない遠い場所で、慎ましく余生を送る所存です。もう二度と、お目にかかることはないでしょう」


 後ろ盾を失い、婚約破棄され、傷物となった令嬢の行く末としては、妥当なところでしょう。

 わたくしの殊勝な態度に、殿下の瞳は揺らぎます。


「……すまない。ルクレツィア、君が今後、困窮することがないよう、精一杯の誠意を尽くさせてもらう」


 その言葉に、わたくしは内心でほっと胸をなで下ろします。要は、金銭的な援助を頂けるということでしょう。最高の申し出です。


「殿下。これまでありがとうございました。ルクレツィアは、お二人の末永い幸せを遠く離れた場所から、ずっとずっと、お祈りしております」


 もう一度カーテシーをして、わたくしは王宮を後にします。


 もう、後ろは振り返りません。


 二度とここに戻って来ることはないでしょう。

 内心で、祈らずにはおられません。



 ――ああ、神様、ありがとうございます、と。



 ドレスのスカートに手をやり、ポケットの中の小瓶にそっと触れます。これを使う必要は無さそうです。本当に幸運でした。



 船が転覆したとき、わたくしたちはみんな海に投げ出されました。だんな様と奥様は、あっという間に姿が見えなくなりました。


 けれど、美しく優しく、成長されても天真爛漫さを失われなかったお嬢様は、わたくしのすぐ側に居られました。

 わたくしが必死の思いで掴んだ板に、華奢な指先を伸ばしてこられました。


 あの板が、小さすぎたのがいけないのです。到底、二人を支えることはできませんでした。


 手を払い除けた時、お嬢様がわたくしに向けられた驚愕の表情をはっきりと思い出せます。

「なぜ」――そう仰ったかも知れません。


 なぜ? ――決まっています。

 わたくしはただ、生きたかったのです。

 皇太子殿下の婚約者である侯爵令嬢とただのメイド。

 命の重さに、どれほどの違いがあるでしょうか?

 聖書の通り、神が与えたもうた命が平等ならば、あの板は先に掴んだわたくしのものです。

 どのみち、お嬢様の細腕では紅茶運搬船ティークリッパーに助け上げられるまであの板を掴んでおられなかったでしょう。たいした荒波でしたから。


 移動のたびに大きなスーツケースを抱え、日頃から重たい洗濯籠を運ぶわたくしの腕でなければ、どのみち助からなかった。


 ああまったく、手を払い除けたところを、紅茶運搬船ティークリッパーの船員に見られてさえいなければ。


 板切れに掴まっている間に、水を吸って重くなったお仕着せは脱ぎ捨てておりました。

 シュミーズ姿で引き上げられたわたくしに、紅茶運搬船ティークリッパーの乗組員は名を尋ねました。


 もし、メイドが侯爵令嬢の手を払い除けて、自分だけがのうのうと生き残ったと知られたら。

 わたくしは絞首刑になってしまうかも知れません。


 仕方がありません。


 お嬢様とわたくしは、同い歳です。幸いにも、髪の色も瞳の色も似ていました。紅茶運搬船ティークリッパーの武骨な乗組員などに、遠目で良く似た背格好の若い娘の区別など、つくわけがありません。


 わたくしは名乗りました。


「わたくしは、ルクレツィア・ゴールドウィンです」と。

 



 皇太子殿下の存在は危険でした。


 六年ぶりの帰国。

 わたくしの顔を見分けられた者はいませんでしたが、皇太子殿下だけは違和感を覚えられたようです。

 なにかにつけ、「お前は変わった」と仰いました。

 愛の力と申しましょうか、婚約者というものは、流石でございますね。あの方はいずれ、良き王になられるでしょう。なかなか鋭い観察眼をお持ちでいらっしゃいますから。


 

 わたくしには、恐れていたことがございました。


『手紙でしょっちゅう遣り取りはしていたけれど――』と殿下は仰いました。

 そう、皇太子殿下は本物のルクレツィア・ゴールドウィンの手紙をお持ちです。


 万一、結婚することにでもなれば、署名が必要です。

 筆跡によって、わたくしの嘘は立ちどころに暴かれていたでしょう。


 本当に、危ないところでした。


 もしも今日、婚約破棄されなかったら、わたくしはポケットの中の小瓶の中身を皇太子殿下のグラスに注ぐはずでした。

 ほんの数滴で、殿下はそれほど苦しまれることもなく、ルクレツィア様と再会できたことでしょう。



 なぜ? ――決まっています。わたくしはただ、生きたいのです。

 

 昆虫だって、鳥だって、動物だって、あらゆる生物は生きるために抗い、戦うではないですか。わたくしだって、同じことです。



「ソフィア様に、救われましたね」


 王宮を背に、わたくしはそっと呟きます。

 ひとひらの風が、わたくしの頬に優しく触れます。

 ああ、生きることは、なんて素晴らしいのでしょう。


 足取り軽く、歌うように、わたくしは口ずさみます。



「末永く、お幸せに――」


 

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