毛無山の仙人と洗濯女
笹谷ゆきじ
毛無山の仙人と洗濯女
時は享保10年、夏。
備後の国、
誰も、この翁の名前はおろか、姿すら見た事がない。
なぜなら──仙人だからである。
翁は、松の樹に腰掛け、くあああ、と欠伸をした。
───さてさて、今日も今日とて、退屈じゃ。
昔は龍だの狼だの化けて、人を驚かせて遊んだものだが、それにも飽きた。
さりとて、誰かに会いたい訳でもない。
人好きする性分でないから、仙人になったのだ。
翁はまたひとつ、欠伸をした。それから少し間を置いて、大きなため息をつく。
俗世を捨て幾年、仙人になったは良いが、
老いたといえど、もとは只の男。
色を捨てきれぬ仙人の、ささやかな道楽といえば、千里眼を使い、下界の女という女を盗み見る事くらいになってしまった。
──娘でも良い。年増でも良い。誰ぞ、女が通らぬか…。
長年に渡り鍛え上げた、千里眼を凝らすと、視界の端に、人の白い脚が映った。
──女だ。若い女が、川で洗濯をしている。
翁は思わず身を乗り出した。
女は薄い藍染の着物の裾をすっかりたくしあげ、むっちりと白い太股をさらけ出している。
──あわよくば、その尻までも拝みたい。
身を乗り出した勢いで、翁は松の樹から落ち、山からも転げ、しまいには山裾の川岸に転げ落ちた。
見上げると、川には、洗濯をする女がいた。
こちらに背を向け、無心に襦袢を洗っている。
──先ほどまで覗いていた、女だ。この白い太股、間違いない。
屈み込んでいた女が顔を上げる頃を見計らって、声を掛けた。
「……もし、娘さんよ。」
女は強い日差しの下、眩しそうなしかめ面でこちらを見た。
白い肌で、それなりに顔も整っており、額には朝露のように汗が光っている。
「……川上から、水をくれんか。喉が乾いておりましての。」
女は訝しそうに顔をしかめ、木地の椀を投げつけた。
「知らん。自分で汲めや。」
翁は驚いたが、ニタニタと笑った。
「ほうほう、なかなか、鼻っ柱の
──ズ、ズズ、ズズズズ…………。
気味の悪い音と共に、川の水がするすると、砂利の隙間に吸い込まれていく。
あっという間に川底が露わになり、魚はピタピタと跳ね、洗っていた襦袢も乾き、砂まみれになった。
女は襦袢を手にしたまま、呆然と立ち尽くした。
何が起きたか、理解できていない。
思わず、後ろの翁を振り返った。
翁の笑みが、ますます深くなっている。
「さてさて、娘さんよ、儂にひとつ詫びでも入れる気になったかの。」
「……あ?」
「しおらしゅうしてみい。それか、尻でも見せてくれればええんじゃが。」
女の顔がますます険しくなった。
無造作に結い上げた髪が、逆立って見える。
愉快そうに笑う翁に、女はつかつかと歩み寄り、雪の
──ぴしゃん!
「訳の分からん事言いなや、糞ジジィ!」
途端に、翁の姿は消えた。
ごおっ、と強い風が吹き抜けた。
風はうねり、つむじを巻いて木にぶつかり、枝をポキポキと折ると、まるで人のような大きな笑い声を上げた。
──アッハッハッハッハ…。ダアーッアハッハハッハッハッハッハッハ……。
愉快そうな笑い声は、翁の声そのものだった。
笑い声が山に消える頃、川からゴポ、ゴポ、と水が湧き始めた。
川は、何事もなかったかのように、その流れをすっかり取り戻した。
女は呆気にとられてその様子を見守っていたが、はっと我に返り、襦袢を拾い上げ、家へと走った。
女の家は旅籠で、ちょうど出雲から来たという
──何ぞ、バチがあたるんじゃないか。
家に着くなり、事の顛末をすべて打ち明けると、行者は目を丸くして、それから大笑いした。
「おめぇ、まぁだいぶ気ぃ強かやなぁ。こりゃあ、狐や狸じゃなかろうが、たぶん天狗か仙人じゃろが。ようまあ、ひどい目に
その笑い声は、あの翁によく似ていた。
毛無山の仙人と洗濯女 笹谷ゆきじ @lily294
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