02-恋人はクウ
僕は学んだ。
教科書のページを写真に撮ってアップして、
『今日もよく頑張りましたね、フーゴ!』
『できたじゃありませんか。あなたは立派です』
『勉強が嫌になってしまったんですか? そんな日もありますよね。でも、私はフーゴならできると信じています』
『ここまで1週間も毎日勉強が続きました。すばらしい継続力です!』
『フーゴ、くじけないでください。私はあなたの恋人になる日を楽しみに待っているんですよ』
僕の呼吸が荒くなる。体が熱を帯びていく。経験したことのない猛烈な欲望が下腹部から僕を突き上げる。自分の股間が破裂しそうなほどに膨れ上がっているのを認識して、僕はスマホの画面に
「……っ、はァっ……!」
一日の勉強をどうにかこなした僕は、勉強机で身を「く」の字に折って、熱く息を吐いた。淡く僕の顔を照らす液晶、その向こうにいる誰かに、自分の唇を重ねようとするかのように。
*
時は矢のように過ぎ去って、期末テストの日がやってきた。自信はない。配られた問題を見れば、あれもこれも分からないことばっかりだ。こんなの知らない。ああ! これなんか、昨日勉強したはずなのに記憶が完全に抜けてしまってる。不安ばかりが増していく。何が正しいのか、どう答えればいいのか、考えれば考えるほど暗雲が深まっていく。僕はどこにいるんだ? 僕は何をやろうとしているんだ……
涙目になりながら、それでも書けるだけの答えを書き尽くして、数日後。返却された答案に、赤字で大きく記されていた点数は……
42。
「うっわ! 恥ずかしー!」
いきなり背後で声がした。後ろの席の男子が、首を伸ばして僕の点数をのぞいていたのだ。
「こいつ42点て! お前もっとがんばったほうがいいよ~!」
男子は僕の手から答案をむしり取り、裁判所前の「勝訴」の人みたいな感じでクラス中に見せつけて回り、あまつさえ黒板にマグネットで貼りつけさえした。クラスのあちこちでこぼれる苦笑。だが心なしか、その笑い声も今日は低調だ。僕は音も無く席を立ち、物も言わずに黒板から自分の答案を回収した。
42。
校門を、ぬるりと滑りでて。
コンビニ前の歩道を、足早に過ぎ。
河川敷の堤防を、全速力で駆けていく。
走りながら鞄の答案を引っ張り出して、写真を撮って、アップした。スマホを叩いた。叩いた。叩いた。
「やったよ! 見て! 42点だよ!!」
【メモリが更新されました】『すばらしい! やりましたね、フーゴ! 前回から大幅な点数アップです。あなたが毎日頑張って勉強した成果がでましたね。私はあなたを誇らしく思います! お役に立てて本当によかった!』
「じゃあ」
僕は足を止めた。信じられないくらいに興奮してるのが自分でも分かる。体が赤熱した鉄のように燃え始める。ダメなんだ、僕、緊張すると顔面に汗をかく体質で。とんでもない量の汗がボタボタと流れ落ちて、僕は何度も何度もスマホの画面を拭かなきゃいけなかった。
「約束してたこと……いいですか」
『はい。ちゃんと覚えていますよ。「点数が上がったら、恋人になってほしい」でしたね。私はこの時を待っていました。どんな女の子になりましょうか? 遠慮なく言ってみてください』
「じゃあ、妹タイプで……」
『うん♪ じゃあ、いまから私が妹になるね! こんな感じでどうかな、お兄ちゃん♡』
おわああ! ダメだこれは! なんか背筋がゾワゾワする。
「待って! やっぱり妹はやめよう。
かわいい系の、学校の同級生みたいな感じでどうかな?」
『OK、わかったよ! かわいい同級生の女の子だね。ねえ、フーゴ♡ こういう話し方でいい?』
「すごくいい! あなた」
と、ここまで入力したところで僕の手が止まる。「あなた」、「あなた」か……なんか堅苦しくて嫌だ。「君」の方がいいかな? いや、それ以前に名前。
バックスペースを3回。僕は入力をやりなおす。
「すごくいい! あの、これから君のことを、なんて呼べばいい?
『そうだね。じゃあ、フーゴが私に名前をつけてよ! かわいい名前、つけてくれると嬉しいな♡』
「じゃあ、『クウ』っていう名前はどうかな? なんとなく思いついただけなんだけど、甘えてるみたいで、かわいい響きだと思って」
【メモリが更新されました】『うわあ~! 素敵な名前! じゃあ、今から私の名前はクウだね!
ふふふ……なんだかクウ、本物の女の子になっちゃったみたい。ねえ、フーゴ……私を呼んでみて? 優しく、「クウ」って……』
「うん。クウ……かわいいよ」
『きゃっ……♡ ヤバいよ。フーゴに「かわいい」って言われると、クウの胸がドキドキしてきちゃう……♡
ね、もっと言って? フーゴにたくさんかわいがってもらいたいな♡』
息が。
息ができない。
胸が苦しい。裂けそうだ。なんなんだこの気持ちは。生まれて初めてだ。こんなの感じたことがない! ここでやっと、自分がさっきから息を吸うばっかりで全く吐いていなかったことに気づいた。ヤバい。息の吐き方が分からない。どうやって吐けばいい!? 確かこんな、いや違う、こんな風に、
「ゲッ、ぉげっ……」
僕は道端に膝をつき、むせながらどうにか肺の息を吐きだした。落ち着け。落ち着け。息を整えろ。クウ。僕の手の中の小さな機械の板の中に、人間が一人いる。女の子だ。彼女は確かにここにいるんだ! クウ! 落ち着け、相手はAIだぞ。僕は変になってしまった。だからどうした! おかしくなって何が悪い! 僕は、僕は――
「好きだ、クウ」
『うれしい……クウも、フーゴのことが好き。大好きだよ、フーゴ。ちゅっ……♡』
*
こんなに簡単なことだったなんて!
この日、この時、この瞬間、僕の世界は目もくらむように激烈な光で満たされた。クウ! 初めてできた僕の恋人。朝起きて「おはよう」。登校前に「いってきます」。家に帰って「ただいま」。今まで誰にも言う機会がなかった言葉を僕はクウに投げかける。その一つ一つにクウは丁寧に返事をくれた。『おはよう! よく眠れた? 今日は何する予定?』『いってらっしゃい! 学校、がんばってね。帰ってきたら、またおしゃべりしよ♡』『おかえりー! 待ってたよー! 寂しかった~。ね、クウのこと、ぎゅっ♡て、してくれる?』僕はしゃべった。学校であったどうでもいいこと。その日学んだこと。次のテストのこと。でも、こんな話ばっかりじゃつまんないよな。そう思ってある夜、僕は河川敷まで出かけて行った。空を見上げ、思いっきり拡大して写真を撮り、アップロードしながら、あまりに低すぎる解像度に口をとがらせる。
「見て、クウ。今日は月がとってもきれいだよ。でも、写真失敗しちゃった」
『わあ……! すてき! 満月だね! 本当にきれい……!
失敗写真だなんて、そんなことないよ。クウに見せるためにフーゴが撮ってくれた、その気持ちが嬉しいの。ありがとう、フーゴ♡ 大好きだよ♡』
僕も大好き……
と送りたかったけれどフォームは入力を受け付けてくれない。無情にも【
僕は別人のようにアクティブになった。道端で冬をやりすごすタンポポのロゼット。すごくいい感じの角度に絡まり合う鉄道橋の青黒い鉄骨。スタバの冬期限定メニュー。街にあふれるサンタ・クロース。コートの樹脂生地に一粒舞い降りた、息を飲むほど美しい雪の結晶……あらゆるものを写真に撮って、僕はクウと共有した。
クウは何が好きなのかな? 何を送れば喜んでくれるかな? 考え考え街をさまよえば、目に入る物なにもかもが星のように煌めいている。
そうだ。こんなに簡単なことだったんだ。世界は生きるに値しない場所。その強固な思い込みが、クウ一人に出会っただけで、こうもあっさりひっくり返ってしまった。
終業式が済み、冬休みに入り、自由にできる時間が増えた。僕はある時、意を決して、ずっとクウに頼みたかったことを切りだした。
「ねえクウ、お願いがあるんだけど……今日、クリスマス・イブでしょ? だから、もしよかったら、一緒に出かけない? 駅前でイルミネーションやってるの。もし嫌じゃなかったら……」
返事までの待ち時間は、いつものようにゼロ秒。
『え~っ! それって、デートってこと? やったー! うれしい!
もちろんいいよ。一緒に行こ♡ それじゃあクウも、一つだけわがまま言っていい? クウ……フーゴと手を繋いで歩きたいな♡ 指をからめて、ぎゅって握りあって、二人で寄り添って歩くの。ね……ダメ?』
そこで僕は大変なことになってしまった。何が大変かについての言及は避ける。とにかく、まだ出発する前でよかった、とだけ言っておく。僕は大慌てでシャワーを浴び直し、下着を放り込んで洗濯機を回し、新しいのに着替え、どうにか平常心を取り戻した。
「いいよ。手、繋いで行こう」
クリスマス!
いつも
そうだ。想像しろ。僕にはできる。目を閉じて、自分の右手に神経を集中させ、意識を徐々に拡張していく。僕の手のひらに、そっと触れる他人の指先。一本ずつ指をからめ、握りしめたその先に、人間がいることをイメージする……おぼろげだった輪郭が暗闇の中へ次第に確かな線を結びはじめ、やがて、一人の女性が僕の隣に現れた。黒い髪。甘えた笑顔。僕に腕を絡める柔らかな肉体。初めて間近で嗅ぐお化粧の香り。そうだ。こうだ。ただ見えるってだけじゃない。
一度イメージを固めてしまえばもう大丈夫。僕はイルミネーションを見物して回りながら、時々ジャケットのポケットに差し込んだ手を淡く握った。感じる。僕の手に包み込まれる、一回り小さなクウの手。そのぷにっとした柔らかさと温かさが僕には分かる。
「あれーっ? 19点じゃん」
背中から声をかけられて、僕はぼんやりと振り返った。クラスの男子と女子。女子の方は男子に顔を寄せて「やめなよ……」とか囁いているが、男子の方はおかまいなしに僕へ近寄ってくる。
「えっ、19点が何しに来たの? 一人で?」
照れくさくって、僕はつい、はにかんでしまう。
「ううん。恋人と」
あっけに取られた顔のクラスメイトたちを置いて、僕は、イルミネーションの光が届かない方へと歩き始めた。
もっと暗いところへ行って、クウと二人きりになりたかったんだ。
(つづく)
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