想い喰らわば血肉まで

朽葉陽々

1

 辻野つじの橙牙とうがは目を擦った。

 今朝もいつも通り、はたらきの鈍い頭を抱えて、重い躰を引き摺って登校することを考えると、それだけで溜め息が出そうになる。ついでに欠伸もしながら、橙牙は制服に着替えた。ネクタイを締め終わってカーテンを開ければ、やたらに眩しい陽射しがもう暑い。顔を顰めて部屋を出る。

 家の中は静まり返っている。両親が出張に行って、もう三ヶ月。不在には慣れ切っていた。

 適当に顔を洗って、歯を磨く。そんなことをしても、瞼が軽くならないことなんてもう分かっているのだけれど。

 もう一度欠伸。鞄を手に取ったところで、玄関のチャイムが鳴る。重い踵を引き摺るように向かう。のろのろと靴を履いて扉を開けると、いつも通り、少女の姿がある。

「おはよう、とうくん」

「……おはよう、麻屋あさや

「もう、日菜子ひなこで良いってば。昔はそう呼んでくれてたじゃない」

 高校一年にもなって、異性の同級生を素直に下の名前で呼べる奴はそういない。そう物申したくなりながら、結局言えずに、橙牙はもう一度欠伸を漏らした。

「橙くん、また夜更かししたでしょう。ちゃんと寝なきゃ駄目だよ」

「……仕方ないだろ、眠れないんだから……」

 嘘ではない。昨夜だって、眠気はずっと訪れなかった。やっと値付けたのは日の出も終わった頃だったのだ。

「その様子じゃあ、朝ご飯も食べてないよね? えーっと……はいこれ」

 日菜子は小さな保冷バッグの中から、おにぎりを一つ差し出した。橙牙は軽く手を振ってそれを拒む。

「いいって。それ、お前の昼飯だろ。足りない栄養は昼に摂る」

「そんなこと言って、どうせ昼ご飯だって真面に食べないくせに……。大丈夫、橙くんにあげようと思って、多めに作って来てるから」

 橙牙が振った手を、日菜子はそっと捕らえる。そしておにぎりを掴ませた。

「だから、ちゃんと食べること! いいね?」

「……分かったよ。ありがとな」

 これを食べてしまえば、昼食は抜かざるを得ないだろうが。それでも受け取れば、日菜子はにこり、と晴れやかな笑みを浮かべた。少し幼い顔立ちによく似合う、純な笑み。

「橙くんって、いつからそんな感じになったの? 春に久し振りに会ったとき、すごく雰囲気変わっててびっくりしたよ」

 小学校低学年から、高校生へ。それだけの時間が経って、何も変わらない人間なんていないんじゃあないか。日菜子だって、変わっていないのは笑い方くらいのものだ。あの頃に比べて随分世話焼きになったし、よく喋るようにもなった。

「……そんなに変わったかな、俺」

「うん、結構違うよ。昔はもっと元気だったし、もうちょっと強引だったし……あ、でも、優しいところは変わらないよね」

「別に、優しくなんて……」

 橙牙には、自分が優しいなんて思えない。寧ろ冷たい、乾いた性質だと思っている。少なくとも、今年の春、日菜子が名乗っても、すぐに思い出せなかったくらいには。

 向けられた好意に、同じだけの好意を返せなかった。そんな自分に、日菜子は今も尚、さらなる好意を向けてくれている。そんな彼女の方が、自分なんかよりよっぽど優しいと思うのだが。

「……なあ。麻屋は、何で俺に優しいんだ?」

 ふと思い浮かんだ疑問を投げかけた。

 声が帰らない、と思ったら、彼女はいつの間にか足を止めていたらしい。振り向いて見れば、数歩分後ろで、日菜子はあんぐりと口を開けていた。

「麻屋?」

「変わったとこ、まだあった。……前より、鈍感になったよね……」

「は? それって、」

「ほら、早く行こう。遅刻するよ」

 少し立ち止まった程度で遅刻しそうになるほど、時間に余裕が無いわけがない。二人とも、朝練があるような部活に参加しているわけでもない。訝る橙牙を、日菜子は駆け足で急かす。

「ほら、急いで!」

「あ、ああ。分かった」

 日菜子の隣に並びながら、橙牙はほんの僅かに口角を上げた。

 到着と同時に頽れるかも知れない、自分の体力の無さを嘲る笑みだった。

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