第12話 送歌

送歌

竜胆りんどうの花に 蜂蜜の飛び交う季節になった

露の原へと赴く君を、クルべの渡りに送る

水は碧く 東風は薫り 雲は流れ 鳥は高く囀る

友よ この千年の天輪をこえて また見まえる日は遠くない


 同じうたを聞いたことがある、と思った。浚が安京へと帰る前の晩だったろうか。卒長たちにしこたま飲まされ、さすがの浚も足元が覚束なくなっていたので、城壁に登っていくのを見かけた時、汐は追わずにいられなかったのだ。墻にもたれるようにして夜空を見ていた浚は、やってきた汐に気がついてこの詩を口ずさんだと思う。初めて笑ったのを見て、よく覚えてはいなかった。


「贈応歌と申します」

 次に耳にしたのは、螺鈿宮で遠征へ赴くことを伝えた時だ。花水堀の舟を立った時、沫が別離の礼をして唄ったものだった。灰色の空に辺りは蒼く凪いでいて、汐は記憶をゆさぶられた。それは、何というものなのですか、と沫に問うた。

「送歌と応歌とで成っています。押韻などの技法や形式も求められますが、思いを伝え、それに応えるという一対の詩のことです。私が今申し上げたのは、古来よりよく知られた『友を送る歌』の送歌です」

「では、応歌もあると」

 左様です、と沫は教えてくれた。北の言葉は分からない。だが、それを送りたかった者の、それを唄い続けた者たちの気持ちは分かる気がした。浚もきっと幼い頃、沫から聞いたのだろう。


 北の王女は心まで凍らせた。閉じ込められた後宮は、嫉妬と差別と権謀術数の巣窟だ。外と連絡を取るために彼女が使ったのは、珀語と母語を話し、隠喩を多用する北の国の詩歌を暗号として操れる者だった。

「何度も尋ねておりますが、貴女は知らなかったのでしょう? 母親を庇っているだけだ」

 偉大なる潤帝の最後の子、北の国の王女の子を、表立って束縛するような輩は宮廷にはいない。触れることも厭われて、彼女は後宮と官庁と城外をすり抜けることができた。彼女は語り、歌い、北の国からの密使に情報を伝えていた。帝国軍は北の強力な逆襲に遭い、皇帝たちは暗殺に怯えねばならなかった。

「貴方はそうして己れを蔑み続けている」

 月光のように静かな、だが焼き切るような声音であった。浚帝は掴んだ手を振り解いた。かつて唯一心を許せる家族だった者に引き裂かれた子供を思うと、汐は何と言葉をかけていいものか判らなかった。

「官僚どもも廂家の奴らも郷爵どもも腐っている。おれが禁忌の血を言葉を継いでいると、どんな扱いを受けたかお前に知る由はない」

 叔父たちの不解な退位は滫帝と王女の策謀である。その王女は憎むべき北の国の血筋であり、黄歌城を蛮行で染めている。父からも母からも有用性を見出されず、宮中の誰からも侮蔑された。歓心を買うために、実の姉の罪を暴いた。兄たちに服従した。それでもだ。

「この国は、おれを存在しているものと見做さない。おれは純粋な珀人ではない、おれは人ですらない」

 だから奪ってやると誓った。けだものを王に祀り、無恥に犯されきった帝国となるがいい。虚栄に塗れた歴史を、おれが創り上げてやる。

「語る者と読む者の間を結ぶ物語にしか、真実は見出せません」

 沫は乱れた衣服を整えて、子守唄のように囁いた。汐は支えていた沫の身体をそっと離した。養父も卒長たちも自分のことを異民族として理解しようとしてくれる。だがこの二人はあまりにも大きなものを背負って、互いしか分かるものがいないのだ。

「今度はおれの通訳になってくれますね、叔母上」

「……どういうおつもりです、陛下」

「エルヴェニが噛んでいることは確かだ、彼の国とも交渉せねばならん」

 銀の王女の祖国はその後、勢力を伸ばしてきたエルヴェニ大公国と同盟を結んだ。珀帝国との長きに渡る争いで疲弊したところを半ば強制的に引き入れられた不平等な同盟だ。

「”抵抗者”トワノフの孫娘を、邪険にはできまい」

 浚帝が呟き、遠くで監視の鐘が鳴った。

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