悪魔と正義のジレンマ
森本 晃次
第1話 プロローグ
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年5月時点のものです。お話の中には、事実に基づいた事件について書いていることもあれば、政治的意見も述べていますが、どちらも、「皆さんの代弁」というつもりで書いております。今回の事件も、「どこかで聞いたような」ということを思われるかも知れませんが、あくまでもフィクションだということをご了承ください。実際にまだ標準で装備されていないものも、されることを予測して書いている場合もあります。そこだけは、「未来のお話」ということになります。
「マインドコントロール」
という言葉を最近はよく聞くようになった。それは、ニュースであったり、小説や、アニメなどで聞くワードであり、これを直訳すると、
「洗脳」
ということになる。
日本人は、どうも、
「横文字」
というものが好きらしく、よく和製英語なるものを作ると言われるが、
「だから、昔は、洗脳といっていたものを、今ではマインドコントロールという」
というような考え方のようだが、専門的には、
「洗脳とマインドコントロールとは違う」
ということのようだ。
「マインドコントロール」
というのは、実際には、
「自己啓発などに用いられることが多い」
よいう、
「本来であれば、ポジティブなものであった」
といわれているようだ。
今の時代において、そのような研究を行っているところがあるという話は、あまり知られていない。
精神疾患などを研究していたり、心理学の研究をしている専門の大学期間であっても、知らない人は結構いたりする。
というのも、その研究は、昔から提唱されてはいたが、その証明が4できているというわけではないので、ハッキリとはしないことから、まるで、
「都市伝説」
とでもいうように言われていたのだ。
K大学の研究室に、
「高千穂研究室」
というところがある。
K大学というのは、国立大学であり、昔の文部省の時代から、
「国家のための研究」
ということで、予算が組まれていた。
一時期は、
「国家プロジェクトの研究」
ということであれば、K大学の研究室といわれるようになっていて、それを一手に引き受けているのは、今は、この
「高千穂研究室だ」
ということであった。
そもそも高千穂研究室というところは、
「精神疾患」
などの研究を専門に行っているところで、全国でも、同じようなところもどんどん増えてはきたが、それも、
「高千穂研究室の成果あってのこと」
といわれるようになった。
そもそも、
「精神疾患が増えると、国家レベルでの社会問題となる」
といわれたことから、
「国家でも、専門に研究するという機関を持つべきだ」
ということになったが、
「新しく作るには、スタッフの募集であったり、施設の建設など、時間に余裕がない」
ということを言われるようになり、
「どこかで、研究が行われているところはないか?」
ということで探してみると、
「K大学の、高千穂研究室」
というものに、白羽の矢が当たったということであった。
高千穂研究室を探し当てるのに、実はそんなに時間が掛かったわけではなかった。すでに、省庁は文部科学省に変わっていたが、ちょうど、施設を探すプロジェクトにいた人が、K大学出身で、自分が学生の時、
「高千穂研究室という、心理学やスピリチュアルな研究を行っているという全国でも珍しい研究室がある」
ということが、耳に入っていた。
しかし、
「心理学とスピリチュアル」
というと、精神疾患を治すということと少し違っているように思えたので、彼といs手は、最初から、頭の中には入っていなかった。
しかし、いろいろ探しているうちに、その候補というのは、結構あったのだが、それらはすべて、
「帯に短し、たすきに長し」
ということで、
「すべてが中途半端なんだよな」
と、調査をすればするほど、成果としては、程遠いと思えるようになったのだ。
だが、彼は、
「高千穂研究室」
というものを思い出したのだ。
そして、その時に感じたのが、
「確かに、心理学とスピリチュアル、どちらも、かすってはいるような気がするが、接点とは言い難い」
と思った。
「しかし、これまでの調査を重ねた中で、すべてが、中途半端だったことを思えば、かけ離れているように見えることではあるが、少なくとも、っ中途半端ではない」
と感じるようになると、そこにあるのは、
「それぞれに接点を感じさせる何かではないだろうか?」
ということから、自分の中では、
「ダメ元だ」
と思い、スタッフ上司に話をしてみた。
すると、その人も同じようなことを考えていたようで、
「おお、そうか、実は私も、高千穂研究室のことは頭の中にあったのだ。しかし、お前が今言ったように、かけ離れた研究だと思ったので、心の片隅には置いておいたが、つかず離れずの気持ちが大きかった。実際に話に挙げてみようかと思ったが、勇気がなくて」
ということで、次回の定例会で、
「高千穂研究室の名前を挙げる」
ということになったのだ。
すると、スタッフの数人も、
「実は、俺も考えていたんだよな」
という人がいたようで、中には、
「便乗意見では?」
というようなやつもいたが、少なくとも、真の賛成者は、一人や二人ではなさそうだ。
そもそも、最初に言いだしたスタッフは、
「便乗」
というものが嫌いだった。
特に、こういうプロジェクトであったり、開発員などというのは、
「人の意見に乗せられたりするのは、いかがなものか?」
と思っていたが、それよりなにより、
「人と同じことを考えている」
ということを、
「嫌な性格だということをどうして感じないのか?」
ということの方が、よほど嫌いな性格に思えたのだ。
そもそも、
「竹を割ったような性格」
ということで、素直でまっすぐな性格でないと、特に、
「精神的なデリケートな問題は扱えない」
と思っていた。
そもそも、彼は、
「文部科学省」
に入ったのも、
「研究者としての道をまっとうしたい」
という気持ちが強かったからである。
研究者というのは、
「人と同じ考えでは嫌だ」
という、一種の天邪鬼的なところがないと、やっていけないと思うようになっていたのだ。
それが、
「研究者に一番必要な、独自性と、創作意欲というものではないか?」
と感じていた。
そのどちらも、絶対に、人まねであってはいけない。もちろん、手本にするということは問題ないのだが、それはあくまでも、
「考え方」
ということであり、
「まるまるコピー」
などということは、ありえないといってもいいだろう。
自分が、学生時代に研究をしていたことに、
「心理的な発想」:
というものがあったが、
「人のまねをするというのは、自分から逃げているということである」
と結論付けていたのだった。
考えてみれば、
「人のまねをする」
というのは、
「盗人と同じ」
といえるのではないだろうか?
相手が、
「真似をされても構わない」
と言ったからといって、
「はい、そうですか?」
というのは、それこそ、
「相手から逃げるわけではなく、自分から逃げているようなものだ」
と考えたのだ。
確かに、頑固な考えといえばそれまでであり、
「郷に入っては郷に従う」
という言葉があるように、
「いいところは吸収する」
というのも、悪いことではない。
しかし、それは、
「自分が自分である」
という上で、果たしてそうなのかと考えると、またしても、自分を否定する自分がいることを感じるのであった。
だから、彼は、
「一般企業から、いくつもの大手からも、誘われるほどの優秀な学生だったが、敢えて、文科省に入ったのだ」
「一般企業で研究」
ということもできたのだが、一般企業で研究室に入って、他の研究員と研究を行うということになると、それは、
「研究でできた成果を、すべて会社に取られてしまい、自分の手柄にもならない」
と思ったからだ。
給料は少しは上がるかも知れないが、名誉欲で考えた時、
「絶対に後悔する」
と思ったのだ。
文科省であっても、同じことが言えるかも知れないが、少なくとも、研究を発表する時、その博士の名前は表に出されると思ったことで、文科省を選んだのだ。
その思いは、今のところ、
「世間に発表できるほどの、大きな研究を成し遂げていないことで、その道はまだまだ険しいということであるが、中から見ている限り、自分の選んだ道に間違いはなかったのではないか」
と思うのだった。
もちろん、文科省に入れば、
「研究に明け暮れる」
というわけにもいかない。
今回のように、市場調査のようなこともしなければいけないわけで、それはそれで嫌ではなかった。
大学の研究室などを調査していると、
「自分の研究に役に立つ」
ということが分かってくる。
それは、真似をするなどという発想ではなく、
「やっていることの正否というものが分かってくるのであり、それによって、自分の進むべき道」
というのが見えてくるという考えだった。
そういう意味でも、
「文科省でよかった」
と思っている。
民間企業の研究室ではそうはいかない。何といっても、
「研究室に入り込むと、完全に隔離状態で、まわりからは見張られていて、自由が利かない」
ということになる。
それこそ、江戸時代など、罪人が、佐渡島に流されたりして、そこで、強制労働に従事させられているのを見ているようなものではないだろうか?
特に佐渡には金山があることで、誰にも見つからないように、強制労働させられ、
「死んだらそのまま」
というようなむごいことをさせられる。
さすがに、そこまでのひどいことはないが、企業とすれば、
「ライバル会社に秘密が漏れないように」
ということで、
「必要以上に目を光らせている」
といってもいいだろう。
それを考えると、それだけでも、
「民間会社にいかなくてよかった」
といえるだろう、
一度研究室に入り込むと、下手をすれば、
「一生出られない」
というブラックな企業もあるに違いない。
今はどうか、正直分からないが、かつては、
「そんな体制が確かにあった」
ということだったという。
それが時代的にいつのことだったのかということが、ハッキリとしないので、
「今がどうなのか?」
そして、
「どのような時代になれば、そういうひどい状態になるのか?」
ということを考えると、
「完全に、これを、飼い殺しというんだ」
といってもいいだろう、
会社に誘う時は、相当な甘い汁を吸わせておいて、その気になってしまい、手中に収めてしまえば、
「釣った魚に餌はやらない」
ということと同じではないか?
特に、
「民間企業というのは、会社が生き残るためには、社員はどうでもいい」
というところが多い。
結果として、
「それが間違いなのか、正しいのか?」
ということは一概には言えないが、
「内部留保」
などという考え方が蔓延っている日本は、果たして、どこに向かっているというのだろうか?
この、
「内部留保」
というのは、日本における、
「失われた30年」
といわれているように、
「バブル崩壊の後、他の国では、右肩上がりでの成長があるのに、日本では、まったく成長していない」
ということになる。
この30年間において、日本は他の国にはない、
「バブル崩壊」
を経験した。
だからこそ、
「年功序列」
であったり、
「終身雇用」
という昔からの日本の伝統が崩れてきたことで、企業は、
「潰れないように」
ということで、会社内に、一定の蓄えを持つようになった。
これは、ある意味、
「社員を守るため」
という大義名分でもある。
というのは、
「社会を不況が襲ったりして、それによって、会社とすれば、リストラしないと、会社が潰れるということにならないように、最初から貯えがあれば、少なくとも、リストラを大々的に行わずに済む」
ということで、
「雇用の確保という意味で大切だ」
といわれている。
しかし、実際には、
「どんなに働いても、給料は上がらない。そのわりに、物価だけが上がっていく」
ということで、
「結局は、給料が下がっているのと同じだ」
ということになるのだ。
物価の調整をうまくできない政府のせいで、
「失われた30年」
といわれるが、もっといえば、
「国家自身が、どんどん赤字になっていく」
ということで、税金がどんどん上がってくるわけで、そのすべてが、
「政府や政治家のせいだ」
といっても過言ではないだろう。
そんな中、政府はあくまでも、
「経済を活性化させる」
ということだけを目指した対策をしている。
たとえば、
「働き方改革」
や、
「祝日を増やす」
などということで、
「まるで、国民のために」
というようなことを言っているが、要するに、
「働き方改革」
であっても、
「祝日を増やす」
ということであっても、その理由は、
「国民に金を使わせる」
ということを目指しているだけではないか?
企業が、自分の会社を守るために、
「内部留保」
というものを蓄えるというのと同じことだ。
だとすれば、
「個人としても、政府や企業に頼ることなく、いかにすればいいかということを考えないといけない」
ということになるだろう。
要するに、
「自分のことは自分で何とかしろ」
といっているようなもので、年金制度の崩壊し、いずれは、
「収めた年金が返ってこない」
などという時代がくれば、どうなるというのだろうか?
民間の保険会社に、昔からある制度である、
「個人年金」
なるもので何とかしないといけない時代になってきたといってもいいだろう。
それこそ、
「国家は何もしてくれない」
ということで、
「昔のような、安価な政府」
つまり、
「チープガバメント」
というのが正しい考え方ということになるのではないだろうか?
これも、
「洗脳」
と、
「マインドコントロール」
という言葉のように、若干は違うものではないかといえるかも知れない。
そんな政府に対して、文句はあるが、
「それでも、省庁である文科省に入った」
というのは、やはり、自分を生かせる仕事ということを考えたからであろう。
確かに、文科省に入れば、
「国の機関」
ということで、国や国民のためという気持ちになるのが普通なのだろうが、そんなことではなく、
「あくまでも、自分のやりたいことをする」
ということに集中しようと考えるのだ。
「それだけ、自分が、人のことを考えるような人道的な人間ではなく、自分のことだけを考える」
といってもいいだろう。
何かを研究するということだって、何も、
「人のため」
などということを考えているわけではない。
あくまでも、
「自分が好きなことをやりたい」
そして、
「それをできる環境を自分で探してみる」
というところから見つけたもので、言ってみれば、
「天職だ」
といってもいいかも知れない。
だから、文科省の仕事は好きだといえるはずなのだが、どうも、あまりやりたい仕事ということでもないようだ。
そんな人間が、
「高千穂研究室」
というものに巡り合ったのは、ある意味、
「偶然だった」
と言い切れるだろうか?
そもそも、
「偶然と必然」
どこが違うというのか?
意識が働いていることで、
「偶然とは言わない」
ということなのか、それとも、
「必然ということには、意志が働いていてはいけない」
といえるのだろうか?
ここでいう、
「意識」
というものと、
「意志」
というもの、それぞれに違うものだと考えると、
「意志というものが、意識に変わる時、必然が偶然になるのではないだろうか?」
とも考えられる。
一緒に考えることとして、
「意識と意志」、
そして、
「偶然と必然」
どちらも、それぞれに反対語だといえることなのかということを考えると、それぞれに退避できるものではないといえるのかも知れない。
同音異義語である。
「意志と意思」
似ている言葉のようだが、実際には、その距離はかなり遠い。
それこそ、
「反対語ではないか?」
と感じるほどである。
それでも、えてして人間は、その違いというものを、正直分かっているというものではないだろう。
そういう意味で、先般からよく行っている、
「マインドコントロール」
という言葉と、
「洗脳」
という言葉も、どこか
「似て非なるもの」
といってもいいだろう。
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