009 二人の嘘つき

【偽りの友と影は、陽が差している間だけ付き従う   --ベンジャミン・フランクリン】



   ◇ ◇ ◇



「--くん。晴一郎くん」


 揺り起こされて初めて、自分が寝ていたことに気がついた。目を開けると、最初に飛び込んできたのは橙色の淡い光だ。揺れるランタンの明かり。照らされたジンイーさんの顔が眼前に迫っていた。


「ジンイー、さん」

「良かったあ。寝てただけ? 部屋の中がとんでもないことになってたから、万が一があったのかと思っちゃった」


 ちゃんと鍵かけてよ、心臓止まるかと思った。そう苦笑するジンイーさんの額には、細かな汗が滲んでいた。心配させただろうか。同じことをドゥルガさんにも言われたのを思い出して、少し反省する。たしかに、あんなことがあったのに、そのまま寝落ちは能天気すぎたかもしれない。


(油断、しないようにしないと……)


 あれから更に数時間が経っているようだった。時刻はちょうど零時を回ったところだ。「怪我はないね」とひとしきり確認してから、「だいぶ静かになってきたから」とジンイーさんが言う。


「そろそろ行けると思う。みんな寝静まる今のタイミングがいいよ」


 脱出計画のことだ。ジンイーさんの話によると、この教会から出るには丘を下って塀を越えねばならず、丘に出るためには宿舎を出て中央の聖堂を渡らねばならない。聖堂のある棟までは、一階の渡り廊下を通過する必要があって、そこの見晴らしが良いことと、建物を無事出れたとしても推定三メートル以上と思われる塀を越えられるかどうかが問題らしい。


「渡り廊下の方は何とかなると思うんだよね。この時間なら、そうそう往来はないだろうし。問題は」

「……塀」

「そう。でも、有刺鉄線が張られてるわけでも、向こう側に地雷が設置されてるわけでもない。かつてドイツを東西にわけたあの恐ろしい壁よりもずっと低い。だからきっと越えられる」


 ジンイーさんは、懐から布を結び繋いだロープを取り出した。生地感を見るにカーテンを裂いて固結びしたものなのだろう。


「ウォールランっていう壁登りの技術があるの。私、これでも戦場ジャーナリストの端くれだからね。聞き齧っただけだけどやってみる。私が先に登って君を引き上げて、二人で逃げる。大丈夫だよ。きっと上手くいく」


 夕方の僕ならその発言に迷わず頷いていた。でも、今は状況が違う。去り際のドゥルガさんの忠告が脳裏を点滅している。


(そもそも)


【お前は部屋にいろ。いいか、今夜はくれぐれも外に出るな。そこで布団を被って寝てれば、ちゃんと朝が来る。だから決して動くな。余計なことは考えるな】


(逃げるのが正解なのか?)


「本当に……」


 ランタンの中にしまわれた蝋燭の炎。それが僕の心中を体現したようにゆらゆら揺れている。


「外に出て、大丈夫なんでしょうか」

「え?」


 ジンイーさんの瞳が驚きに大きく見開かれる。この後に及んで逡巡するなんて、彼女には土壇場で怖気付いた情けない奴だと思われたかもしれない。でも、それでもいい。それだけ無視できないほどに、あの時のドゥルガさんの声音は切実さを孕んでいて、その言葉が僕の中の警鐘を鳴らしていた。


「…………」


 沈黙が落ちる。ジンイーさんは、水を刺した僕に責めるようなことは何も言わなかった。少しの間何かを考える素振りを見せた後、


「急にどうしたの? 何か気になることでもある?」


 だから僕は、数時間前の出来事を包み隠さず話した。ドゥルガさんと星を見たこと。見えない刃に襲われたこと。彼の諫言。


「なるほどね」

「ドゥルガさんは、今晩は絶対に部屋から出るなって言ってました。信じてくれって。だから……」

「そもそもドゥルガくんは、どうしてここに?」

「あの、食器を片しに」

「あ! そっか言ってたね。ごめん。そこまで配慮が回ってなかった。敵かもしれないって私が言ったのに一人になんかして……怖かったでしょ」

「大丈夫です。むしろ、ドゥルガさんがあの時いなかったら、僕は死んでたと思うし」

「そっか」

「その……ドゥルガさんは、本当に僕たちを殺そうとしてるんでしょうか。さっき助けられた時も、嫌な感情は聞こえてこなかったのに」

「わからない。でも、庭師という職業とあの時の嘘。それがあったのも事実だよ。ドゥルガくんは、外に出るなって君に言ったんだよね?」

「はい。余計なことは考えるなって」

「……もしかして」

「?」

「勘づかれてるのかな」

「えっ」

「私たちが教会から脱出しようとしているのが、勘づかれているのかもしれない。ここにいる方がどう考えても危ないよね? 逃げ場はないし、場所も割れてるし。それなのに、そんな危ない場所にわざわざ居ろって厳命するのは不自然じゃない?」


 そう、なのかもしれない。ここで寝ろと言ったのはドゥルガさんだ。確実にいる場所がわかっていれば、たとえ目視できなくても、あの不可視の攻撃を、仲間に壁越しに当てさせることは可能だろう。ジンイーさんは、それを危惧している。


(でも、ならそんな回りくどいことなんかしないで、あの時僕を助けなければいい)


「あるいは、疑われてるわけじゃなくて」


 炎に照らされたジンイーさんの影が、足元に細く長く伸びていた。暗闇に浮かぶその上半身は、半分切れたように闇に溶けている。


「別の目的があるとか」

「別の目的……」

「君をこの部屋に留めておくことで生じるメリット。それか、君じゃなくて、この部屋の何かに対して生じるメリット」


 ふと光が動いて、周囲がポッと明るくなった。ジンイーさんが部屋の中を見回している。


「ここに寝床を作ったのはドゥルガくん?」

「はい」

「そっか……ちょっとマットレスを退かしてみたいんだけど、手伝ってくれる?」


 言われるがまま、ウォークインクローゼットからマットレスを取り出す。がらんとしたタイル張りの床。暗闇の中でもわかる僅かな光沢。模様はない。


「そういうことね」

「?」

「私の部屋も同じような間取りでね。君と一度別れた後、何か脱出に役立つ物がないか、室内をもう一度見て回ってたんだけど……私の部屋のクローゼットの床って、タイルが一部、素材が違くて」

「え?」


 見る限り、ここでは全て同じ種類のタイルが使われているようである。特に異なっている部分は見当たらない。


「何かあるかもって思って剥がそうとしたんだけど、がっちり固められててダメだった」

「ダメだったなら」

「不自然なくらいにね」

「……どういう、ことですか?」

「この教会は見たところ、かなり古い建物でしょ? 随分前に造られた物だとして、それでもあちこちの丁寧な装飾を見れば資金繰りに困っているとも思えない。なのに、たとえ床の一部が老朽化していたとして、そこだけ種類の異なる素材で修繕するなんて雑なことをするとは考えにくくない?」

「確かにそうですね」

「つまり慌てて気がついて、部屋を使う前に急遽直した。ここは信徒の宿舎で、今まで何度も代理戦争が行われてるんだから、部屋は共用のはずでしょ? 今までに、何かを残したり脱出を試みた信徒がいてもおかしくはない。その何かしらを、たまたま教会の人間に発見されて隠滅された。だから私の部屋のクローゼットの床は、落ち着いて直す時間がなく、素材の違うタイルを使用するしかなかった」

「そう、なのだとして、この部屋にも何かあるとは」

「限らないけど、ここに寝具を用意したのが教会の人間ドゥルガくんくんなら……可能性はゼロじゃない」


 そう言って、ジンイーさんはクローゼットの中に踏み込んだ。靴で踏みごごちを確かめながら、奥へ入っていく。動く光につられ、僕もそれに続いた。どれくらいしていただろうか。最終的には膝をついて、片手で床を触っていたジンイーさんが、壁際の左隅のタイルに向かって、徐にポケットから取り出したボールペンを突き刺した。


「ジンイーさん?」


 軽い音と共にタイルが外れる。そこから四枚分正方形に次々めくって、「見てみて」とジンイーさんは静かに告げた。


「っ」


 そこにあるはずの下地材はくり抜かれていた。空いたスペースに折り畳まれて黄ばんだ紙と鞘に入れられたナイフが隠し置かれている。紙と鞘の皮地の状態から、かなり昔のもののようにも見える。


「これは……」


 ジンイーさんが紙を広げると、土埃と石灰の混じった粉塵がワッと舞った。二人して咳き込みながら、顔を寄せ合って中身を見る。


「地図だ」

「すごい。教会の内部が精密に描かれてる。これはかなり詳細な地図だよ。建物の構図、通路の本数と行き先、夜回りの巡回経路まで……」

「こっちは、ナイフ、ですかね」

「不思議な形だね。刃幅が広くて、先が湾曲してる」


(まさか、本当にこんな場所があるなんて)


 ドゥルガさんはこれを隠したかったのだろうか。だから仲間を襲わせて、僕を移動させた? 僕がいてこれを回収することも隠蔽することも出来なかったから。


(でも……ならなんで、あんな安心させるような優しい顔をしたんだろう)


「ドゥルガくんの真意はわからないけれど」


 ジンイーさんが目を伏せて、静かに言った。


「これを隠したがった可能性がある以上、私はやっぱり、君をここに置いてなんていけない」

「ジンイーさん……」

「何があっても必ず私が君を守るよ。だから、私を選んで、晴一郎くん。私と一緒に逃げてください」


 手の中のナイフに視線を落とす。変わらず嫌な胸騒ぎはしていたが、その警鐘に蓋をして、僕は小さく頷くしかなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る