序幕

1

 火が燃ゆる。

 夜闇の中に、穏やかに、熱を持って。

 静かに、されど、強く。ひらひらと、燃えてゆく。風に、夜に、深く続く闇に揺られる。

 火亜ひあがそこに唇を寄せて、ふっと吹き消した。

 固い結界に守られた部屋の中で、横になっていた夜目の効くそよぎがぼんやりと瞳を開ける。

「消していただかなくとも、私は十分眠れますが」

「いや、僕が消したかったんだ。このほうが、街明かりがよく見えるだろう?」

 火亜はひらりと袖を翻して、窓際に歩み寄る。

 丸い窓から差し込む朱色の明かり、黄の明かり、橙の灯火。

 地獄に生きる、息づくいのちが灯した、居場所を示すたくさんの火と、居場所を照らすたくさんの火が、窓の外で海のように揺れている。

「この景色を見るのが好きなんだ。それに、僕はこれからこの人たちに寄り添って生きることになるから、こうして実際に目で見たほうが、心を決められる。覚悟ができる」

 戦は小さく瞬きをして、明かりにぼんやりと縁取られるその姿を見ていた。

 火亜は窓の外から戦に視線を伸ばして、穏やかに笑う。

「今日はいろいろあって、疲れただろう。ゆっくり休んで」

「私より、火亜様のほうが疲れているのではないですか?」

「そんなことはないさ」

 窓際の壁にもたれかかる火亜を、戦はじっと眺める。

 今日は、泰山府君の就任式だった。午後に式が終わって、もう火亜は今、泰山府君の地位についている。明日の朝になれば、さっそく仕事が始まるだろう。

 泰山府君とは道教において人の寿命と福禄を司る神のことだが、そちらは今は泰山王と名が変わり、十王の一人になっている。火亜が就任したのはその泰山王とは別に、閻魔大王に次ぐ地獄の重職として定められた泰山府君だ。

 冥界の最高権力者として地獄の大事に対処し、閻魔大王がおはします閻魔王宮やその城下町、下町、三途の川周辺まで含めた地獄のあらゆる民の心に寄り添って、大小問わず事件や問題を解決する仕事。また、現世で泰山府君祭が行われればそこに赴き、延命や治癒の願いを閻魔大王に取り次ぐ役目も担う。

 戦や火亜のなかでそれを簡単に言うなら、人を知り、人に知ってもらう仕事だ。

 そしてそんな火亜の護衛として傍につき、「火亜に血の一滴たりとも流させない」という条件で守りぬくのが、鬼頭きとう戦の仕事だった。

「あの、火亜様」

「うん?」

 戦に返す火亜の声は、外に灯るどんな灯火よりもあたたかい。

 言いたいことが、伝えたいことが、たくさんあった。

 いくつもあって、だけどどれも、声にするのは違う気がして、結局そのすべてをこめて、一言だけ呟く。

「頑張って、ください。私も、頑張ります」

「……ああ、そうだね。頑張ろう、お互いに」

 言葉にしたいことがいくつもあった。

 だけどどれも、言葉にしたら違ってしまう気がして、そのまま伝えられない気がして、戦は寝返りをうつ。

 火亜は窓際の壁にもたれかかって、遠い眼差しで、これから少しずつ知っていくことになる広い世界を眺めていた。

「戦、まだ起きてる?」

「はい」

「ねえ、戦。そのままでいいから、少しだけ聞いて」

 戦は壁を伝う結界の模様を眺めたまま、はい、とほとんど吐息のような声を吐いた。

「……君が、一緒でいてくれてよかったと思うよ。色々思うことはあるけれど、今はただ、それだけが一番大きい」

「はい」

「僕と、また――会ってくれて、嬉しかった」

「はい」

 戦はくるりと体を動かして、天井を見つめた。火亜のほうは見たいけれど、見ない。

「だから、そうだな。……明日から、頑張ろうか」

「はい」

 はっきりと強く返事をして、目を閉じる。窓の外を見ていた火亜も、壁にもたれたまますっと瞼を閉じた。

「おやすみ、戦。また明日」

「おやすみなさい、火亜様」

 すぐに、寝息が立ち始めた。

 とく、とく、優しい鼓動が脈を打つ。


 二月を迎えた夜の空が、晴れ渡って澄んでいた。

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