第三節 貴女は人間の条件を知っていて?

 十二時五十分のチャイムが鳴る。

 グループに別れた生徒たちは次々と教室を出ていった。

 学内カフェテリアの利用は無料。栄養管理上の制限は受けるけれど、ファミリーレストランよりずっと良いものが出る。それなのに悲鳴が上がったのは、発注されていた食材が松阪牛まつさかうしのサーロインだからだ。

 

 みんなが出ていったあとには、取り残されたとう小夜さよがいるだけ──と思ったられきもいた。

ざきさんたちと行かないの?」

「うん、今日は灯ちゃんたちとの気分」

「私もご一緒するけれど、よいのかしら」

「ぜんぜんオーケーだよ。三人で食べよう」

「そう」

 ──めずらしい子だな。


 小夜は灯より敬遠されていた。学年トップの成績を維持するほど頭がいいのに、舌鋒に手心を加えないから、誰も近づきたがらない有様になっていたのだ。

 いじめのターゲットにされないか心配だったけれど、弁論で小夜を打ち負かせる生徒はいなかったし、仲間はずれにされることにも苦痛を感じていないようだから、破局的事態にはならずに済んでいるようだった。


 そんな小夜となぜ親しくなったかといえば。




     †



「ねえ、貴女あなた、人はどうして人間になるのだと思う?」


 なにを問われたのか分からなかった。

 本に読みふけって意識を外に繋げられなかったのだ。

 カウンターに着いた灯の前に女の子が立っていた。

 ──うわっ、やっちゃった。

「あ、貸出ですか」

 入学して間もない四月下旬──図書委員になった灯は放課後の受付を担当していた。狙いどおりの余暇よかを使い読書をしていたのだ。

影山かげやま──さん?」

「あら、名前を憶えていてくれたの。光栄だわ」

「うん。私、色々憶えるのは得意だから」

「では物覚えのよい貴女にお聞きしたいわ。人はどうして人間になるのかしら」

 ──なにを言ってるんだろう、この子。


 影山小夜とは同じクラス。綺麗な子揃いの1年C組でも頭ひとつ抜けた美人だから、注目してはいたのだ。

「そんなこと考えたこともなかった。誰だって人として生まれるんだから、人間以外にはなれないんじゃないかな」

「少し違うわね。分類学のお話じゃなく、社会性について尋ねているの。人は人のあいだで生きる本性を持って生まれると思う? それとも、育つ過程で交流することを学ぶのかしら」

「ああ、そういうこと。どうかなぁ、どっちもじゃない? 交流能力の芽はみんな持って生まれるけど、それを育ててくれるのは周りの人たち──みたいな」

「凡庸な解答ね。そんなご本を読んでいるのだから、もっと独創的なご意見が聞けると思ったのに」

「期待に添えなかったらごめん。でも、どうしてそんなことを訊きたがるの」

 複雑な表情をした小夜はカウンターに本を置く。

「私は運がよかったの」

 発達心理学と自閉スペクトラム症について書かれたものだった。




     †




 なぜかは分からない。小夜に訊いてもはぐらかされるだろう。付かず離れずの猫のような関係は、この二か月続いている。

 支配と無縁な距離感は気楽なものだった。




 学院棟から出ると前庭の鋪石しきいしが広がる。

 本州北端の山地を切り拓いた立地だから、夏でも気候はひんやり。雨のんだ曇り空の下にめた霧が生徒たちの姿を溶かしていた。

 カフェテリアのあるレクリエーション棟に向かい、森の歩道を進んだ。

 木立の奥からせせらぎが聞える。水脈は到るところに張りめぐらされ、溢れていた。


「ねえ、あれって真理亜まりあ様たちじゃない?」

 立ち止まった礫が樹間このまを指差す。

 倣うと霧がとざす葉蔭に鬼火が揺らめいていた。真紅のマント姿も何人か見え隠れする。皆フードを目深に被り、火屋ほや付き燭台を持っているのだ。

「生徒会執行部の人たち」

 霧の中を進む姿は四人。

 ──ひとり足りないんだ。

 生徒会執行部の役職は、生徒会長、副会長、書記、会計、庶務の五つ。

 ──本当は五人いないといけないのに。

 マント姿は四つの光点になり、白く溶けて見えなくなった。


「行っちゃった~。時々見かけるけど、怪しいよね~、アレ」

「特権をける代償に、禁域の礼拝堂で催される儀式への参加を義務付けられているんでしたっけ。理事長様のご趣味なのでしょうけれど、いかがわしい趣向ね」

「うん、なにやってるか分かんないから、みんな裏で好き勝手言ってるよ」

「ねえ、執行部の人たち、四人だったよね」

「そ~いえばそ~だね。誰かお休みだったのかな」

「永遠の──ね」

 礫は首を傾げる。

 灯にはよく分かった。

 ──やっぱり、殺されていたのはおう様なんだ。

 

 ということは学院内に人殺しがいるのだろうか?


 カフェテリアでの食事中、その思いにとらわれる。

 口に運んだものの味は分からなくなってしまった。




 立て揃えられた人差し指と中指が左右に動いている。


 振り子めいた規則性を眼球だけで追っていると、脳裏にこびり付く切断死体の像が遠退いていく。心の苦痛も薄らいでいった。

 指が目前から離される。

「嘘みたい。楽になった」

 深く椅子にもたれ、呆然とした。

 対面して椅子に坐る若いひとが、おっとりしたかんばせに安堵を浮かべ、

「ね、本当でしたでしょう」

 養護教諭の松浦まつうら乃羽のわだ。

 胸の谷間を見せたサマーニットと紺色ロングスカートを着て、白衣を羽織っている。


「どんな原理なんですか。さっきまであんなにつらかったのに」

「EMDR──トラウマの苦痛を軽減させるのに有効な心理療法です。だけど、どうして有効なのかは解明されていなかったりします」

 右指が眼鏡のフレームを押し上げる。

「でも、よく効いたでしょう」


 灯はカフェテリアで完全にへたばってしまった。小夜と礫に支えられて学院棟の保健室まで行くと、在室していた乃羽が処置を始めてくれた。ワンセッションに九十分掛かるから、礫は午後の授業に戻って、小夜はベッドで休んでいることになったのだ。


「つらかったでしょう、あんなものを見たら」

「あの、優愛ゆあちゃん──柏木かしわぎ先生はどうしました? 警察を呼んだんですか?」

 乃羽は唇に人差し指を当てる。

「大丈夫です。今回の件は、すべて教職員で処理しますから。もう安心していいんです」

「なにか知ってるんですね」

「あれは、さかきさんたち一般の生徒に危害が及ぶものではありませんから」

「それじゃ美桜様は一般の生徒じゃないっていうんですか!」


 じゃらり、と音が響く。

「うるさいわね。眠れないじゃない」

 ベッドスペースとの仕切りカーテンを開いて小夜が立っていた。

「ごめん、起こしちゃった?」

「まあね。でも、施術しじゅつは終わったみたいね」

「うん、楽になった」

「ならよかった。さっきの貴女、生きてるように見えなかったから」

 小夜の瞳はまだ眠たそう。こまめにお昼寝しないと持たない子なのだ。一緒にいても気絶するように眠り出すことがあった。逆に夜は眠れないことが多いみたくて、それじゃ寂しいよ──と思っていたのだ。


「ちょうどよかった。今度は影山かげやまさんの番。榊さんと代わって」

「あの──じゃあ、私は」

「授業に戻ってもいいですけれど、横になっていたかったらベッドを使っていて」

「そうさせてもらいます」

 体は休息を求めていた。生理が早まるのかもしれない。

「よかったわね。さぼっていいって言ってくれて」

 小夜のいらいを聞き流して境を越え、仕切りカーテンを閉めた。


 静けさのなかにはベッドが三台。単独で閉められるカーテンはどれも開かれていた。右横の窓から見えるのは霧がめた木立だけ。

 そちらに歩み、寝乱れた掛布団に手を這わせる。

 ほのかにぬくみがあった。

 ──あの子、いつも冷たいそぶりなのに、体は温かいんだ。

 面と向って言おうものなら、「人を冬眠中のコウモリだと思って!」と、怒られそうなことを考える。

 ──いいよね、窓際まで来ちゃったんだし。

 上履きを脱いで、ベッドにもぐり込み、枕に頭を乗せる。


 小夜の体がここにあったことに安らぎを覚えて、眠りに落ちていった。

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