第五節 危険は誘惑と抱き合わせ

 カモミールティーの柔らかさを味わいながらカップをソーサーに置く。

 一面のガラス窓を見ると、オープンテラスの向こうに中庭と森──実質的には山、があった。

 今日──六月二十日金曜日も空は曇り。おかげで窓際でもまぶしくない。放課後は部活動に勤しむ子が多いから、カフェテリアに生徒の姿はまばら。

 昨日の衝撃を引きずったまま授業を受けきり、図書委員のお仕事は休ませてもらっていた。


 丸テーブルに置かれた洋形ようがた封筒から便箋を取り出し、広げて目を落とした。




 謹啓


 親愛なるとう様。

 迦陵かりょうの祝宴にご招待いたします。

 会場はセントイノセント礼拝堂。

 日時は六月二十一日土曜日、朝八時半。

 当日朝七時半に道具一式を持ち、寮室にお迎えに参ります。

 ご出席のほど期待しております。


 敬白

  六月十九日


 瀬戸せと 真理亜まりあ


 さかき 灯様

     だい




 祝宴の開催は明日の朝八時半。

 ──参加して大丈夫なのかなぁ。

 何度も反復した疑問を反芻はんすうする。

 乃羽のわの心理療法を受けてから精神的苦痛は軽減し、食事もれるようになっていた。昨晩寮室で食べた真理亜お手製タルトケーキは舌がとろけそうなほどの美味だった。

 招待状の筆跡は箱に添えられていた手紙と同じ。

 ──綺麗な字だなあ。

 関係のないことを考えだしたとき、


「お向かい、よろしいかしら」


 声を仰ぐとれい姿が立っていた。

 細身の高頭身にセーラー白ブラウスとチェック柄プリーツミニスカートがよく似合っている。つややかな黒髪が背に下ろされていた。表情は硬めで目元にも険があったけれど、お人形さんのようだから受け容れさせる力があった。

 小夜の顔が伏せ、上目遣いに見つめられる。

貴女あなたにはそういう指向を持つ自由があるけれど、少し恥ずかしいわ」

 ──やっば、見つめすぎちゃった!?

「あっ、ごめん。そんなんじゃなくて! どうぞ、坐って」

 両手を振って立ち、対面の椅子を勧めた。

 ──からかってるだけだよね。


 水の入ったグラスと水色のポーチを丸テーブルに置いた小夜は、椅子を引いて上品なしぐさで腰を下ろした。

「元気そうでよかったわ。寝込んでいたらどうしようって心配だったの」

 灯も椅子に坐る。

「ホント? 意外と人情味あるんだ」

「随分ね。せっかく来てあげたのに」

「小夜だってあそこにいたんだよ。具合悪くならなかった?」

「貴女ほど繊細じゃないから、平気」

「ならいいけど、強がったりしないでね」


 小夜は周りを窺う。

「ところで、警察は来ないみたいね」

「え? あっ、そういえば。昨日連絡したなら、もう捜査に来てるはずだよね」

 今日になっても警察官は見かけなかった。市街地からは遠くても、駅からは車で三十分ほどなのに。

 灯も教師たちの心許こころもとない対応を不満に思って外部に連絡を取ろうとしたけれど、電話の使用申請は通らなかった。それどころか学院外へ出る許可も下りなかったのだ。


「理事長様が揉み消したか」


 素知らぬ言葉に身を乗り出し、

「そんな、まさか!」

「しっ、声が大きいわ」

 人差し指を口元に当てて立ち上がった小夜は、横の椅子を灯の隣まで移動させてくると、お尻を撫で下ろしながら腰を下ろした。

 耳元に唇が近づき、

「悪いうわさを聞いたことはない?」

「ひゃうんっ!」

「ちょっと、変な声出さないでくれる。私がヘンタイみたいじゃない」

 耳を押さえ、間近の美貌を見つめる。

「ごめん、耳をくすぐられるの苦手で。悪いうわさって?」

「退学した子たちは教師に拉致されてるってお話」

「ああ、それ。聞いたことあるけど、七不思議みたいなものでしょ」


 小夜は目を細める。

「根拠があるっていったら?」

「どんな?」

「貴女、この学院の経営母体がなにをしているか知っていて?」

「理事長様のご実家のこと?」

「そう。白銀しろがねね」

 旧財閥系の企業グループだ。

 GHQによる解体のあとも一族支配体制を色濃く残し、世界経済に強い影響力を持っていた。しゃ女学院理事長──白銀るなは白銀本家の出。


「いっぱいありすぎて。産業関連のほとんどなんじゃ」

「私が聞いたうわさはこう。白銀系列の製薬会社で画期的な新薬が開発される。だけど被験者が不足していた」

「理事長様が人体実験のためにさらわせたっていうの?」

「そう」

「そんな。けんで済むものを、ひとさらいする必要ないでしょ」

「大きなリスクがある臨床試験だったのかもしれないわ」

「証拠があるの?」

「ないわ。事実無根なら誹謗中傷ね」


 少し視線をはずした小夜は再びこちらを見つめると、いたずらっぽく笑む。

「ねえ、びっくりさせてあげましょうか」

「まだなにかあるの」

「これをご覧になりませ、お姫様」

 ポーチから取り出された洋形封筒が目前に置かれる。

 灯が丸テーブルに置いていたものと同じものだった。

「私も誘われたの。あきら様からよ」

「玲様から!?」


 理事長の娘──白銀玲は灯たちと同じ一年生。春から生徒会執行部書記を務めている。灯のような本の虫ではなく、センスで得点を重ねる天才型で、学業成績は小夜と一、二を競うほど。猫のように気怠げで、世をはかなんだ印象の子だった。


「玲様、小夜のこと好きだったの!?」

「残念ながら違ったわ。迦陵様は学問の神様なんですって。祝宴には学業の友にふさわしい人を招くのだとか」

「どういうこと。真理亜様のお話と随分違うね」

「そうね。気になって尋ねてみたのだけれど、迦陵様には複数の顔があるらしいの。様々なアヴァターラに姿を変えるヴィシュヌ神のように、色々なご利益を持つらしいわ」

「捉えどころのない話だね。生徒会独自の神様なのかなぁ」

「そうでしょ。名前こそ迦陵かりょうびんからったのでしょうけれど、内容は倶舎女学院固有のものね。その伝統行事に巻きこまれたのが私たち」


 小夜の左胸元には隷者れいしゃのバッチが付けられていた。


「受けちゃったんだね、隷者の件」

「拒否権なんてないもの。断って退学処分にされても困るわ」

「うん、そうなんだよねぇ」

「まあここは、禁域の密儀に参加できることを喜んでみるのはどうかしら」

「前向きだなぁ。ねえ小夜」

「なあに」

「玲様、おう様のことはなにか知ってた?」

「退学されたとおっしゃっていたわ」

「そうかぁ。じゃあ退学が決まったあと、誰かが」

「いずれにしても雲をつかむような話ね」

「うん。あんなことした人がまだここにいると思うと怖くなるよ」

「内部の者のわざと決まったわけじゃないわ」

「通り魔だったらもっと怖いよ。死体をあんなにするなんて計画的でしょ。動機も分からないし」


 沈思が落ちた。


 ポーチからピルケースを出した小夜は、白い錠剤をひとつ取り出し、口に含む。

 グラスが傾けられ、細い喉が上下した。


 軽やかな気配が迫る。

「やっほ~、灯ちゃん、小夜ちゃん! 聴いて聴いて、ビックニュース!」

れき!?」

 小柄な少女──がみ礫が溌溂はつらつと立っていた。

「じゃ~ん、これな~んだ!」

 差し出された洋形封筒に目を見開く。

「ええ~!? 礫もなの!?」

 意外そうな顔をする礫に小夜が丸テーブルの上を示す。

「うっそ! ふたりも誘われてるの!?」

「うん、私は真理亜様、小夜は玲様からの招待だよ」

「へぇ~、新隷者の誕生ラッシュじゃん。不始末でもあったのかな」


「そういえば、以前の隷者の子たちは退学になったそうね」


「そうなの?」

 問うと小夜がこちらを見る。

「知らなかったの? 真理亜様の隷者あい様、永遠とわ様の隷者紗枝さえ様、まゆ様の隷者けい様、玲様の隷者よし様──みんな学院からいなくなったわ。四月下旬に選ばれてから、特権を享受できたのはわずか二カ月ほどというわけね」

「そんな」

 そこまで隷者の退学が続いては、拉致や人体実験のうわさも立とうものだ。そこに生徒会長美桜の殺害と、その隷者光莉の退学まで加わったのなら。

 胃のに冷たいものが込み上げてくる。


 礫は灯の対面の席に腰を下ろす。

「でもま、おかげでボクたち特権階級だよ。これからたのしーことできそうじゃん」

「う~ん、でも、必ずしもそうともいえないか──ひゃん!」

 かたわらの小夜にいきなり右乳房を揉み込まれて変な声が出る。

 ──美桜様のことは話すなってこと?


 素知らぬ美貌が礫を見る。

「礫、貴女を隷者に選んだのはどなたなのかしら」

「繭様だよ、会計の交縁姫こうえんひめ

「わっ、莫迦ばか、そんな悪口言ったら」

「え、これって悪口なの?」

 ──意味が分からなくて使ってるの?


 生徒会執行部会計──二年生の貝塚かいづか繭には学外で春をひさいでいるうわさがあった。執行部員の権力が不品行を黙認させているのみならず、生徒を顧客に斡旋している疑惑までささやかれていたのだ。

「まあ、根拠もなく言ったら、その人の名誉を棄損することにはなるかしら」

 小夜は華奢な脚を組む。

「ところで、迦陵様のことは聞いた?」

「礼拝堂にまつられてる遊戯の神様のことでしょ。遊び友達にしたい子を招いてお祈りすると、ゲームに勝てるんだってさ」

 

 

 

 恋愛成就、学力向上、必勝祈願。迦陵様のご利益は多岐に渡り、つかみどころもない。


 事件隠蔽の意図は明確。

 美桜は誰に殺害・解体されたのか。

 教職員たちが警察に通報しないのはなぜか。

 迦陵の祝宴はなにをするための儀式なのか。

 灯、小夜、礫が隷者になったことは正しかったのか。


 疑問の解答は得られないまま、六月二十日金曜日は終わった。

 平穏な学院風景は、崩壊の予兆をはらむ偽りの姿に思えてならなかったのだ。

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