第8話 ウイグルの誇り



 部屋の扉がゆっくりと開いた。


 薄闇に小柄な人影が滑りこんでくる。


「あたしです」


 エテの声だ。

 俺は口をつぐんだまま、上半身をベッドから起こした。


「川瀬さん、お願いがあります」


「なんだ?」


「弟を、ヤズを一緒に連れていってください。夜が明けるとここは危険です」


「なにを突然……」


 エテは俺のベッドに滑りこんできた。

 身体を密着させて初めて、エテが薄い夜着だけしか着ていないことに気がつく。


「お願いします。あの子は戦いよりも勉学のほうが向いています。出来れば東部の学校に行かせてください。無理を承知で言っているんです、だから」


 エテは夜着を脱ぎ捨てた。

 小ぶりの乳房を俺の胸に押しつける。


「なぜ、そんなに必死になる」


 俺はエテの頬に手のひらを当てた。


「それは……言えません。作戦の一部なんです」

「じゃあ、駄目だ」


 無理矢理、身体を引きはがす。

 エテはすがりつくように腕を絡ませてきた。


「お願い! あたしが死んだらヤズは孤児になってしまいます。だから」

「おまえは……」


 エテの目をまっすぐに見つめなおした。

 かすかに顔立ちが見て取れる明るさだ。真剣な表情をしていた。


 伊達や酔狂で言っているようには思えない。俺はエテの頭を胸に押しつけ、むりやり目を閉じさせた。


 甘いな……。

 俺は思った。


 憐愍にすぎないとわかっていても、エテを拒絶することが出来ない。


 エテはゲリラの戦士だ。

 もしかしたら俺を篭絡させて、作戦を有利に展開させるための手管かもしれない。


 ゲリラだったら、そのくらいはやる。


 だが俺は、エテを抱いた。

 約束手形をきるつもりで抱いた。


 この子にだったら騙されてもいい。


 それに……。

 ヤズを連れていくのに反対する理由もない。


 エテは真摯に奉仕してくれた。

 自分の誠実さをそそぎこむように、みずから燃えあがり、全霊を込めて抱かれた。


 可愛い女だった。



       ※※※



 郵便局裏の路地に集合したのは、全部で九名だった。


 脱出させるべき要人が三名。

 ヤズとエテ、俺と大井、残るは軽トラック二台の運転手。


 路地の暗がりにたむろする俺たちの前で、未明の街は静まりかえっている。

 それは、住民が半減しているせいだけじゃない。


 敵の侵入とともに街は戦場と化した。

 それまで活気に満ちあふれていた人々の生活の場は、死神の跳梁する魂刈りの場へと変貌したのだ。


「たったこれだけか!」


 地区委員長が不満を漏らした。


「大勢だから安心だとは考えないほうがいい。目立つだけで危険は増すばかりだ」


「だが軍曹。軍人は君ら二人だけじゃないか。あれだけ軍に協力したのに、戦車の一台も寄越さないなんて」


 重ねるように政府官僚のインテリが神経質そうに叫ぶ。


「いいかげんにしろ。でかい声を出せば敵に感づかれる」


 もう、うんざりだ。

 とんだ貧乏くじを引いたもんだ。


 脱出行で一番まずいのは統率が取れないことなのに、このチームときたら最悪だった。


 命令するのに慣れている民間人ほど、命令されるのには不慣れだ。

 不満を口にすれば、かならず事態は改善されると信じている。


 俺は二人をにらみながら、残る工作員風の男に、


「なにか言っておくことはないか?」


 と聞いた。


 男はエテに向かって小さくうなずき、エテもまたうなずきかえす。


 どうやら俺の知らないことを二人は知っているらしい。


 だが俺は意識的に無視した。

 なんでも知っていなければ満足できないほど子供じゃない。


「さあ、出発しましょう。夜が明けたら脱出そのものが不可能になるわ」


 エテがなんの感情もこもっていない口ぶりで告げる。


 結局、最後まで視線を合わせてはくれなかった。

 ついさっきまで、腕の中で小さな喜悦の叫びを上げていたのに。


 俺の「置いてくぞ」というセリフに、不満を漏らしていた要人たちもしぶしぶ歩き始める。


 運転手の二人と大井は、別のルートをたどってオアシスホテルに向かった。

 騒ぎが起こるのと同時に、近くに停めてある軽トラックを確保するためだ。


 日干レンガの壁に囲まれた擦り切れたタイル張りの路地裏を、ずっと前方の通りから漏れる明かりを頼りに歩きつづける。


 エテとヤズは、目隠ししても正確に歩けると言った。


 彼らはここで生まれ、ここで育ったのだ。

 先頭にエテとヤズ、真ん中に要人を挟み最後尾に俺がついた。


 無能な民間人に、口が酸っぱくなるほど足音を立てるなと言いつけ、じれったくなるほどの速度で街のメインストリート……勝利路へと向かっていく。


 チッ!


 ちいさく舌打ちの合図が響いた。

 勝利路にぶつかる路地の曲がり角で足をとめる。


 メインストリートには、乏しいながらも街灯が取りつけられている。

 そのため、ぼんやりとした薄明かりが路地裏にもさし込んでいた。


「予想通り検問が敷かれています。今から二分後に作戦を実行します」


 エテのささやきがゆっくりと流れる。


 それぞれが腕時計の秒針をあわせた。

 そのまま彫像のように凍りつく。


 時間はじれったくなるほどゆっくりと流れた。


 俺は自分の首筋に指をあて、心臓の鼓動を数える。

 規定値より少し早い。俺は苦笑いをした。


 エテがヤズの背中をポンと叩いた。


 何が起こるのか……。

 これから先の作戦は、なにも聞かされていない。


 だが、まさかヤズを使うとは思っていなかった。


 ヤズは弾かれたように勝利路へと飛びだしていく。


 すぐに激しい誰何がかけられた。


「とまれ!」


 俺の心臓が一段と早く脈打った。


 間髪をいれず、ヤズのまくしたてるようなウイグル語が響きわたる。

 あまりに早くて、俺には何を言っているのか理解できなかった。


「何といっている」


 エテに聞いた。


「バザールの方で騒ぎが持ちあがっている。軍隊に賛成する人と反対する人が争っていて、反対する人は爆弾を爆発させると言っている。すでに爆弾は仕掛けられていて、すぐにでも……ある人物の手によって爆発されようとしている」


「ある人物?」


 エテが口ごもった部分を、俺は聞き返した。


「……ヤズには、あたしが爆破犯人だと言うように命じてあるわ」


「酷いことを」


 エテは唇を噛んで、俺の非難を受け止めた。


 彼らにとっては、こんなことは何でもないのかも知れない。

 しかし、さすがに部外者の俺には聞かせたくなかったのだろう。


 検問の兵士との会話は、まだ続いていた。


 ヤズの決死の通報も、まだ兵士たちを本気にはさせていない。

 まずいことに、ヤズに詰所まで来るように言い始めた。


「時間よ」


 エテがポツリとつぶやいた。


 背後で轟音が鳴りひびく。

 影ができるほどに盛大な火柱が巻きおこる。


 バザールの方角だった。


 数秒遅れて、けたたましくサイレンが鳴りひびく。

 検問の兵士は慌てて爆発の起こった方角に走り始める。


 バザールの方向からは、旧式の銃の発射音がパンパンと聞こえ始めた。


 俺は曲がり角から顔の半分だけ出して様子を眺めた。

 ヤズを連れていこうと兵士の一人があたりを見まわしている。


 しかしヤズはすでに通りの反対側に走りこんでいる。

 兵士はすぐに諦めて仲間を追った。


「行くぞ!」


 全員がありったけの速度を出して走り始めた。


 勝利路の幅はほんの二十数メートルしかない。

 瞬時に渡り終える。


 古びた鉄筋のビルをまわりこむと、ヤズが興奮に頬を火照らせて待っていた。


「うまく行った?」


 ヤズは俺に聞いてきた。

 俺はヤズの頭をグリグリと撫で、「ああ」とだけ答えた。


 オアシスホテルに着いたころには、街中が騒然となっていた。


 俺はゲリラたちの作戦が、非常に巧妙に組み立てられていることに驚いていた。


 周囲には無数の軽トラックや荷車、バイクと自転車が走り回っている。

 騒ぎに驚いた住民が、あわてて街を抜けだそうとしているのだ。


 遊牧民であるウイグルの民は、もともと土地への執着が薄い。

 そこを突いた見事な作戦だった。


 人の海にまぎれて脱出すれば、成功の確率は格段に高くなる。

 俺はエテの頭の良さに舌を巻いた。


 このちっぽけな少女は、身体の髄までゲリラだったのだ。


「さあ、早くトラックに乗って!」


 ホテルの駐車場には大井たちが待っていた。


 ボロボロの日本製軽トラックが二台、幌をかぶった状態で止まっている。


 エテはてきぱきと指示を出した。

 先導の車には俺とヤズ、それに工作員が乗りこむ。


 うしろの車には大井と地区委員長、それに政府官僚が乗った。


「お前はどうするんだ!」


 いっこうに乗りこむ気配を見せないエテに声をかける。


「あたしは残るわ」


 平然とした顔で答える。

 最初からそのつもりらしかった。


 俺は焦った。


「お前は爆破犯人なんだぞ。自分で言ったじゃないか。捕まったらどうするんだ!」


 エテはあいまいな笑みを返した。

 そんなつもりはないとでも言いたげな顔つきだ。


「姉さん! やっぱりぼくが残るよ」


 ヤズがたまりかねて叫んだ。

 エテの表情が険しくなる。


「命令に従いなさい」


「嫌だ。ぼくはウイグルの男だ。女の姉さんに助けられて逃げるのは一生の恥だ」


「もう一度だけ言うわ。命令に従いなさい! この作戦はあたししか出来ないことがあるの。あなたじゃ無理よ」


「ぼくにも出来る。だって……」


 ヤズは工作員をふり返った。

 男は無表情のまま、小さくうなずいている。


 たちまちエテの表情が蒼白になった。


「あなた……ヤズに教えたの?」


 男はもう一度うなずいた。

 エテの表情が、はじめて乱れた。


 唇を震わせて、例えようのない悲しみを顔に浮かべる。


「お前が危険になったときを考え、ヤズを代要員に仕立てておいた。これはセオリーだ」


「ひどい!」


 エテは両手で顔を被った。

 トラックの荷台の前で、地面に座りこんで泣き始める。


 ヤズが俺のそばに来た。


「姉さんを頼むよ。ぼくはウイグルの戦士になりたいんだ。男は戦いのために生まれてくる。女は繁栄のために生まれてくるって教わった。

 姉さんが戦うのは、ウイグルの教えに背くことなんだ。姉さんが生き延びられれば、ウイグルはふたたびこの街に満ちる。ぼくが残っても、なんにもならない」


 十一歳の餓鬼が吐くセリフではなかった。


 だがヤズは、本気でそれを信じている。


 俺が黙っていると、ヤズはトラックを飛びおりてエテの隣に並んだ。


「姉さん、カワ・セが好きなんだろう?」


 エテが顔をあげる。


「好きじゃなけりゃ、カワ・セの所になんか行かないもんね。ウイグルの女は、一緒に死ねる男にだけ身体を捧げるはずだろ」


「お願い! ヤズを連れてって」


 エテは俺をまっすぐに見た。


 時間がない。

 俺は決断を迫られた。


「二人とも連れていく訳には……」


 俺はたまりかねて、工作員風の男に聞いた。


 男は即座に駄目だと答えた。

 作戦の成就には、どちらかが残らねばならないとつけ足す。


 運転席からウイグルの若者が飛びおりた。


 俺はその顔を見て驚いた。

 いつのまにかラプラが座っていた。


 ラプラはエテのそばに歩み寄ると、いきなり後頭部を強打した。

 エテは地面に倒れた。


「川瀬、こいつを連れてってくれ。ヤズの言う通りだ。俺も脱出行につき合うつもりだったが、気が変わった。ヤズのサポートに付く」


 ラプラはエテの身体を軽々と持ち上げ、俺の両腕に託した。


 すぐにもとの運転手にキーを渡すと、ヤズの背中をたたく。

 認められたのが嬉しいのか、ヤズは喜々とした声で言った。


「ウイグルにはウイグルの誇りを。砂漠の民の誇りを!」


 幼い顔に、にっこりと微笑みを刻む。


 茫然としている俺の前で、ラプラとヤズは、ままたくまに人の海にまぎれていった。


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