四年目、透明な命のつかみ方

春の終わり、理科の授業で「命」について学ぶことになった。


 先生が教室に入ってきて、水槽の中のメダカを指差した。


「これが今日からみんなで育てる命です」


 みんなはわっと歓声を上げたけど、僕はその後ろで黙っていた。隣の席の拓海が、「エサあげるの俺な!」と張り切っていた。


 クラスの空気が明るくなるのは久しぶりだった。去年のことが、まるでなかったみたいに。


 優里のことを覚えているのは、たぶん僕だけだ。


***


「命って、どこから命なんだろうね」


 そんなことを聞いたのは、転校生の紗月だった。男子と遊ぶことも多くて、でもどこか線を引いたように近づかない女の子。


 紗月がそうつぶやいたのは、教室で育てていたアサガオの芽が折れてしまったときだった。


「まだ生きてるのかな? かわいそう」


 彼女はしゃがんで、折れた双葉を指でなぞった。優しく触れているのに、どこか遠くのものを見るような目をしていた。


「生きてるって、動いてるってことかな」


 僕がそう言うと、紗月は首をかしげた。


「でもさ。クラスの中で無視されてる子がいたら、その子は“存在してる”って思われてるのかな」


 その言葉に、去年のことが一気にぶわっと胸に戻ってきた。


 僕は、答えられなかった。


***


 ある日、メダカの1匹が死んだ。


 浮かんで、白くなって、目を閉じていた。


「なんで死んだの?」


 「誰かエサやりすぎたんじゃね?」


 「水汚れてたから?」


 責任をなすりつけ合う声が、だんだん尖っていく。担任の先生が「そういうこともある」と言ってなだめたけど、それで納得する子はいなかった。


 その日の放課後、水槽の前に紗月がいた。


「この子の名前、知ってた?」


 彼女はそう言って、水に浮かぶ小さな魚に視線を落とした。


「……知らない」


「だよね。でも、いなくなってはじめて、ちゃんと“いた”ってわかるんだよ」


 そう言って紗月は、水槽にそっと手を当てた。泣いているわけじゃないのに、その背中がやけに小さく見えた。


 僕も隣に立って、メダカを見た。


 それは、本当に小さくて、透明な命だった。


***


 クラスでまた、目立たない子が無視され始めた。


 きっかけは、授業中の発言がちょっと変だったとか、給食の食べ方が汚いとか、そんな些細なことだった。


 拓海が「キモいよな」と笑って、みんなも釣られて笑った。先生は注意したけど、雰囲気はすでにできていた。


 僕は、その子の名前を思い出せなかった。たぶん、1学期の自己紹介以来、ちゃんと話してなかったから。


 次の日、紗月がその子の隣で給食を食べていた。


 誰かがヒソヒソと笑っていた。でも紗月は何も言わず、普通にスプーンを口に運んでいた。


 帰り道、紗月が僕に言った。


「見て見ぬふりって、慣れると気持ちいいよね」


 それは、責めるでもなく、ただの感想のようだった。


 だけど、グサッと刺さった。


***


 夏休み前、クラスの空気がまた少しだけ明るくなった。いじめも、消えたわけじゃないけど、表に出なくなった。


 ある日、紗月が突然、学校を休んだ。


 次の日も、次の日も。


 「夏風邪かな」なんて言ってたけど、何かがおかしかった。


 心配になって家に電話をかけたら、転校したと聞かされた。


 事情は教えてくれなかった。


 教室の机が、ぽっかり空いていた。


***


 夏休み明けの教室で、新しい鉢植えが並べられていた。


「紗月さんが置いていったアサガオです」


 先生が言った。


 僕はその中のひとつ、最初に彼女が折ってしまった芽が、ちゃんと咲いているのを見つけた。


 あれから、水をあげていたのは、たぶん誰かが交代でやっていたのだろう。


 僕は、それを見て涙が出そうになった。


 あの命も、確かにここにいたんだ。


 忘れても、思い出しても。


 僕たちはこれから、どれだけの命を見て、見過ごして、消していくんだろう。


 透明だったものを、どうやって掴んで、忘れずにいられるのか。


 僕はまだ、答えを持っていない。

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