第10話 夜襲
直ぐに動きは慌ただしくなった。高台に設けられた野営地の後背、東の渓谷を這い上がり、武装集団がこちらへ向かってきているという監視からの報告があったのである。
「数は」
「千未満。戦鬪に持ち込むつもりではなく、こちらを撹乱する目的であると見る」
洌准将と炊大将が話す傍らで、洳准将と汐は全軍に防御陣を敷くよう伝達する。夜襲は想定できていたが、実際のところ人数と武器が予想しにくい。エルヴェニがどれほど噛んでいるのか分からなくなってきたからだ。東の渓谷側から来ることは、可能性としては最も低いと考えられていた。
「わざわざ登ってくるなんざ、蹴落としてくれ、って言ってるようなもんだ」
レノーが舌を打つ。親軍は本陣を囲むかたちで布陣されるので、前衛で片付けられれば動かずにいいのだが、それが却っていらいらさせるらしい。
「矢が来る! 覆え!」
突如矢尻の雨が湧き上がる。なるほど、クロスボウか、と汐は呟く。クロスボウならば足場が悪くても装填できるし、素人も使いやすい。傾斜に突出する岩々に隠れてしまうのでこちら側から居場所を目視しにくい。距離を飛ぶ矢が親軍の頭上にまで降ってくる。戦車隊が手際よく盾を並べ始めたのも束の間、森に防御線を築いていた第六隊がどっと崩れた。
「何だあれは、あの角は」
西天山脈一帯に生息する高山紅鹿は、馬の登れない急峻な岩壁をも駆ける、赤みがかった体毛と大きくうねった角を持つ鹿である。この辺りの住民は馬がわりの移動手段として飼っているが、プライドが高くよそ者が乗りこなせるものではない。崖からの攻撃はやはり陽動だ。本陣に近い防衛線を突破しにきている。
「鈸姫、騎兵を」
狙いは皇帝だ。この武装集団は敵方の正規軍ではない、恐らく北から流れてきた者と地元の浮浪民の集まりだろうが、アインゲルが利用している可能性が高い。それでなければ、こちらの野営の場所や本陣・防衛線の配置を正確に知る由も無い。皇帝の側には炊大将と護衛がいる、親軍としてはその前に食い止めなければならない。鹿に騎乗している者たちの武器は長矛である。歩兵たちが薙ぎ倒されていく。重装騎兵は混戦で本領を発揮できないが、敵を引きつけている間に歩兵を後退させる。
「泥科、擲弾を前へ。敵の後方を狙って、遮断してくれ。レノー、回りこんで後続を払えるか、深追いしなくていい」
言うが早いが駆け出したレノーに続き、汐は鈸姫と騎兵たちに加わる。アインゲルの正規軍ではないだろうが、戦い慣れた者たちのようだった。養父と師父に教わるようになってから、刀を振るっている間は、必死なこともあるだろうが、あまり覚えていない。自分はものなのだと思うことにしている。帝国軍という大きな仕組みの一部分で、ひたすら敵を追うのが役割なのだ。そんな自分を冷酷な”風神”と呼び出したのは、敵軍ではなく自国軍だった。
消耗したが被害は大きくない、ということで、一応の責任が果たせたことに、汐は若干苦い息を吐いた。渓谷側の弓手たちは洌准将の部隊が蹴散らした。大した反撃はしてこなかったらしい。森から突撃してきた騎乗兵の数は見積もって二百から二百五十、分断された後方集団はレノーたちと戦闘になったが、長くは続かず後退したとのことだった。前方集団は取り囲み鈸姫の騎兵に斬られたか、捕虜となったが、逃げ切った者もいる。かなりの手練れたちだった。
「高山紅鹿はまだ食べたことがないですね、とりあえず皮は使えそうだけど」
怪我人の手当てと屍体の回収をしながら、シャラが言うので、汐は落ち着きを取り戻した。監視を二重に置き、全軍は移動を始め、将軍たちは緊急軍議を持った。汐は水浴の時間が無く、顔と甲冑を拭っただけだったが、将軍たちは気に留めなかった。
「標的は陛下でしょうが、なぜあの規模で仕掛けてきたのか疑問です」
「警告だろう。毎夜襲われるかもしれんというのは、兵たちの体力と士気を削ぐからな。あちらはゴロツキどもを使っているから、正規軍の戦力は温存されるのだろうし」
洌准将が炊大将に言うのをぼんやりと聞く。自分で思っている以上に疲労しているのかもしれない、と汐は
「早く決戦に持ち込みたいのでしょうか。こちらに火器対策をする時間を与えないということかもしれません」
洳准将の言葉に、浚帝の無感情な声が重なった。
「この度の奇襲といい、タスナ盆地での先取りといい、どうやら我が軍にも間者か密通者がいるようだな」
将軍たちは一斉に沈黙した。汐はぞっとした。遠征軍に間者がいることは避けられない。移動しながら兵や人員を補給せねばならず、内規を厳しくすれば逃亡者や味方間の衝突が増える。疑心暗鬼ほど秩序を乱す。そんなことは、ここにいる経験豊富な将軍たちなら分かっているはずだ。しかし彼らの目はまるで、ただ一人を見ているようだった。
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