さよならを知らない三年目の午後

 教室には、音がなかった。


 チャイムが鳴り終わっても、誰も話さない。先生が入ってきて出席をとる間、机と椅子が擦れる音と、鉛筆が転がる音だけが小さく響いた。


 その空気の重さに、僕はもう慣れてしまっていた。


 春のはじめ。3年1組に転校生がやってきた。


「優里です。よろしくお願いします」


 小さな声でそう言った少女は、どこか透明な雰囲気をまとっていた。きれいでも可愛いでもない。目立たない子だった。でも、なぜか目が離せなかった。


「優里さんは、そこの空いてる席に」


 担任の先生が、僕の隣の席を指さした。優里はうなずいて、ランドセルを揺らしながら歩いてきた。


「……よろしく」


 小さく聞こえたその声に、僕は何と返していいか分からず、ただ会釈をした。


***


 優里は、休み時間も給食の時間も、ほとんど話さなかった。


 クラスの誰かが話しかけても、返事は短くて、笑顔も見せない。数日も経てば、誰も彼女に話しかけなくなった。


「なんか、暗いよね」「あの子、怖くない?」


 小さな声が、教室の端でこぼれていく。僕は聞こえないふりをして、ノートに目を落とした。


 ある日、優里の机にだけ、給食の配膳がされていなかった。


 誰かが忘れたのではなく、わざとだと分かった。


 それでも先生は、気づかなかった。


 僕は、気づいていた。だけど、何も言わなかった。先生に伝えれば、また空気がもっと悪くなる気がしたから。


「……これ、あげる」


 僕は自分のパンを、優里の机にそっと置いた。彼女は驚いたように僕を見た後、無言でパンを受け取った。


 ありがとう、とも言わなかった。でも、それでよかった。


***


 ある日の放課後、教室に忘れ物を取りに戻ると、誰もいないはずの教室に優里がいた。


 黒板に、小さな字で何かを書いている。


「……なにしてるの?」


 声をかけると、彼女は一瞬びくっとした。


「……ここに、鍵をかけたい」


 彼女のその言葉が、妙に印象に残った。


 誰かが入ってこられないように。誰かが見ないように。ここが、心の中と似ている気がした。


「でも、鍵って、自分で開け閉めできるんだよ」


 僕がそう言うと、彼女は少しだけ、笑ったような気がした。


***


 日が経つにつれて、優里はますます孤立していった。


 消しゴムがなくなった、ノートに落書きされた、机の中が濡れていた——そんなことが何度もあった。でも先生は気づかず、優里も何も言わなかった。


 僕は見て見ぬふりをするのが、どんどん上手になっていった。


「大輝は、ずるいね」


 ある日、優里に言われた。


 心臓が、少しだけ痛んだ。


「ごめん……」


「いいの。誰かに優しくしてもらうの、久しぶりだったから」


 優里はそれだけ言って、机の上に消しゴムを置いた。


 僕が落としたやつだった。


***


 学期末、先生が言った。


「優里さん、また転校することになりました」


 教室の空気は、微妙に揺れた。でも誰も、声を上げることはなかった。


 最後の日、帰り道に優里が言った。


「ありがとう、大輝。君はずっと、やさしかった」


 僕はそのとき、何も言えなかった。ただ、彼女のランドセルが揺れるのを黙って見ていた。


 僕の手には、まだ鍵が残っている気がしていた。


 開けてしまえば、きっと壊れる。


 閉めたままなら、誰にもばれない。


 あの教室に、僕たちは鍵をかけたまま、大人になっていく。

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