008 父の幻影

 太陽と地球の距離は、約一億五千万kmらしい。だから、今見えている星々は過去の物なのだと、昔父は言っていた。


「俺たちはこうして空を見上げるだけで、過去を遡って知覚することが出来るんだ。なら未来を見る方法もあると思わないか?」


 部屋のベランダで、父に抱き上げられて見た夜空は、都会の灯りで遮られて碌に星なんて見えなかったけれど、にこにこ嬉しそうにそれを見上げる父の顔を眺めるのは嫌いじゃなかった。

 太陽も地球もないこの世界で、今僕が見ている星は一体なんだというのだろう。もしこれが誰かの過去ならば、父の言ったように、僕がこの先の未来を知る術もあるのだろうか。



   ◇ ◇ ◇



 逃亡は皆が寝静まった夜中を待つことになり、ジンイーさんと別れて数時間が経っていた。窓の外はすっかり夜だ。彼女が言っていた通り、周囲に建物の明かりがないからか、外は濃い闇に包まれている。部屋の電気を消すと、それはより顕著だった。


(でも、星がよく見えるな)


 手持ち無沙汰で、なんとなくかつての父の言葉を思い出し、ベランダに出てみる。ひゅうと耳元でひんやりとした風が吹いた。僅かに湿った空気を感じる。雲は少ないがどことなく雨の匂いがする。

 ベランダの柵に手をかけて天を見上げると、煌々と輝く星々がそこにはあった。僕は遠目が効かないけれど、それでも光が強いからか、そこそこの数が見える。目が良ければもっと沢山見えるのだろう。星座に詳しいわけではないから、この星が地球の星々とどう違うのかわからないが、それでも純粋に綺麗だと思った。


「天体観測か?」


 背後からかけられた声に、文字通り僕は飛び上がった。勢いよく振り返ると、ドゥルガさんが窓の縁に手を置いてこちらを見ていた。


「ドゥ、ルガ、さん」

「悪い、驚かせたか? 一応ノックはしたんだけどな」


 聞こえなかったか、と吐息混じりのテノールが落ちる。


「随分集中してたんだな」


 身を固くする僕を尻目に、ドゥルガさんは喉の奥を震わせて笑った。


「というよりお前、部屋の鍵はちゃんとかけておけよ。不用心すぎる」

「どうして、ここに……」

「食器、後で取りに来るって言ったろ。遅くなって悪かったな」


 テーブルの上を顎で示される。ジンイーさんが帰ったあと、軽く水で濯いでおいたティーポットとカップ。その姿が見えない。運びやすいように、ドゥルガさんがバスケットの中にしまったのだろう。


「何見てたんだ? 空か?」

「えっと……」


(こんな普通に話してていいんだろうか……)


 ドゥルガさんが危険な人かもしれない、という疑惑は結局のところ放置されたままだ。今僕は一人で、もしかしたらドゥルガさんが、これを好機と僕を殺しにきた可能性も捨て切れない。


(……けど、それなら声をかける前に襲えばいいしな)


 僕は彼の侵入に気づいてなかったのだから、幾らでもタイミングはあっただろう。それをしなかったのなら、ドゥルガさんは敵ではないと思って良いのだろうか。


(ならなんで、あの時嘘なんか……)


 考えたところでドゥルガさんの真意なんて僕にわかるものでもないが。


「どうした?」


 いつの間にか俯いていたのか、数センチ低い頭に下から覗き込まれる。その目に敵意は浮かんでいない。


「星が」


 声が掠れたので、数回咳払いをした。


「星が綺麗だったので、ちょっとだけ、見てました」

「え? ああ、ほんとだな」


 僕から外れて、穏やかな視線が上を向く。薄茶色の切れ長の瞳が、夜空を反射してキラキラ光っていて、それはまるで宝石のようだった。


「今夜は雨かと思ったんだが、まだ降りそうにないな」


 そう溢しながらドゥルガさんが右手の傷を撫でる。雨の日は古傷が痛むと聞いたことがあるから、ドゥルガさんもそうなのかもしれない。


「星が好きなのか?」

「はい。父が好きだったから、連れられて、よく星を見ていました」

「そうか」


 柔らかい合槌だった。どこか納得したような、何かを懐かしむような深い慈しみを感じる声音。


「その時も、こんな風にベランダで見てたのか?」

「はい。でもたまに、天体観測しに、山奥に」

「きらきら星でも歌って?」


(どうして)


 それは父の癖だった。夜空を眺めながら、よくジェーン・テイラーの『Twinkle, Little Star』の歌詞を口ずさんでいた。でも、それを彼が知るはずはない。驚いて隣を見ると、ドゥルガさんは、自分の失言を恥じるように片手で口を覆って、明後日の方向を向いていた。


「あー。その、なんだ。……昔、俺を助けてくれた人が、そういう人だったんだ。夜に星が見えると、よく星の歌を歌ってた。だからなんか、そういうイメージがあって」


 決まり悪そうに笑って、ドゥルガさんが頭を掻いた。


「子供じゃあるまいし、普通は歌わないか。悪い。変なこと言ったな」

「…………」


 ずっと気になっていたことがある。降臨の儀で見た父の姿だ。あれは僕の記憶が見せた幻なんだろうと思っていた。思っていたから気には留めていなかったけれど。


(そうじゃ、ないのだとしたら……)


 ジンイーさんの手帳の二ページ目。僕の潜在魔法スフィアに関する記述。そこにはこうある。


 エンパスは、対象の肉体に触れることで、その者の思考を知覚することが出来る。触れる部位は問われず、衣服等に阻害されることもない。又感情を持たないモノには発動しない。個人が強く念じる或いは複数人が同じ思考をする等、感情の発起が大きくなると離れていても感知が可能であり、その場合稀に映像として心中が想起されることもある


 気を失う前に見た父の幻影。あれは僕じゃなくて、本当は彼の記憶だったんじゃないだろうか。

 父は失踪したのではなくて、僕と同じようにこの世界に来て、ドゥルガさんと出会ったのかもしれない。だから、ドゥルガさんは父の癖を知っていたし、僕を「似てる」と言った。


【似てんな、あの人に】


(父さんは……生きてこの世界にいる?)


「晴一郎?」


 呼ばれてハッとする。父を知っているか聞いて、彼は答えてくれるだろうか。


「あの」


 バサバサとトゥニカの裾が大きくはためいた。頬を撫でる程度だった夜風が、髪が四方に乱れるほどの強さになっていた。黒い雲が流れて次々星を隠していく。


「梅原憂太という名前に心当たりは」

「伏せろ‼︎」


 鋭い怒声の後に、足を払われて僕はベランダにすっ転んだ。その上から小柄な肉体が被さってきて、強制的に伏せさせられる。


「ドゥ、ルガさんっ」

「しっ! 静かにしてろ」


 耳元で轟々と鳴っていたはずの突風が、突如ぴたりと止んだ。静まりかえるベランダ。筋肉のせいか体格の割に質量のある熱い身体に押さえつけられ、僕はうつ伏せのまま息を詰める。


【北東。距離百八十。着撃から三秒。追撃なし】


(一体、何が……)


 不意に、背中にかかっていた重みがふっと軽くなった。上体をゆっくり起こして、ドゥルガさんがそっと周囲を見渡している。鋭い視線。何かを警戒しているようだった。


【行ったか。まさか気取られた? いや、セオドールの姿は降臨の儀以降見ていない。関わり合いになるの怪しんだか、教会の指示か。追撃の気配はないし、これ見よがしな殺気だった。いつもの気まぐれか? 紛らわしい】


 雪崩れ込む怒涛の思考。脳みそがビリビリ痺れるような感覚に、僕は思わず身を震わせた。


【怖がらせたか。何も知らないうちにカタをつけたかったが、なんて説明したもんかな。日本人は特に荒事に慣れてないから気をつけねえと】


「悪かったな。大丈夫か?」


 手を差し出された。ありがたくその手を取って立ち上がると、今まで視界に入っていなかった室内の様子がはっきり見える。パッパッと服の土埃を叩いてくれるドゥルガさんに何があったか聞き質したいのに、それよりも今、目の前に広がっているこの光景が現実のものとは思えず、僕はただ棒立ちするしかなかった。


【怪我はしてないな。思いっきり払ったから捻挫くらいはしてるかと思ったが、上手く転んでくれて良かった。見た目の割に、意外と運動神経は悪くない】


 いまいち納得のいかない評価を気にする余裕はなかった。開けたままだった窓の奥。薄暗い室内の中央に置かれていた丸テーブルと椅子が真っ二つに割れていた。鋭利な断面だが、抉り取られるように湾曲して切れている。まるで大きな糸鋸で切断したようだった。


(部、屋が……)


 傾くテーブルの上に辛うじて乗っていたバスケットがするすると滑り落ちて、やがて床に転がった。その拍子にこちらを向いた断面からは、中のポットやカップまで割れずに綺麗に二つに分裂しているのが見える。


(ドゥルガさんがいなかったら……)


 僕もこれらと同じように真っ二つだった。


「大丈夫だ。もういない」


 僕の動揺を鎮めるように、ドゥルガさんが静かに言った。その慣れたような声音に、こういう超常的なことが日常的に起こる世界なのだと改めて思う。


(今のも、魔法?)


 見えない刃だった。十中八九僕を狙ってた。これがジンイーさんの言っていた敵なのだとしたら、そんなのどうやって防げばいいというのだろう。


(……ジンイーさんは、大丈夫だろうか)


「今日はもう何もないと思うが、一応部屋に入っとけ」

「…………」

「大丈夫。少しちょっかいを出されただけだ。部屋の中で大人しくしてれば問題ない」


 ちょっかい。そんなもので人間の命は簡単に吹き飛ぶのだ。

 ドゥルガさんに続いて室内に戻る。彼は素早く窓を施錠すると、きちっとカーテンを閉めてから、切れたテーブルと椅子を隅に寄せ、バスケットとその中身を躊躇なくゴミ箱に捨てた。僕はただ立って、じっと床のシミを眺めていた。何をすべきかわからない。

 そうしてドゥルガさんは、辛うじて無事だったベッドのマットレスだけ外して軽々持つと、


「着いてこい」


 洗面所の向かい側の扉を引くと、そこはウォークインクローゼットのようだった。物が何も置かれていないからか、とても広く感じる。実際存外にスペースがあって、人一人が横になっても余裕があるようだった。その床にマットレスをぎゅっぎゅっと詰めて、今日はここで寝ろとドゥルガさんが言う。


「大丈夫だっつっても、さっきの今で窓際で寝るのは怖いだろ。ここなら窓からもドアからも遠いから、恐怖は少ないんじゃないか? 狭いところが苦手なら無理強いはしないが」

「大丈夫、です」


 マットレスに座った。緊張していたのか、膝が軋む感覚がある。投げてよこされた毛布に僕が四苦八苦している間に、ドゥルガさんはさっさとドアの前へ向かっていた。


「じゃあ俺は帰るが」

「あの!」

「……どうした?」

「僕、も行きます。ジンイーさんも襲われてる、かもしれないし」

「部屋にいろ」


 落ち着いた口調だったが、そこには反論を許さない強い意志があった。


「心配なら俺が見てきてやる。だから、お前は部屋にいろ。いいか、今夜はくれぐれも外に出るな。そこで布団を被って寝てれば、ちゃんと朝が来る。だから決して動くな。余計なことは考えるな」


(外に出たら……朝は来ない?)


 二の句が告げないまま呆然と眺めていると、ドゥルガさんは吊り上げていた眉を緩めて、「いいな」と柔らかく念押しした。


「絶対に大丈夫だから。俺を信じてくれ」


 廊下に滑り出る背中を呼び止めることはできなかった。

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