第9話 駆動
北の海には”ジェラ”だとか”ジュール”とか呼ばれる怪物が住んでいる。胸から上は美しい女性で、腹から下は海蛇のよう、月の無い夜に歌い、船乗りたちを誘って海に沈めるのだ。
海か、と汐は思い出す。故郷の村は山間にあったので、小さな頃は海を見たことがなかった。長じて新兵の頃、東岸に配置されたことがあり、初めて海を見た。碧く限りなく広く。指の間から滑り落ちる水と砂は心地よくきらきらと瞬き、けれども嵐の日には清山のように高い波が船を押し潰すのだという。その向こうへいけば、もっともっと多くの国があり人がいる。見たことのない木々や花々や鳥や虫や動物がいる。自分やヒトに、どこまでもいける自由と可能性があることに、圧倒されたのだった。
「”
皇帝と将軍たちに囲まれて、砲兵長は俯いたまま枯れた声を振り絞る。汐は申し訳なく、一刻も早く浚帝と洌准将を引き離したいところなのだが、壁のように泥科と汐の間に立ち塞がっている。
「び、鋲で着火する仕掛けを油紙に包んだ火薬に繋げて、埋めて、その上を歩くと、爆発するんです……」
「しかしそれでは、味方も動けんだろう」
洌准将の重低音な問い掛けに、小柄な砲兵長はそれこそ縮み上がる。
「は、なので、先に奴隷を歩かせる、などします」
愚かな、と汐は唾棄したくなるのを押し留めた。奴隷を虐げることに、何の良点も無い。人足として働かせた方がよほど生産的であるし、そういう残酷行為は内からも外からも批判される。自分が言える立場ではないが。
「攻め上がる我々が使用する機会は無いだろうが、敵がタスナ盆地で妙な動きをしている」
浚帝が泥科の耳元に囁く。洌准将が斥候を送ったところによると、烏藩軍はタスナ盆地で塹壕を掘る以外にも
「エルヴェニでは、石油を使った”火土竜”の開発がされてるんです、火薬は寒さと湿気に弱いので」
「石油? ああ、”燃える水”のことか。厄介だな、人的損害は抑えたい」
洌准将は泥科を見据えて続ける。異民族を信用はしていないが、技能が有れば見下すこともない、洌准将は人格者であり、そういうところが汐は苦手であった。
「な、なので、タールを塗った丸太を転がそうかな、って……」
「了解した、工兵を何部隊か回そう。しかし準備が良いな」
「螺鈿宮で読んだんです、エルヴェニの情報もあって……」
「ほう、狗も食わんな」
泥科の苦し紛れの応対に、浚帝が冷ややかに眉を顰めたのを汐は見逃さなかった。螺鈿宮の奥の院、”蛮族”の資料館が浚の命で閉鎖されることを思い出す。有用性に気付けば、考え直してもらえるだろうか。
「卒長たちと共に、螺鈿宮で軍事技術書を読みました」
汐はやっとのことで割って入って言った。洌准将は既に部下を呼んでいたが、浚帝は無言で踵を返す。混沌とした予感がぶり返し、汐は立ち尽くした。
満天の星空の下、ランプの明かりを頼りにマスケット銃に油を塗りながら、泥科のぶつくさ言うのを汐は聞き流す。
「他に立派な砲兵長はいくらでもいるでしょうが、なんでおれに振るんです」
「すまん、軍議でお前が知っているようなことを言ってしまった」
泥科は東海の漁村で生まれたらしいが、食うに困って帝国軍に応募し、前線で右往左往していたところで、汐に出くわした。幼い頃から漁舟や網やら工具やらを造っていたので手先が器用で、軍に属してからは銃砲の取り扱いに長けていた。
「なんだか一気に決着を付けたい感じだね。籠城するかと思ったけど」
「エルヴェニはオルダートとも揉めているからな。もしかしたらエルヴェニが烏藩を助ける見返りは、烏藩と反皇帝派がエルヴェニを助けることなのかもしれん」
「あー……胚海か」
啓典同盟とオルダートは大洋から続く半海を挟んで対峙しているが、その半海に出る内海の一つが胚海である。つまりエルヴェニが、啓典同盟もしくはオルダートと貿易するなり連合するなりする場合、もしくは大洋への航路を欲した場合、胚海を支配することが重要なのだ。エルヴェニの北岸港は冬に凍る。現在エルヴェニの南端と胚海の間に横たわっているのが、西天山脈とカリガ高原なのであり、この一帯は啓典同盟にもオルダート帝国にも珀帝国にも属さないので、エルヴェニを胚海へ通過させることを取引に使ったのだろう。
「武器を開発したのは人間だから。使うのも人間だし」
ラムロッドを揺らしながら泥科が言う。そうだな、お前なら無理に使わないだろうからな、と汐は応える。泥科はぎょっとしたように汐を振り返った。
「旦那、そういう物言い、他のお偉いさんにしてないだろうな」
「そうか? 何が」
「旦那さあ、以前は絶対服従だっただろ。陛下に申し立てることなんて無かった。まして、おれらの方がよく分かってるみたいな」
泥科は言葉を濁した。意外なことに、汐は呆然とした。変わってしまったのは、俺なのか? どうしてだ。そうだ、従軍してからずっと、自分は争う国々の間で使われる駒、皇帝の所有物なのだと信じてきた。自分に存在意義などないのだ。故郷も失い、家族も失い、本当の名前も失い、自分というもの一切が失われてしまったと思っていたのだ。あの時、故郷の物語を読むまでは。
「本陣へお越し下さい、汐将軍」
小姓が駆けてきたので、汐の思考は中断された。ただ事ではない様子に、帯刀して立ち上がる。敵方もこちらが勘付いていることに気付いたのだろうか。静謐は、破られた。
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