第六節 玲瓏に浮かぶゴシック


 六月二十一日土曜日の朝──清澄せいちょうな霧の中をとう真理亜まりあは歩いている。


 朽ち葉が蔽う鋪石しきいしの道の外は、樹高三十メートルはあるブナの原生林。優しげなむらから朝陽がこぼれて、霞む大気を薄明るませている。土肌には血管めいた根が盛り上がり、鳥のさえずりも可愛らしい。

 制服姿に真紅のマントを羽織った灯はフードを被り、灯りを点した火屋ほや付き燭台を持っている。並んで歩く真理亜も同じ姿。早朝、寮室を訪ねてきた真理亜から装い一式を受け取り、禁域に導き入れられていた。


 危険と誘惑を湛えた原生林はいつもそばにあったけれど、学院との境は鉄柵で囲われ、各所の門にも鍵が掛けられていた。古びた鍵で門が開かれたとき、怖ろしいのに魅了されていた。


 禁域に入ってから口数少なくなった真理亜を見て、

「この先に礼拝堂があるんですか」

 真紅のフードから柔和な顔が覗き、

「ええ。しゃ女学院が造られたとき、迦陵かりょう様をおまつりするために建てられたの。禁域の離れね」

「誰か聖人様のこと?」

「いいえ。キリスト教とは関係なくて、この跋識山ばつしきざんの土地神様ね」

「民間信仰の?」

「はい。とても古いものなのだそうですよ」


 灯は生まれも育ちも東京。倶舎女学院のある青森県に来たのは入学試験を受けたときが初めて。現地の伝承や信仰にも詳しくなかった。


「ねえ、灯ちゃんはオシラサマって知ってらして?」

「え? いいえ」

「このあたりに古くから伝わる屋敷神なの。婦人病を治してくれたり、子供を守ってくれたり、豊作をもたらしてくれるんですって」

しきわらみたいな?」

「おうちに祀られているところは一緒かもしれません。でもね、オシラサマはわらわじゃないんです」

「どんな姿なんですか」

「それがね、くわの木で作られたお人形さんなんですって。対になって祀られることが多くて、姿は色々みたいです。女の子とお馬さんのペアが多いそうね」

「なにか由来が?」


 真理亜は待っていましたとばかりに、

「昔このあたりは良馬りょうばの産地だったの。おうちにはうまやもあって、人とお馬さんは家族同然の暮らしをしていたんですって。そんなある日、女の子が、育てていたお馬さんのことを好きになったの」

「ペットを溺愛するみたいに?」

 真理亜はくびを振り、

「いいえ。その子とお馬さんは夫婦の契りを結んだそうよ」

「え、獣姦じゅうかんしちゃったんですか」

 ──あっ、やっば。

 口元を手で覆う。少々はしたない言葉だったから。


 真理亜は気分を害したふうもなく微笑み、

「そこまではよかったのかもしれないけれど。同衾どうきんを重ねているうちに、お父様にバレてしまったの。お父様はそのことを許せなかった。お馬さんを殺して、剥いだ皮を桑の木に吊るしたの」

 口から手を離し、息を呑んだ。

「女の子が取りすがって泣き伏すと、生皮はその体を包んで天に昇っていった。それから桑の木でふたりのお人形を作ってお祀りするようになったそうよ」


「なんだか心の狭い父親ですね。獣姦くらい許してあげられなかったのかな」

 真理亜は左手で口元を覆って吹き出した。

「灯ちゃん、その発想はおもしろすぎます。でも、お馬さんはおうちの財産ですもの、殺してしまうのはあんまりよね。だから嫉妬のお話だって思いました。お父様は娘さんのことを好きだったの。異性として」

「ああ、なるほど。それだとしっくりくるかも」

 ──あれ? だとしても倫理的にはアレな結論じゃない?

 自分の感性が逸している自覚はあるけれど真理亜も相当だ。

「迦陵様はオシラサマの伝承が変化していったものといわれていて──あら、もう着いてしまいました」


 つられて前を見ると、道がひらけて、青い水面みのもきらめいていた。


「どうなってるの。宝石みたい」

「綺麗でしょう。ほら、あそこがセントイノセント礼拝堂です」

 池の中央を指し示される。

 石橋で繋がる中島に建物があった。前後左右に象牙色のとうが延びている。学院内の聖堂よりこぢんまりしているけれど、壁の黒ずみと蔓草つるくさには年月としつきの重みがあった。


 橋を渡り、近づいていく。

 ──なんて透明度。

 欄干から見下げた池の青さは底の水草まで見通せた。

 霧の紗幕しゃまくをくぐり、中島に到る。露台を支える柱のあいだを通り、段をのぼって木製両開き扉の前に立ち止まった。

 ノッカーを打った真理亜が右扉を引く。

「どうぞ、灯ちゃん、お先に」


 踏みると高い吹き抜けに包まれる。

 ──あ、中は広いんだ。

 床はつやめく白い石。左右に何列も長椅子が置かれて、あいだが一本の道になっている。十字路になった先──数段高くなったところに祭壇が置かれていた。その裏──突き当たりの壁には大きな十字架が掛けられている。右の壁際からは銀色のくだの束が延び上がっていた。

 ──パイプオルガンが置かれてるんだ。

 左右の壁際に聳える列柱はなかばでアーチを造り、天井で肋骨めいたはりを結合させている。窓はどこにも見当たらない。象牙色の石壁に並ぶランプが堂内を照らしていた。


 先客は六人。

 長椅子に坐る者、柱にもたれる者、床に立つ者──皆真紅のマントを羽織り、フードをはずしている。


 古色の軋みを立てて、背後で扉が閉じられた。

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